2016/05/09

劇場蘇生計画



えーえー、いまは2016年の5月です(放置しすぎで書かないと忘れる……)。

GWの連休中、ずっと家に籠もり、日本の近世以降に起こった大震災をまとめた書籍の編集仕上げをしていた。
なんでこのタイミング? とも思うが、ずいぶん前から決まっていたことだから仕方ない。結果的に本では、慶長三陸地震から、急遽、現在進行形の熊本地震までが取り上げられることとなった。
ともあれ、今回の熊本地震で被災された方々が、できるだけ早く、心穏やかに日常生活が送れるようになることを祈っている。

やはり日本列島は1995年以降、地震活性期に入ったと見たほうがよさそうだ。おそらくそう遠くない将来、南海トラフの地震津波は、来る(それは明日かもしれない)。

連休最終日には、熊本で被災して関東に避難してきている坂口恭平が旗振りして開催されたチャリティ・イベント「九州大震災復興ライブー劇場蘇生計画」に足を運んだ。3日間にわたって開催される中日、原宿Vacantでのライブ。
出演は坂口ファミリーと前野健太。
ここ最近の前野の弾き語りの素晴らしさについては言うまでもないが、坂口ファミリーの歌心にも改めて打たれたな。なんかデラニー&ボニー感があったよ。
熊本に生活を移した矢先に被災してしまった坂口の姪っ子メイちゃんも、元気そうでよかった。

イベントの売り上げはすべて、被災した熊本の橙書店早川倉庫に寄付されるという(一部はNAVAROにも)。
どちらも思い出深い場所だ。
なんせ橙書店は、今年の2月に行ったばかり。ブライトな最高の書店。併設されているカフェ、orangeでレモネードを飲みながら、店主の田尻久子さんともおしゃべりをした。
そもそも、坂口とつくった『家族の哲学』が熊日文学賞を受賞したので、その授賞式出席のための熊本旅行だった。夜は坂口ファミリーにこれまたいかしたフレンチ・レストランでご馳走になった。さらに深夜、高浜寛先生とも飲んで、ぼくと坂口はそれぞれバレンタインチョコまでもらってしまったのだった(必読→「高浜寛が語る「熊本地震 半径5mのリアル」」)。

早川倉庫については、拙著『メモリースティック』でも書いたが、いま読むとまた新たな意味を帯びてくるような原稿だったので、以下、そのまま転載しておきます。

■100回目の三月の5日間

「首都圏でやることもできました。でも、ぼくたちはそうせずに熊本でやったわけです。今日、公演を観ながら、そうしてよかったと思いました。初めてこの作品が、“日本”のことではなく“東京”というひとつのローカルを描いているんだということがわかったからです。つまり、東京という単なる地方の話なんだと。そうぼくには見えて、面白かった」

2011年12月9日から11日までの3日間、劇団チェルフィッチュは代表作『三月の5日間』の100回記念公演を熊本市の早川倉庫で行った。作・演出の岡田利規は、公演後に行われた記念パーティの挨拶で以上のような話をした。

「いいねえ。最近、オザケンも同じようなこと書いてなかったっけ?」隣りの席で聞いていた坂口恭平が、ぼくにささやく。言われてみればたしかにそうだ。11月29日付で小沢健二公式サイト「ひふみよ」にアップされた『東京の街が奏でる』と名付けられたコンサートの告知文には、こう書かれていた。

「『東京の街が奏でる』の“東京”は、首都としての東京ではなくて、ローカルな場所としての東京です。ローカルな場所というのは、東京から首都が移転して、大企業の本社が全部引っ越して、その後でも残る東京、みたいな意味です」

かつて「渋谷系」と呼ばれる音楽シーンの中心人物のひとりであった小沢健二と、2003年のイラク戦争開戦時に渋谷のラブホテルで五日間を過ごすカップルを『三月の5日間』で描いた岡田利規が、2011年に交錯する。もちろん両者ともに海外での活動を経験することで、東京を相対化する視点を持ち得たということもあるのだろう。

早川倉庫で観る『三月の5日間』は、浅草木馬館で観る大衆演劇のようでもあった。築130年の木造倉庫、親子連れ、温かい飲み物。俳優はひとりずつ観客の前に現れては、目の前でこれから起こることを説明するのだ。

「(これは)ミノベって男の話なんですけど――」

本来なら舞台に異化効果をもたらすはずのこんな台詞が、そのまま観客に配慮した単なる説明としてストレートに聞こえてくるから不思議だ。東京の渋谷という場所で、ぼくらはセックスをしたり、デモがあったりしたんですよ。それをいまから演じますね――。本当にただそれだけのことだ。

終演後、岡田の挨拶に続いて出されたべジ料理や地酒の美味いこと。100回記念で用意されたレモンとチョコレートのケーキに、100回の公演すべてに出演したという俳優・山懸太一が入刀する。岡田の息子・ヒビキくんと坂口の娘・アオちゃんがうれしそうにそれをほおばった。ヒビキくんによる今夜の『三月の5日間』評も聞けた。「いつもは分かりづらいんだけど、今日のはわりとよかったよ」

岡田が韓国から来ているコ・ジュヨンを紹介してくれた。彼女は舞台芸術における日本と韓国の新しい交流の可能性を探っているという。当然それは、熊本に移住したことで東京よりも近距離である隣国を意識するようになった岡田の関心とも重なってくる。

岡田利規と坂口恭平が公の場で初めて話をする機会を持ったのは、2011年2月。まだ10ヵ月しか経っていない。神奈川芸術劇場で上演されたチェルフィッチュ『ゾウガメのソニックライフ』のポストパフォーマンストークでのことだった。まさかそのときには、『三月の5日間』の100回記念公演が熊本で開催されることになろうとは、誰も予想していなかったはずだ。

未曾有の震災が起こり、深刻な原発事故がそれに続いた。東京に住んでいた坂口恭平は故郷である熊本に移住し、家族と暮らす部屋とは別に、月3万円で借りた古い木造一軒屋を「ゼロセンター」と名付け、避難者の受け入れを始めた。その呼びかけに最初に応じたのが岡田利規とその家族だった。岡田はその後、妻の強い意向もあり熊本への移住を決めた。

「定住と移住」は『ゾウガメのソニックライフ』のモチーフでもあった。「放射能からの避難として熊本に移住すること」は妥当な行動なのだろうか。答えの出ない問いだ。正解はない。それよりも重要なのは、岡田利規が熊本での100回記念公演によって、今後の活動の指針となるであろう現状認識をいち早くカタチにしてみせたことだ。

翌日、坂口の案内で、国指定重要文化財である八千代座を見学する。明治43年に建てられ、かつては芸術座の松井須磨子が「カチューシャの唄」を歌ったこともあるというこの古式ゆかしい劇場は、現在では定期的に坂東玉三郎の公演が開かれることでも知られている。八千代座2階席の欄干を掴みながら坂口が言う。

「ここでいつかチェルフィッチュに公演してもらえたらいいよね」

平山源泉で疲れを流し、夜は、昨夜の100回公演記念のあのケーキをつくったという女性ふたりがカウンターに入っているバー、PAVAOで飲んだ。そこに公演を終えたサンガツのメンバーや公演スタッフたちが合流してきたので、みなで連れだってゼロセンターへ移動した。

熊本のよさを味わえば味わうほど、ぼくは“東京という地方”のよさもこの手で見つけたくなった。

(拙著『メモリースティック』所収)

あと、『メモリースティック』に入れようと思って、最後の最後で外したこんな原稿もあったので、合わせてサルベージしておきます(ちなみに、エランド・プレスの創業一周年フェアで、前野健太と坂口恭平がお互いの曲をカバーしたCDがもれなくもらえるそうです)。

■親鸞じゃなくて前野健太だった

「悩み、不安、最高!!」

そもそも坂口恭平はこのライブの主催者だった。「建てない建築家」として注目され、3・11以降は「新政府総理」としても名を馳せる彼が、昨年12月よりワタリウム美術館で開催している『新政府展』の催しの一環として、前野健太にライブを要請したのだ。

場所は、坂口が美術館のすぐウラに開設した青山ゼロセンター。都会の一等地にある空き家を0円で入手して完全リノベーションした、『新政府展』の肝ともいえるシェルター兼ファクトリーだ。同じ場所で、前日には七尾旅人のライブも行われた。翌日には原田郁子のライブも予定されていた。当然、坂口自身、それらのライブを観客のだれよりも楽しむつもりだったにちがいない。しかし、坂口はこの日、ホテルの部屋でPCのモニター越しに観る羽目になった。それも口にタオルを詰め込んで。

実は、坂口は前日から陥った鬱のドン底にいたのだった。希死念慮にとりつかれ、ホテルの部屋の壁に何度もアタマを打ちつけていたら、隣りの部屋からフロントにクレームを出された。なので、今度はタオルを口に詰め込み、自分のクビを両手で締めた。目から涙が溢れてくる。それでも自分の事切れる姿を熊本に住む愛娘に見られることを思えば、少し離れた東京の片隅で事果ててしまったほうがよいと思った。

ぼくは仕事で見られなかったのだが、前日の七尾旅人のライブの際にも、すでに鬱に入り込んでいた坂口は、ライブの間じゅうずっと七尾のすぐ横のスペースに寝そべり、身じろぎもせず泣きながら演奏を聴いていたという。七尾のほうもノドのコンディションが万全ではなく、しかもすぐ横で主催者がぶっ倒れて泣いているという壮絶な状況。それでも、いや、それゆえというべきか、観客の心に残る素晴らしいライブになったという。

日付が変わって、この日の坂口は会場に来ることもままならなかった。心配したワタリウム美術館・館長の和多利浩一は、急遽、坂口の住む熊本から彼の妻、フーを呼び寄せた。彼女を乗せた飛行機が羽田に着くのは21時。前野健太がライブを開始した18時半の時点で、まだ坂口はホテルの部屋に一人でいた。

坂口と前野の関係を二人のファーストコンタクト(2009年6月、ぼくが企画した坂口と写真家・梅川良満とのトークライブに、前野が客としてやってきた)から知っているぼくは、和多利に依頼され急遽、ライブの司会とセッティングを引き受けることになった。

「これってユーストしたほうがいいんですか……ね?」

リハーサルで前野から相談された。あまりUSTREAMに乗り気ではない口ぶりだ。青山ゼロセンターでのライブはすべてUSTREAMで生中継することになっていた。それは坂口が自殺志願者のための「いのちの電話」を個人でやっていることとも繋がる。青山ゼロセンターは誰でも受け入れるシェルターとして開設されたが、そこまで足を運べない人もいる。むしろ物理的にも精神的にもにっちもさっちもいかなくなっている人間は、自宅から一歩も出られずにいる可能性のほうが高いだろう。そうした人のもとにも演奏を届けたい、というのが坂口の願いだった。そんな話を前野にしたら、即答で「じゃ、やりましょう」ときた。「坂口さんにも届くかもしれないですしね」なんて微笑みながら。

でも、まさか本当に届いていたとは。いや、正直に言うと、坂口が鬱で苦しんでいることは理解していたが、この時点では、死を覚悟するほどの絶望の淵にいるとは思っていなかった。とはいえ、躁状態のときは独立国家を起ち上げ、自ら総理(「躁理」と表記すべき、という話もある)を名乗ってしまうほどのテンションだ。そんな男が振り子のごとく鬱に転じたときの落ち込みは、たしかに相当なものだろう。

「もうダメだ」

坂口は、自らの両手でクビを締めながらすべてを諦めそうになった瞬間、ブチブチ途切れるUSTREAMから前野健太の歌声を聴いたという。

「悩み、不安、最高!!」

ある日、飲み屋のカウンターの隣りで、サラリーマン二人組の片方がずっとつぶやいていた。それが面白くて、歌にしてみたのだという。そんな歌に坂口は救われた。

「悩み、不安、最高!!」

ただそう繰り返すだけ。念仏みたいだ。

「悩み、不安、最高!!」

でも歌っているのは親鸞じゃなくて前野健太だし、その曲はまぎれもなくロックンロールだった。

(初出:『音楽と人』2013年3月号)