2011/06/04

feat.岡本太郎

◆平賀さち枝さんのレコ発のときにALFRED BEACH SANDALこと北里彰久くんから頂いたファーストアルバム『One Day Calypso』のサンプルがむちゃくちゃよい!!

昨年出た自主流通盤はかなりヘヴィに聴きこんでるし、ライブだって何度も観てるけど、ちょっと突き抜けちゃってるよ、これは。
自主流通盤のほうは弾き語りメインで、それだけでも強烈にユニークな音楽だったのに、他の楽器の入ったパラダイス感がハンパない。それでいて歌詞の平熱っぷり。
「GPSで把握する徘徊老人の位置情報/NHKが制作したドキュメンタリーの再放送」
といった俳諧のごとき言葉の戯れも楽しすぎる。
常套句もすぎるけど、夏に向けてマストバイとはこのアルバムのためにあるような言葉でしょう。

以前、撮らせてもらったALFRED BEACH SANDALのライブ動画。これは弾き語りだけどね。アルバムではパーカッシブなアレンジですげいことになってるよ。



◆椹木野衣『反アート入門』、読了。



『反アート入門』の“反”アートたるゆえんは、

「作る」のでも「残す」のでもない芸術のあり方が、現状のアートや美術というのとは別に、たしかにあると予感してもらえれば、それだけで十分です。

という一文につきるのだけど、そこに至るまでの、「神の死」から始まる西洋近代美術の出生に始まり、情報をコントロールすることによって得られるヴァーチャルな価値のゲームとまでなったアートという概念の“入門”書としても、おもしろく読んだ。

しかし、その門はやはり、そこをくぐることによって上記の一文にたどり着くためにあつらえられたものであり、門の出口付近に至り、「残すこと」と「別の芸術のあり方」との間の矛盾を生きた芸術家としての岡本太郎が召喚される。キーワードは「呪術」である。

 岡本太郎が呪術と言う時、それは宗教の発生から近現代美術に至る、西洋を中心とする権威のシステムそのものへの挑戦を意味しています。だからこそ、かたちあるものを文書で正当化してせっせと保存することよりも、その場その時々に作品を通じて生み出される経験の一回性のほうを重視しているのです。
 そう言えば、このことに関しておもしろい話が残っています。生前に岡本太郎の個人美術館ができる話が持ち上がった時のこと、展示室をまかされた設計者は、あらかじめどんなふうにしたのか太郎に聞いてみたそうです。たしかに、生前に個人美術館の話などが持ち上がれば、重箱の隅をつつくまで口を挟むのがアーティストに特有のわがままのような気がします(実際そうです)。が、この点でも太郎はまったくちがっていました。つまり、展示やそのやり方は「おまえにまかせるよ」といったふうで、ぜんぜん関心を示さないというのです。だけれども、それだけならあの岡本太郎のこと、想像できないこともありません。わたしが驚いたのは、設計を担当された方が太郎に、でも、作品の保全だけはちゃんとしないといけないから、作品はきちんとケースに入れて守りましょうと、ガラスの壁面を備えた展示室の案を出した時、それまで展示などにはまったく関心がないようだった太郎の声色がいきなり鋭くなり、「なんでガラス越しなんだ、それだけはやめろ」と怒り出したというのです。実際、前に岡本太郎の作品が美術館で暴漢に襲われ、刃物で切られたことがありました。設計者は勿論そのことを知っていて、二度とそんなことがあってはいけないといいう念入りの配慮だったのですが、それに対する太郎の答えは、アーティストとしては想像絶するものでした。つまり、「切られてなにが悪い! 切られたらオレがつないでやる。それでいいだろう。こどもが彫刻に乗りたいといったら乗せてやれ。それでモゲたらまたオレがつけてやる。だから触らせてやれ」(平野暁臣『岡本太郎「太陽の塔」と最後の闘い』PHP新書)と、岡本太郎は言ったというのです。
 これは、美術作品を収蔵や展示など度外視して、どこまでも体験に即して見なければ出てこない発言です。
(略)
 けれども、ここには大きな矛盾があります。それはそんなことを言っても岡本太郎とて、やはり近代的な文脈に乗って登場した美術家であることに変わりがないからです。いくら彼が美術に対する呪術の力を申し立て、展示や収蔵といった制度に挑んだとしても、彼の作品は分類上では、まぎれもなく絵画や彫刻の範疇に括られるほかありません。事実、それらが飾られるのは呪術の場などではなく、制度としての美術館以外ではありません。先ほどの話だって、岡本太郎美術館をめぐってのエピソードにすぎないのである。むろん本人だって、いまさら原始の呪術的世界に戻れるとは思っていないのです。
(略)
 むしろ彼は生涯にわたり正真正銘、美術家であり続けましたが、しかし実質においては呪術的であろうとした。そして、そのようなありえない矛盾を根幹にものを作り=ものを消す(かたちを残さず経験と伝える)ような立場にあることを「芸術」と読んだのだと私は考えます。つまり太郎にとっては芸術こそが、美術と呪術を総合するものではなく、両者の矛盾を燃え立たせるような、(あえて言えば)現代における一瞬の儀礼の場であったにちがいありません。

これを読んで思い出すのは、やはりChim↑Pomの個展「REAL TIMES」に展示された「LEVEL7 feat.明日の神話」のことだ(ちなみに『反アート入門』のカバー写真には、彫刻家の西尾康之がChim↑Pomの展示「にんげんていいな」とコラボして制作した彫刻作品が使われている)。
Banksyなどグラフィティアートの例を持ち出すまでもなく、岡本太郎の意志においても、岡本太郎の壁画「明日の神話」に福島第一原発のイラストを付け加えるという行為は、とりたてて非難されるべきものではない。また、それが「展示」という形式に落とし込まれる矛盾も、Chim↑Pomがアートの文脈に生きる以上、引き受けざるをえないものだと思う。

ただ、かつて見た「広島の空をピカッとさせる」の抉られるような感銘に比べると、「LEVEL7 feat.明日の神話」には感ずるものが少なかったのも事実で。
「ピカッ」の、ぬけるような青空に描かれた弱々しい筆致から引き出される自己や歴史への多層的な省察に比べてしまうと、どうしても今回は「原発反対」という二元論的アピール以上のものが見えにくかった。
もちろん時間を置くことで、作品についてもう少し自分の中で発酵してくるものもあるかもしれないが。

これは同じく「LEVEL7 feat.明日の神話」を見た松江哲明監督と話したことでもあるが、あの映像ではむしろ「明日の神話」の壁画以上に、背景に映り込んでいる渋谷駅構内のほの暗さのほうが気になってしまう、いまは。