2017/05/05

ダウンタウン以降の自覚

ゴールデンウィークまっただ中、今夜は新宿末廣亭の「五派で深夜」に足を運ぶ予定。
出演者は、春風亭ぴっかり、神田松之丞、三遊亭好吉、立川吉笑、桂三度。
当日券のみだ。きっとすごい行列になるだろう。

神田松之丞、立川吉笑、桂三度の3人は、ちょうど2年前のGWの夜に開催された「五派で深夜」にも出演している。

あの夜、末廣亭はいつかのCBGB(もちろん言い伝えでしか知らないけど)みたいだった。
興奮したぼくは、会がハネたあとの吉笑と歌舞伎町に流れ、逆水平チョップを交わし合い、さらに吉笑を見送ったあと、最後はタクシーに乗るつもりが区役所通りで爆睡。照りつける陽の光で目を覚ますと、カバンから何からすべてを失っており、おまけにクレジットカードも限度額ギリギリとなるン十万円まで引き出されていた(正確にはコンビニで商品券を購入されていた)。
それでも後悔はなかった。
あの夜、目撃したのは、至高の芸と呼ばれるたぐいのものではなかったが、でも間違いなく、これから何者かになる者たちの芸がゴツとぶつかり合う極上の殴り合いだった。

ほどなくして『文學界』から何か連載しませんかと誘ってもらったぼくは、「若き藝能者たち」というタイトルでエッセイ連載をはじめた。
その第一回の原稿が以下となる。

■「若き藝能者たち」連載第一回
ダウンタウン以降の自覚――立川吉笑


開場前から末広通りにはかなり長い行列ができていた。深夜寄席ではまれに見る光景ではあるが、普段よりも客層が若い。

若さはニオイにも現れていた。左右の様敷席には靴を脱いで上がるのだが、投げ出された足やスニーカーが臭うのだ。不快かといえばそうでもなく、蒸れた熱気により、立ち見までぎっしりと埋まった新宿末廣亭がライブハウスのようにさえ感じられる。

会の名は「五派で深夜」。通常の深夜寄席とちがうのは、普段は寄席に出ない立川流と円楽党の若手も出演するという点である。ゴールデンウィークまっ只中の五月一日、この夜の出演者は、立川流から立川吉笑、円楽党から三遊亭鳳笑、落語協会から初音家左吉、芸協から神田松之丞、さらに上方から元・世界のナベアツこと桂三度だった。

ダウンタウン以降の落語家として――いや、そもそも「ダウンタウン以降の藝能者である」という自己認識を持つ落語家がどれだけいるのかも怪しいところだが、少なくともその宿命を自覚的に背負い、現在のお笑いの革新性や実験性を認識した上で、落語をリブートさせようとしている吉笑が、三度との競演を意識しないわけがなく、どんな噺をぶつけてくるのかをまず見たかった。もう一人、講談の神田松之丞にも注目していた。少し前から、松之丞見るべしの声をよく聞く。そんな吉笑と松之丞を向こうに回して、三度がどんな高座を務めるのかも、もちろん気になるところだ。

ざわついた空気の中、一番手、座布団を自分で用意しての鳳笑が、今宵が会の動員記録を更新する客入りになったことを告げる。ネタは『猫と金魚』。なぜか鳳笑が引っ込んでから、高座にマイクがセッティングされる。どうも楽屋で混乱が起きているようだが、そんなハプニングもあいまってライブ感は加速する中、二番手で吉笑が登場した。

「やっばり寄席は、立川流と円楽党にはキビしいですねえ」

観客は爆笑。会場の歯車が噛み合い、ぎりぎりと回り出す音が聞こえた。

吉笑が掛けたネタは『舌打たず』。八っつあんがご隠居を訪ねる。

「どうも! いますか?」

「おや、八っつあんかい。まあ、お上がりよ」

古典落語の『道灌」と同じ導入だ。しかし、「いますか?」の前に「チッ」と短い舌打ちが入る。初見の客には聞き苦しいノイズに思えたかもしれない。ただ、この舌打ちが実は意図的なものであると分かるにつれ、舌打ちの量とともに、客席の笑いもドライブしていく。

一見、古典のように見せかけた擬古典の手法が効いている。『舌打たず』は「舌打ち」と「感情」の相関関係をめぐるロジカルなネタだが、設定を現代に置き換えたり、イマっぽいフレーズを挿入するような安易な新しさではなく、脈々と受け継がれてきた落語の内包する過激さを、あくまで古典風を装いながら、増幅させているのだ。

しかし、この日のテンポはいつも以上に速かった。以前、若手の人気お笑いコンビ・うしろシティのライブにゲスト出演した吉笑が、やはり『舌打たず』で若い女性中心のお笑いファンを掴む現場を目撃したことがある。あのときも、普段の落語がロックンロールだとすれば、パンクロックばりのテンポで、かつて九○年代に立川志らくが若者ファンを掴んだ『火陥太鼓』のジェットコースター感を思いだしたりもしたのだが、この夜の『舌打たず』はさらに速い。間もへったくれもない。ほとんどハードコアパンクだ。それでも客席を置き去りにはしない。ツーバスのような舌打ちが爆笑のうねりを生み出していく。

左吉の『町内の若い衆』を挟み、釈台を自ら運びながら登場した神田松之丞は、最前列の客をいじりながら神経質そうなところを見せたかと思いきや、緊張感を一気にほどき、落差で笑いをつくる。ちょっとの間の抜き差しだけで、自らの空間を起ち上げてしまう。

演目は『寬永宮本武藏伝 山田真龍軒』。二刀流と鎖ガマ、その息を呑む攻防。緩急のメリハリと、型の美しさ。講談とはストーリー・テリングの芸である、という当たり前の事実を確認しながら、でもそれをここまでクールにやってのける若手講談師は、初めてだ。松之丞を通して講談の未来を垣間見たような錯覚すらあった。

そして、桂三度が出てくる。じゃんけんに負けたことで、この出順になったのだという。やはり、「持って」いる。この流れでどんな噺をぶつけてくるのか。

『寿限無』だ。シビレた。

基本中の基本の前座噺だが、それゆえ聴かせる難しさもあるこのネタに、ミスチル風の節回しや、ビデオの早送りといった放送作家的な発想を加え、確実に客席を仕留めてみせる。

三度は吉笑の存在を知っていたという。フジの深夜番組で吉笑の大喜利回答を見て、その落語家離れした発想が気になっていたらしい。

談志が「伝統を現代に」と掲げたのが五○年前のこと。むしろいま、お笑いの最先端から落語へと触手が伸びている。今年、吉笑はある音楽フェスに開口一番として出演し、両国国技館で高座を務めたが、すでに昨年、千原ジュニアは同じ両国に三六○度回転する高座を設置し、新作落語を披露している。とはいえ、ジュニアの落語は、彼の生み出す見事なコントと比べてしまうと、伝統がまだ演出の制限となっているように見えてしまってはいたが。

座布団に座るからこその「自由」があるはずなのだ。伝統を現代に。ダウンタウン以降の落語家、吉笑はいま、そのことを改めて考えようとしている。

スタイルやジャンルや伝統が私たちを自由にする様を、若き藝能者たちを通じて、これから見ていこうと思う。

(初出:『文學界』2015年10月号)

では、末廣亭で会いましょう。