2011/05/24

空に溶けていった音楽

◆先週は久々の原稿ラッシュ(忘れていたなこの感覚)に風邪っぴきのダブルパンチでひいひいゆってました。
なんとかしのげてよかったよ。

◆前野健太レコ発大ワンマン@渋谷WWW、一曲目の「背中」からぞくぞくくるものがあった。
ああこれが前野健太だった、と懐かしさすら。
とはいえ3・11のこちら側、響き方の変わった曲もいくつか。
新曲よりもそちらのほうが気になる。「だれかの」もいつか聴いてみたい。
DAVID BOWIEたちに入った三輪二郎は、キース・リチャーズみたいな存在感でしたな。

◆磯部涼のビジスタニュース原稿「音楽の(無)力」がよかった。
いくつか聞き覚えのある音が鳴ってるよ。
せっかくなんで昔、自分が書いた原稿をアップしておきます(こんな機会でもないとサルベージしづらいもんで)。

特集 2009年、私の聴いた音楽
「空に溶けていった音楽の行方」
九龍ジョー

ワンシーンワンカット74分、吉祥寺の街をフォークシンガー・前野健太が弾き語りながら練り歩くドキュメンタリー映画『ライブテープ』(監督:松江哲明)の撮影に立ち会ったのが09年元旦のこと。撮影時点ではただの自主映画にすぎなかった本作は、10月に東京国際映画祭の「ある視点」部門賞を受賞し、あれよあれよという間に、年末より全国公開に。まずはそんな09年だった。
とにかく多くの人の目に触れてほしい映画だ。スクリーンに映る通行人の姿がとてもいい。前野健太という未知のミュージシャンに遭遇し、無関心のまま足早に通り過ぎる家族連れ、歌詞のフレーズに一瞬だけ歩みを止める紳士、手を繋ぎながら耳を傾ける恋人たち――。彼らの足どりや息づかいにかぎりなく接近するリズムで刻まれた前野の歌は、ラストシーンに至り、吉祥寺の空へと溶けていく。
なぜいまフォークなのか? という向きもあるだろうが、この映画に活写されている「弾き語り」というフォームを借りつつ毎日の過激さを歌う前野の姿には、音楽を〈鳴らすこと/聴くこと〉の関係をめぐる新たなる思索や変革のポテンシャルが秘められていると思うのだ。なにはともあれ、映画を観てみてほしい。

その『ライブテープ』で素晴らしいサックスの音を聴かせる音楽家・あだち麗三郎の動きからも目が離せなかった。
「俺はこんなもんじゃない」など関わりのある全バンドを脱退しての「うたうたい」宣言。四谷にある公共施設の音楽室を借り切って定期的に行われたライブは、窓から見える新宿御苑の緑や遠くビル街を背景に、(まるで書き割りのような)夕暮れや夜空のライティングの下、マジカルな音響空間を現出させていた。他にも、公園や民家、プラネタリウムといった非ライブハウスな場所を会場に選び、その〈場〉と聴衆の持つ潜勢力を最大限にまで引き出そうとするあだちのライブは、彼の中にある〈鳴らすこと/聴くこと〉への求知心を感じさせるものだった。難解さはなく、そこにあるのがあくまでポピュラリティのある音楽だというのも新鮮だった。

極めつけは、あだちや、やはり『ライブテープ』の出演者でもある二胡奏者・吉田悠樹らも参加し、夏の2日間に渡って開催された「フジサンロクフェス'09」だろう。
写真家・鈴木竜一郎が発起人となり、御殿場にある鈴木の実家のガレージを会場に行われたこのユニークな家系フェスには、11組+αのミュージシャンが出演、約50人ほどの観客が集まった。便宜的に「11組+α」としたが、参加ミュージシャンたちの多くはマルチプレイヤーであり、その場の流れでフロントを務めたり、あるいは誰かのバックに回ったりと、有機的に楽隊を編成していたのが印象的だった。
また、便宜上、ミュージシャンと観客に分けてはみたが、実際のところそこでは、音楽を演奏すること、聴くこと、音楽について話すこと、踊ること、飲み語らうこと、おしゃべりすること、それらが渾然一体となっていた。鈴木はホームページにフェスのコンセプトとして「クロープン(clopen)」という言葉を挙げていたが、「閉じ開いている」とはまさに言いえて妙。
フェスが佳境にさしかかった頃、鈴木家のベランダで吉田の奏でる二胡の幽玄な響きが夕空に溶けていくのを聴きながら、右手に見上げた富士の稜線はなんとも美しかった。

ここにある可能性をなんと名指すべきか、ずっと考えている。
「アンビエントとしてのフリーフォーク」「声の社会的編成」……。しかし、彼らの音楽は、そういった名指しをすり抜け、ますます融解し、遍在化していくことだろう。来たる2010年もその行方を見守っていきたい。
(初出:『remix』2009年12月号)