2017/06/17

解き放たれたサンプル



KAATでサンプル『ブリッジ』観劇。旗揚げ10周年にしての劇団解体公演にふさわしく、これまでのモチーフもこすりつつ、過去と現在を行き来するポストヒューマン演劇。ベタも辞さぬ構成が美しく、力強かった。
ホップステップは人懐っこく、だがジャンプはより遠くまで。
松井周も、俳優もスタッフも、解き放たれるようなエクスタシーがそこにはあった。

この公演にあわせて、サンプルが刊行した(といってもまだ3冊目だが)雑誌『サンプル』最新号で、松井周インタビューを依頼されました。
松井とサンプルにとって、そして観客である私たちにとってもこの10年がどのようなものであったのか。松井の創作を軸に聞きました。
『ブリッジ』観劇とあわせて、一読いただければ幸いです。

サンプルについて考えることは私にとっての悦びでもあり、過去に書いたいくつかの原稿は拙著『メモリースティック』にも収録した。
矢野利裕氏がこの書評で、それらの原稿にあるポテンシャルを拾ってくれたのはうれしかった。

以下に、サンプルについての原稿を二つほど転載しておきます。
松井周とサンプルの俳優たちのこれからが本当に楽しみです。

■性と生が変容する場所

シリアで「イスラム国」に拘束された湯川遥菜氏の安否が気になっている。なぜ身を危険にさらしてまで紛争地域に何度も向かったのか。終わらない居場所探し、自称「民間軍事会社代表」への箔づけ、そのほかいろいろ言われてはいる。ただ、彼のブログに見られる「1000人斬り」などのマッチョイズムと、「川島芳子の生まれ変わり」といった妄想や、男性器を切断し自殺を図ったというエピソードに見られる男性性からの逃避という捻れが気になるのだ。その捻れにこそ、彼が自らをのっぴきならない状況へ追い込んでいった要因のひとつがあるのではないか。

そんなことはグザヴィエ・ドランの映画『トム・アット・ザ・ファーム』の宣伝担当者であるMさんから連絡を受けるまでは考えもしなかった。Mさんに、「個人的な質問です」と前置きした上で、電話口で聞かれたのだ。「湯川さんのことをどう思いますか?」。湯川氏の拘束がニュースとなり、彼の経歴が取り沙汰されはじめた時期だった。当然その質問の背景には、ドランがこれまで同性愛やトランスジェンダーをテーマにした作品を撮っており、『トム・アット・ザ・ファーム』もまた、サイコスリラーというアプローチながら、登場人物たちがやはりセクシャルな隘路にはまりこんでいく作品だということも関係していた。

映画の導入はこうだ。交通事故で同性の恋人ギョームを亡くしたトム(ドラン監督自身が演じている)は、その葬儀に出席するため、恋人の実家である農場(ファーム)へと向かう。そこで会った恋人の兄・フランシスはトムにあることを強要する。フランシスは、母親に対して、弟にはサラという女性の恋人がいると嘘をついていた。その嘘をトムにもつき続けろと言うのだ。

初めは反発していたトムだが、次第にフランシスに支配されていく。ときに暴力的に、ときに官能的に。劇中でトムの性志向がはっきり示されることはない。フランシスとの関係も常に揺れ動いている。トウモロコシ畑の堅く鋭い葉に傷つきながら、どこにも逃げられない閉塞感がトムを襲う。いや本気で逃げようと思えば、逃げ出せるはずなのだ。だが、トムはファームに留まる。

いや、近所でつまはじき者とされているフランシスもまた、ファームを離れたくても離れられずにいるひとりなのだ。フランシスが過去に引き起こしたある事件には、ゲイ・セクシャルをめぐる引き裂かれるような捻れの感覚がある。

湯川遥菜の生気を失ったような目に、フランシスの諦念めいた表情が重なる。フランシスにとってのファームのごとき場所が、湯川氏を、どこか縛りつけていたのかもしれない。

サンプルの最新公演『ファーム』は、この劇団が近作で挑んできた再生医療などの先端技術と物語との相克を、日常性をベースにした「静かな演劇」において止揚する。間口は広いが、やはり奇妙な作品だ。宇波拓による家電ノイズも、本来は生活音なのに、落ち着かなさばかりをもたらしていた。

設定は近未来だろう。「ファーム」と呼ばれる人間は、他人の身体の一部を体内で培養できるという特異体質を持っている。遺伝子操作で生まれた逢連児(オレンジ)という名の青年もまたファームだが、常人よりも成長スピードが速いという問題を抱えている。バイオ学者である彼の父はそれを「エラー」と考えるが、母親はあくまで彼を「普通の子供」として受け止めようとする。ふたりは離婚協議中であり、母親にはすでに新しい恋人もいる。

なぜこの社会では「ヘテロな恋愛」や「実の親」といった概念が特別視されるのか。理由は、そこに種の再生産機能、つまりは生殖機能があるからだとされる。では、その機能が生命科学の進步により、十分にフレキシブルなものとなったらどうか。「愛」や「家族」といった概念はどうなるのか? 本作を観ているとそんなフェミニズムSF的な問いも浮かぶのだが、それ以前にこうも思うのだ。私たちは単なる遺伝子の容れ物にすぎないのか、と。

「遺伝子は遺伝にとって好ましい行動の内に、個体がよろこびを感受するように個体を錬成してきた。個体の利己を遺伝子の『利己』から剥奪して取り出しうるのは、両者の方向が対立するという状況においてだけである。たとえば鮭の個体の内に、苦難にみちたしかも死に至る産卵のための遡行を拒否し、大海にそのまま悠々と游ぶ自由と幸福を満喫することを選択する個体がいれば、その個体はドーキンスのいう遺伝子だの生存機械ではなく、個としての主体性を確立したといえる」
(真木悠介『自我の起源』)

動物や昆虫は繁殖に最適化した社会をつくる。しかし、そこからこぼれ落ちるものが、ぼくたちには数かぎりなくある。この芝居に登場する父親たちのカラオケ一八番は〈マイ・ウェイ〉である。「すべて心の決めたままに」。それはただのエゴイズムなのだろうか。

『ファーム』はラストに至り、ついには頭部を持たない人間を登場させる。耕地化した人間のなれの果てだ。その姿に絶望した逢連児は、死ぬ前に、生まれるはずだった弟の身体の一部を自らの体内に取り入れようとする。その儀式が、「生殖を前提としない性行為」であるところに、演劇人・松井周のマッドプロフェッサーぶりを見た。



(拙著『メモリースティック』所収)

続く、以下のテキストも拙著『メモリースティック』に収録されているものですが、もともとは雑誌「サンプル」vol.1に寄稿した原稿でした。同号には、私がコーディネートした女装をめぐる座談会(参加者:松井周、鈴木みのり、Koyuki Katie Hanano、井戸隆明、九龍ジョー/こちらも後に『メモリースティック』にも収録)も掲載され、そこではあまり他では語られない、松井さんの原体験なども語られています。機会ありましたらぜひ。

■トランスするサンプル

さまざまな境界をまたぐ劇団ではある。それにしてもサンプル作品から性をトランスする志向性を感じるようになったのはいつ頃からだろうか。

ひとくちに「トランスする」といっても、トランス・ジェンダー、トランス・セクシャル、クロス・ドレッシング、ドラァグ・クイーンなど形態はいろいろだし、性自認、性的指向も身体的特徴もそれぞれ違う。ゲイもレズビアンもあれば、フルタイムもパートタイムもある。それこそ人間の数だけ「n個の性」(ドゥルーズ=ガタリ)がある。

もともと舞台芸術にはテキストレベルでも上演レベルでも、古今東西を問わず、「男が女を装う」または「女が男を装う」という作品は数多く存在している。

いくつか理由は挙げられる。ジェンダーという社会的構築物とセクシャリティとの間にすでに「演じる」という要素は入っているわけで、たとえばそうしたジェンダー規範やシステムの目をかいくぐるために生まれた白拍子のような芸能は日本のみならず、世界中で見受けられる。また、神事と演劇の交わるポイントでは、両性具有による呪術的なパワーの獲得が目指されることもある。官能のポテンシャルを解放するために異性装が使われることもあるだろう。

サンプルから受けるトランス的な感覚の萌芽を探ってみれば、サンプル名義になる以前の2006年の公演『地下室』で「おしぼり」と名指されていた手コキシーンに突き当たる。去勢ともまた違う能動性と受動性のせめぎ合い。

その後の作品でも、俳優・古屋隆太がよく演じるマッチョな男性役に潜在する女性的な感性や、「太宰治」が女装によりニセモノの女神となり、またニジンスキーに憧れる男が自慰とともに両性具有の天使になるといった登場人物たちの転生に、歪で、豊穣な変態を何度も目撃した。

男女の恋愛だけがなぜ特別な扱いを受けるのか。その組み合わせでのみ人類が再生産されるからだとされる。つまりは出産可能であると。

しかし遺伝子技術の進化により、男女の性愛をベースにしない出産がカジュアルになったとき、人々はどんな社会を営むのだろうか。どんな姿に変態するのだろうか。サンプル作品のポストヒューマンな手触りは、未来の予感と動物の記憶を同時に招き寄せる。ジェンダーとセクシャリティが再編成される。すると太古から繰り返されてきた演劇のように、舞台上になにかが到来する。

とんでもないヘンタイ野郎かもしれない。でも、その変態から目が離せないのだ。

(拙著『メモリースティック』所収)

2017/05/14

世界がイ・ランを待っている、けどね



新代田環七フェスティバル」の一環で、新代田FEVERでイ・ランのライブがあるというので見てきた。実に4年ぶり。本当は昨年のツアーでも見る予定だったのに仕事で行けなくなってしまい涙を呑んでいたので、このタイミングで見ることができたのはありがたかった。

ここ日本でも大好評のセカンドアルバム『神様ごっこ』からも十分にその片鱗はうかがえたが、それにしても、以前とは見違えるような堂々たるパフォーマンス。そして、変わらぬユーモア! ああ、『神様ごっこ』リリースの際のおまけ冊子に寄稿したコラムにつけたタイトル、「世界がイ・ランを待っている、けどね」は伊達じゃなかった。やりよる、私。いや、イラン。

というわけで、おまけ冊子もリリース早々に捌けてしまったそうなので、以下に原稿を転載しておきます。

■世界がイ・ランを待っている、けどね
九龍ジョー

その店はソウルの新村駅から高級マンションと古い商店の立ち並ぶ緩やかな坂を少しくだったところ、途中で開発が投げ出されてしまったようななにもない空き地の一角にひっそりとあった。

名前は「カーリー・ソル」。店に入って数十秒で東京のインディバンド、ホライズン山下宅配便のCDが壁に立てかけてあるのを見つけた。ほかにも片想いの7インチやasunaのアルバムも。

日本語の堪能な店主のラフに、「日本の渋谷にこの店とそっくりな『なぎ食堂』っていうお店があるよ」と言うと、「ええ、小田さん(なぎ食堂店主)には大変お世話になってます」ときた。たしかによく見れば、店内には小田とエディターチーム・mapを組む福田教雄が編集するリトルマガジン、『Sweet Dreams』のバックナンバーもすべて揃っている。

中庭に見覚えがあった。エクスペリメンタルなフォークシンガー、イ・ランのミュージックビデオ「Propeller」のロケ場所だ。ローザスにも似た少女たちのコンテンポラリーなダンスが気になって、その映像は何度も見ていた。その場で、彼女のアルバム『ヨンヨンスン』を購入していると、ヘリコプター・レコーズ総帥のパク・ダハムがガールフレンドを連れてお茶をしにやってきた。さっきから店内には、東京のインディバンド・うつくしきひかりのCDが流れている。

初めてイ・ラン本人と会ったのは、それから帰国して、2ヵ月ぐらい経ってからのこと。ソウルのインディバンド・404と、ハウスミュージシャン・Yamagata Tweaksterが来日するのにあたり、彼女も一緒についてくるという。便乗して、四谷の知り合いのスナックで弾き語りライブをやってもらった。

昼下がりの時間帯、イ・ランの朴訥とした演奏は、荒木町の地下にあのカーリー・ソルの中庭みたいなしゃっきりした空気を運んできた。キム・イルドゥのカバーもよかったな。この日、ぼくは小さなデモに参加し、イ・ランの弾き語りを堪能し、夜は幡ヶ谷フォレストリミットで404とYamagata Tweaksterのライブを観た。手帳をめくってみる。2013年の6月30日だ。とてもよい日だった。

あれからイ・ランはどこでぼくらの友達、タッツと知り合ったのかな? タッツが働いてた阿佐ヶ谷Rojiに遊びに来ているのを、Ustreamで見たような気がする(すごい時代だ)。

それからしばらくして、ホライズン山下宅配便の黒岡まさひろが、Rojiで「新曲の部屋」というイベントを始めたので遊びに行った。どついたるねんのワトソンがゲストで、妙にガチな空気が緊張感ばかりをもたらす、アルコール抜きにはとても楽しめない即興での作曲イベント。めっぽう面白かった。でも、ほどなくして、イ・ランがソウルで「新曲の部屋」のオマージュ企画をやるらしいと聞いたときには、「まさか!」と思ったけどね。気づいたときには、黒岡がソウルに飛んでいた。

いや、そんなことを言ったら、こんどはイ・ランのアルバムの日本盤が福田のレーベル「Sweet Dreams Press」から出るというではないか。

リビングで彼女のニューアルバム『神様ごっこ』のサンプル盤を聴いていると、遠くから妻が「『GIRLS』観てるの?」と聞いてくる。意味がわからないかもしれないが、『GIRLS』はアメリカのテレビドラマで、毎回、劇中で良質なUSインディミュージックが流れるのだ。

たしかに、とひとり合点する。文学やポップカルチャーや毎日の気がかりを軽やかに結い上げるイ・ランのセンスは、レナ・ダナムに匹敵すると。世界がイ・ランを待っている! だけど、イ・ランは行きたいところに行くし、やりたいことをやるんだろうな。それがいいと思う。

(『神様ごっこ』初回特典冊子「イランのこと」所収)

ちなみに、イ・ランを含む韓国インディの現状を取材したルポルタージュが拙著『メモリースティック』に収録されていますので、興味のある方はぜひ。

2017/05/05

ダウンタウン以降の自覚

ゴールデンウィークまっただ中、今夜は新宿末廣亭の「五派で深夜」に足を運ぶ予定。
出演者は、春風亭ぴっかり、神田松之丞、三遊亭好吉、立川吉笑、桂三度。
当日券のみだ。きっとすごい行列になるだろう。

神田松之丞、立川吉笑、桂三度の3人は、ちょうど2年前のGWの夜に開催された「五派で深夜」にも出演している。

あの夜、末廣亭はいつかのCBGB(もちろん言い伝えでしか知らないけど)みたいだった。
興奮したぼくは、会がハネたあとの吉笑と歌舞伎町に流れ、逆水平チョップを交わし合い、さらに吉笑を見送ったあと、最後はタクシーに乗るつもりが区役所通りで爆睡。照りつける陽の光で目を覚ますと、カバンから何からすべてを失っており、おまけにクレジットカードも限度額ギリギリとなるン十万円まで引き出されていた(正確にはコンビニで商品券を購入されていた)。
それでも後悔はなかった。
あの夜、目撃したのは、至高の芸と呼ばれるたぐいのものではなかったが、でも間違いなく、これから何者かになる者たちの芸がゴツとぶつかり合う極上の殴り合いだった。

ほどなくして『文學界』から何か連載しませんかと誘ってもらったぼくは、「若き藝能者たち」というタイトルでエッセイ連載をはじめた。
その第一回の原稿が以下となる。

■「若き藝能者たち」連載第一回
ダウンタウン以降の自覚――立川吉笑


開場前から末広通りにはかなり長い行列ができていた。深夜寄席ではまれに見る光景ではあるが、普段よりも客層が若い。

若さはニオイにも現れていた。左右の様敷席には靴を脱いで上がるのだが、投げ出された足やスニーカーが臭うのだ。不快かといえばそうでもなく、蒸れた熱気により、立ち見までぎっしりと埋まった新宿末廣亭がライブハウスのようにさえ感じられる。

会の名は「五派で深夜」。通常の深夜寄席とちがうのは、普段は寄席に出ない立川流と円楽党の若手も出演するという点である。ゴールデンウィークまっ只中の五月一日、この夜の出演者は、立川流から立川吉笑、円楽党から三遊亭鳳笑、落語協会から初音家左吉、芸協から神田松之丞、さらに上方から元・世界のナベアツこと桂三度だった。

ダウンタウン以降の落語家として――いや、そもそも「ダウンタウン以降の藝能者である」という自己認識を持つ落語家がどれだけいるのかも怪しいところだが、少なくともその宿命を自覚的に背負い、現在のお笑いの革新性や実験性を認識した上で、落語をリブートさせようとしている吉笑が、三度との競演を意識しないわけがなく、どんな噺をぶつけてくるのかをまず見たかった。もう一人、講談の神田松之丞にも注目していた。少し前から、松之丞見るべしの声をよく聞く。そんな吉笑と松之丞を向こうに回して、三度がどんな高座を務めるのかも、もちろん気になるところだ。

ざわついた空気の中、一番手、座布団を自分で用意しての鳳笑が、今宵が会の動員記録を更新する客入りになったことを告げる。ネタは『猫と金魚』。なぜか鳳笑が引っ込んでから、高座にマイクがセッティングされる。どうも楽屋で混乱が起きているようだが、そんなハプニングもあいまってライブ感は加速する中、二番手で吉笑が登場した。

「やっばり寄席は、立川流と円楽党にはキビしいですねえ」

観客は爆笑。会場の歯車が噛み合い、ぎりぎりと回り出す音が聞こえた。

吉笑が掛けたネタは『舌打たず』。八っつあんがご隠居を訪ねる。

「どうも! いますか?」

「おや、八っつあんかい。まあ、お上がりよ」

古典落語の『道灌」と同じ導入だ。しかし、「いますか?」の前に「チッ」と短い舌打ちが入る。初見の客には聞き苦しいノイズに思えたかもしれない。ただ、この舌打ちが実は意図的なものであると分かるにつれ、舌打ちの量とともに、客席の笑いもドライブしていく。

一見、古典のように見せかけた擬古典の手法が効いている。『舌打たず』は「舌打ち」と「感情」の相関関係をめぐるロジカルなネタだが、設定を現代に置き換えたり、イマっぽいフレーズを挿入するような安易な新しさではなく、脈々と受け継がれてきた落語の内包する過激さを、あくまで古典風を装いながら、増幅させているのだ。

しかし、この日のテンポはいつも以上に速かった。以前、若手の人気お笑いコンビ・うしろシティのライブにゲスト出演した吉笑が、やはり『舌打たず』で若い女性中心のお笑いファンを掴む現場を目撃したことがある。あのときも、普段の落語がロックンロールだとすれば、パンクロックばりのテンポで、かつて九○年代に立川志らくが若者ファンを掴んだ『火陥太鼓』のジェットコースター感を思いだしたりもしたのだが、この夜の『舌打たず』はさらに速い。間もへったくれもない。ほとんどハードコアパンクだ。それでも客席を置き去りにはしない。ツーバスのような舌打ちが爆笑のうねりを生み出していく。

左吉の『町内の若い衆』を挟み、釈台を自ら運びながら登場した神田松之丞は、最前列の客をいじりながら神経質そうなところを見せたかと思いきや、緊張感を一気にほどき、落差で笑いをつくる。ちょっとの間の抜き差しだけで、自らの空間を起ち上げてしまう。

演目は『寬永宮本武藏伝 山田真龍軒』。二刀流と鎖ガマ、その息を呑む攻防。緩急のメリハリと、型の美しさ。講談とはストーリー・テリングの芸である、という当たり前の事実を確認しながら、でもそれをここまでクールにやってのける若手講談師は、初めてだ。松之丞を通して講談の未来を垣間見たような錯覚すらあった。

そして、桂三度が出てくる。じゃんけんに負けたことで、この出順になったのだという。やはり、「持って」いる。この流れでどんな噺をぶつけてくるのか。

『寿限無』だ。シビレた。

基本中の基本の前座噺だが、それゆえ聴かせる難しさもあるこのネタに、ミスチル風の節回しや、ビデオの早送りといった放送作家的な発想を加え、確実に客席を仕留めてみせる。

三度は吉笑の存在を知っていたという。フジの深夜番組で吉笑の大喜利回答を見て、その落語家離れした発想が気になっていたらしい。

談志が「伝統を現代に」と掲げたのが五○年前のこと。むしろいま、お笑いの最先端から落語へと触手が伸びている。今年、吉笑はある音楽フェスに開口一番として出演し、両国国技館で高座を務めたが、すでに昨年、千原ジュニアは同じ両国に三六○度回転する高座を設置し、新作落語を披露している。とはいえ、ジュニアの落語は、彼の生み出す見事なコントと比べてしまうと、伝統がまだ演出の制限となっているように見えてしまってはいたが。

座布団に座るからこその「自由」があるはずなのだ。伝統を現代に。ダウンタウン以降の落語家、吉笑はいま、そのことを改めて考えようとしている。

スタイルやジャンルや伝統が私たちを自由にする様を、若き藝能者たちを通じて、これから見ていこうと思う。

(初出:『文學界』2015年10月号)

では、末廣亭で会いましょう。

2017/01/01

北国の少女

丸一日を費やしても終わりの見えぬ何年かぶりの本棚整理をしながら横目でNHKとフジを同時視聴しつつ暮れゆく2016年。
私的MVPは堀田祐美子。ギャビ相手に絶対負ける、というか指一本触れるのすら難しいことがわかっていながらせめてものロープワーク(普段だってやらないのに!)を見せたのには泣けた、そして笑った。ありがとう堀田!

深夜2時を回ろうかという頃、ようやく本棚のメドがつき、近所のBAR〈驢馬駱駝〉の年越しパーティに。
料理はあらかた片付いてしまってるがまだ酒はある。
片隅でファミコンをやってる連中がいてこれまたモノ持ちいいなと思ったら、話題のファミコンミニだった。初めて見る若い女の子が「つっぱり大相撲」の相手をしてくれる。テクモ通信、略して「テク通」を愛読してやまなかったほどテクモっ子だった私は当然リアルタイムでやり込んだクチだが、このファミコン自体(正確にはファミコンそのものではないのだけど)触るのが初めてだという女の子に勝てない、どころか団体戦で先鋒に5人抜きされる有様。どうなってるんだ。
しかしファミコンミニ、コントローラーまで小さいのウケるな。普通に使いづらいって。

カウンターでいつもの面々と飲んでるとさっきの女の子もやってくる。
岩手から来て東京の大学で動物の研究をしているという彼女の2016年のベストオブ街は東中野なんだって。どこがそんなにいいの? なんて聞いているうちに夜も白みはじめてくる。

突然だけど、ディランの「Girl From the North Country」だったら、この犬神涼監督の日本語カバーがいちばん好きかもしれない。



いよいよ40になり記憶力もあやしいので、とくに酒場では積極的にメモをとる。メモといってもGoogle Keepに単語を打ち込んでおくだけ。
いつくかの単語の中に、あの女の子の名前らしきものがある。
戯れに検索してみれば、若いシンガーソングライターがヒットしたよ。歌ってる、なんて聞いてない。

驢馬駱駝の窓からはずいぶんと綺麗に富士山が見えた。
あけましておめでとう。