2011/10/09

YIDFF 2日目

◆映画を観て、移動して、映画を観て、移動して、夜、飲んで。

山形国際ドキュメンタリー映画祭、2日目の備忘録。

・『311』 監督:森達也、安岡卓治、綿井健陽、松林要樹
震災から2週間、何はともあれ現場を見なくてはと、ノープランで福島第一原発に接近する4人の監督たち。ガイガーカウンターの値にたじろぎ、慌てて防護服を買い求め、避難区域圏内にまだ残る人影を探す。あげく車のタイヤがパンクしてしまい、福島取材には準備不足すぎると、今度は宮城の被災地へ。被災者や自衛隊員の肉声を少しずつ拾っていく――。
ここに映っているのは、ついなにか画になるものを探してしまうドキュメンタリストの業だ。それを隠さずに「後ろめたさ」(森達也)を抱えたまま見せる、という意図はよくわかる。なのでここで記事にもなっているような物議は、作品にとってむしろ望ましいことですらあるだろう。
だけどこうも思うのだ。その「後ろめたさ」の先にあるものはなんだったのか。被災者に物を投げつけられようが、良識派になじられようが、撮らずにはいられなかったものはなんだったのか。それを炙り出さずして、ある意味、初めからわかりきっている結論である「ドキュメンタリストの業」を再確認するにとどまってしまっていいのだろうか。
そこでポイントになってくるのが、4人の監督の連名作品であるという点だ。
森、松林、綿井の3人が撮った映像を、安岡が編集したという。注意して見ると、役割分担ということもあるのだろうが、3人の作風を知っている者であればそれぞれ持ち味の出ているカットをいくつも見つけることができる。単純に言っても、被写体との距離感が違う。
おそらく3人ともに(生産的な意味での)意識の違いやズレを感じていた。そのズレにこそ「後ろめたさ」を掘り下げる、もしくはその先に向かう契機があったはずなのだ。だが、最終的にそのズレはならされて、1本の作品の中にシームレスに落とし込まれてしまった。
もともと作品化を前提とした撮影ではなかったのだと思う。行きがかり上、撮れてしまった映像を1本に編集してみた。もし速報性を持った内容であれば、現在のヴァージョンでもそれなりの意義はあったのかもしれない。皮肉でもなんでもなく、これほどのドキュメンタリストたちが現地に乗り込んでも、俄には「なにも撮れない」ということ(放射線の存在を示すために何度もガイガーカウンターの値を撮影したカットが出てくるのが象徴的だ)がよくわかるから。
しかし、それにしては時間が経過してしまっている。
「なにも撮れない」からこそ、踏み越えるなり、もしくは迂回するなりして、あの手この手で大マスコミのとれないようなアングルからのアプローチ(もちろん「後ろめたさ」をより掘り下げるという選択だってあるだろう)を考えるのが、むしろ本当の意味でのドキュメンタリストとしての業なんじゃないか。それにかけては海千山千といってもよい監督たちなだけに、正直、物足りなさは残った。

・『相馬看花 第一部 江井部落』 監督:松林要樹
『311』を受けて、松林は福島第一原発の避難区域に継続して赴き、取材を行っている。
避難所や仮設住宅に入りこんだカメラが映すのは、非常事態でありながら、ときに冗長と思えるほど、あたりまえにそこにある生活。カメラはさらに、その生活の背後にある、地域や家族の歴史へと踏み込んでいく。
今後、避難状況の変化とともにサーガのように撮られていくことを予感させる第一部だった。

・シンポジウム「震災と向きあって:監督編」 出席者:安岡卓治、森達也、呉乙峰(ウー・イフォン) 司会:藤岡朝子
冒頭の安岡さんと森さんの発言を確認したところで、移動のため退席。上記参照。

・『川の抱擁』 監督:ニコラス・リンコン・ギル
川辺に現れるモアンという河童のような(?)精霊の目撃証言を聞いているうちに、突如、上流から人間の手や足が流れてきたというおだやかならぬ話にスライドする衝撃!
幻想と現実をすべて包み込む川は、ひたすらに妖しく美しい。

・『祭りばやしが聞こえる』 ディレクター:木村栄文
出てくる登場人物がどれもこれも強烈すぎて、爆笑につぐ爆笑!
九州のテキ屋の大親分にスジを通しての取材ということもあり、いまのテレビじゃありえないようなシーンも続出。なんせ山口組の九州侵攻への対策として地回りヤクザが親子盃を交わすんだけど、ヤクザだと差し障りがあるってんで神農系であるテキ屋の親分に媒酌人を託すのね。その盃事がまるまる映っているという。おまけにイズケンが肩書きテロップ入りで普通にコメントしてたりするし。
RKBに木村栄文あり」。なるほど、これ一作でも十分に伝わってきた。

・『ブリーフ・ヒストリー・オブ・メモリー』 監督:チュラヤーンノン・シリポン
モノローグの語りをどう見せるか。多用されるストップモーションやスローモーションの画が、かえって取り戻せない過去を印象づける。

・『三人の女性の自画像』 監督:章梦奇(ジャン・モンチー)
一時期、日本映画学校の卒業作品によく見られた家族モノのセルフ・ドキュメンタリー風といえばそうなのだけど、自分の裸に母親の語りを映写したり、自分の顔を何度もコピー機でスキャンしたりと、肉体を通したアウトプットが切実かつユーモラス。

◆香味庵にて、『311』が作り手も巻き込んでの激論に。