2009/11/30

死んだ猫を投げてはいけない

◆先週の水曜日、にしすがも創造舎でクリス・コンデック演出「デッド・キャット・バウンス」。

こんな芝居です。



観客が支払ったチケット代をその場でリアルタイムにロンドン市場に投資し、その場で1パーセントの儲けを目指す。
デイトレーダーの熾烈なサバイバルからすればずいぶん牧歌的な投資ショウはあるけど、それでも身に染みるエンタテインメントとしてとてもよくできていた。なにより、市場という神の宣託のもとで運命を切り拓こうとあがく人間たち、という構図がギリシア悲劇のようですらあり。

ちなみにデッド・キャット・バウンスとはこういうことらしい。
そう、まさに約束された運命。

デイトレードや資本主義や貨幣については、以前になぜか仮面ライダー響鬼の路線変更にかこつけてこんなことを書いた→

◆木曜日、裏でやっていた坂口恭平×石川直樹トークがとても気になりつつ、急遽壇上でトークすることになり、阿佐ヶ谷ロフトAの『ライブテープ』&SPOTTEDイベントへ。

当日の模様はこちらで。『ライブテープ』のメイキングということでついつい口がすべってしまったけど、来てくださった方々へのサービスということでご愛嬌。長澤つぐみ嬢のニセ前野健太ショウが、コントとしてパーフェクト。さすがマッコイ斉藤さんの現場で鍛えられただけある。

Spo12_2この日、発売になった『SPOTTED701』最新号も、もちろん『ライブテープ』特集。
といってもぼくは、昆虫キッズとつくった新譜『ABCD』が傑作出来だった(しかも売れているそうです)豊田道倫さんへのロングインタビューをやらせてもらっています。豊田道倫 with 昆虫キッズを撮った梅佳代さんの写真も最高。巻末の大橋裕之先生の『ライブテープ2』なる漫画もありえないおもしろさなので、ぜひともお手にとってみてください。

◆金曜日、「フェスティバル/トーキョー」のお隣りで「アジア舞台芸術祭」が開催されており、すべて入場無料だというので、よくわからないままアジアンキッチンのデリー編(作:岩井秀人、演出:神里雄大)を覗く。

インド料理屋の主人と女性司会者との会話で見せる寸劇。と思いきや、主人はインド人ではなくてネパール人で……という感じでやはり寸劇。ゆるいなかにも、要所要所ぴりっとした笑いをとっていく。
インド独立に至る流れを「なんだかんだありまして」とざっくりまとめるあたりに、ただのだらしなさではなく、<歴史>への選び取られたある距離感が感じられたのがよかった。

でもって直後に、同じ東京芸術劇場のすぐ隣のホールでこれ(↓)を観たものだから、(どちらがよくてどちらが悪いということでなしに)その<歴史>を扱う手つきの落差にクラクラしてしまったよ。

ラビア・ムルエ、リナ・サーネー演出「フォト・ロマンス


◆土曜日もずっと池袋にいてアジア舞台芸術祭。

アジアンキッチンの台北編(作・演出:戌井昭人)、「東京舞台」LIVE版(なんだこの言葉!)のBプログラム(中野成樹+フランケンズ/冨士山アネット)、Cプログラム(第七劇場/チェルフィッチュ)、Dプログラム(ひょっとこ乱舞/shelf)を観る。あ、あと時間つぶしにおやじカフェに2回も入ってしまった……。

台北編、俳優がまさかの宇野祥平。前田弘二映画でおなじみの宇野くんだった。笑ったなあ。台湾料理屋の女主人に、「台湾って暴動ありましたよね。ぼく西成出身なんすけど、機動隊に石とか投げたんですけど、やっぱりそういう感じですか」だって。
なるほど、「アジアンキッチン」おもしろい。ぜんぶ観ればよかったな。

「東京舞台」は中野成樹+フランケンズのモリエール・ダイジェストがひたすらかっこよかったのと、チェルフィッチュの新作(「わたしたちは無傷な別人である」)プレビューのはりつめた緊張感と期待感でおなかいっぱいに。

◆みんなゆってるんだろうけど、THE XXのアルバムを聴いてるとYoung Marble Giantsを思い出すね。胸を衝かれるとはまさにこのこと。

2009/11/23

L-O-V-E、ラヴだよ

◆誕生日だった。またひとつ歳をとった。

◆星崎かのんはフェイクだぜきっと(ちがってたらごめん)。

◆7日、フレデリック・ワイズマン監督『パリ・オペラ座のすべて』。
ワイズマンといえばアメリカン・バレエ・シアターを撮った『BALLET』があるけれど(前に観たときの感想→)、今度はパリ・オペラ座。あいかわらずワイズマン節全開のすばらしいドキュメンタリーだった。
舞台(それもリハーサル?)よりも長い、会議や電話や掃除のシーン。オーレリ・デュポンすら出ないパリ・オペラ座映画に、Bunkamuraに集まったおばちゃんたちもあっけにとられたのではないだろうか。

◆その後、木場公園に移動し、超歌劇団「ぼうやー♪よい子だ、金出しな!」表公演を観劇。
毎年、夏の恒例行事と化していた超歌劇団。今年は来ないもんだと思ってたから、ホントにうれしい。今回のテーマは「裏おとぎ話」。最高に熱く、くだらなく、感動的だった。毎年お世話になっているリンクを→

◆8日、にしすがも創造舎でグルーポ・ヂ・フーア「H3」。
後ろ向きに疾走したり、全力でぶつかってはね飛ばされたり、無理矢理動きをストップしたりっていう、この「溜めてる」感じにぐっとくる。このフィジカルな知性ってあれだ、ブラジリアン・トップチーム。

◆12日、元週プロ野郎にしてフリーライター宣言をした鈴木健さんと実況アナウンサー・村田晴郎さんのイベント、その名も「神実況ドラマティック・ドリーム・トークライヴ」へ。
健さんの意気込み、周到な準備を知っていただけに、大盛況でなにより。ただ、「神実況」と銘打つからには、誰もが納得する「実況」芸をまずは見せてほしいと思ってしまったのも事実。唯一それっぽかったのがニコ動で有名なガチムチレスリングにつけた実況だけど、もうずいぶんと手垢のついている動画だし、なにより動画そのものがすでにおもしろいわけで。そうではなくて、あくまで二人の視点が入るからこそおもしろくなるようなコンテンツ選びをしないとまずい気がする。それができる人たちだとも思う。

◆13日、東京芸術劇場でサンプル「あの人の世界」。
ここ2作ほど見逃した間に、こんな遠くまできてしまったのか。
軸足は最初の頃から変わっていないと思うんだけど、もう片方の足が「運命」やら「出来事」にまで届いていて、そのバランスが見事。ラストの「本物」の金魚なんてキマリすぎていて、かえって不安になるくらいだ。頭の中でずっと、前野健太の「動物になっちゃいそう」が流れていた。
以下、いつかちゃんと本作について書く日のためのメモ。
 個体の利己を遺伝子の「利己」から剥奪して取り出しうるのは、両者の方向が対立するという状況においてだけである。たとえば鮭の個体の内に、苦難に満ちたしかも死に至る産卵のための遡行を拒否し、大海にそのまま悠々と遊ぶ自由と幸福を満喫することを選択する個体がいれば、その個体はドーキンスのいう遺伝子の生存機械ではなく、個としての主体性を確立したといえる。
 そういう個体は繁殖しないから、定義上このような「主体的」資質は進化しえないという論理は成り立ちそうに見えるが、そんなことはない。ある個体にとって第一の欲望は心理の探求であり、第二の欲望はセックスであるということはありうる。一方を選ぶとすれば学問を選ぶけれども、両立ができればそのほうが好ましい。それでも多くの子孫を残すことに支障はない。
(『自我の起源』 真木悠介)
 進化論的な「的格性」を決定する尺度の多次元化ということは、他個体たちからの個体の選択と「評価」の基準の多次元化ということの根拠を構成し、個体が次第に群れの他個体から個々にユニークな「かけがえのない」個として識別され、待遇されるということの根拠ともなる。
 [中略]
 こうして哺乳類という独自の分岐は、いつか人類というひとつの先端部分が、生成子の支配という圏域自体をほとんど走り去って(runnway!)しまうかに見える強固な個我の主体性を確立するまでに至る、加速度の助走を開始しているといえる。それが「進化」の暴走であるかは分からない。
(同上)
 個体を主体としてみれば、個体はその<起源>のゆえに、自己の欲望の核心部分に自己を裂開してしまう力を装置されている。個体にとって、性はなくてもいいはずのものだ。個体の長寿にも安らぎにも幸福にとってもないほうがいいものである。それでも個体は不可解な力に動かされるように性を求める。この不幸を求める。この不可解な力は個体自身のいちばん核芯からくる。個体は自分自身の中核によって自分を解体される。
 [中略]
 けれど個体の、この自己裂開的な構造こそは、個体を自由にする力である。個体のテレオノミー的な主体化が、自己=目的化、エゴイズムという貧相な凝固に固着してしまうことがないのは、個体のこの自己裂開的な構造のためである。個体は個体自身ではない何かのためにあるように作られている。法皇と王たちという中世の二重権力がやがて権力一般の相対化に向かうダイナミズムを生むように、生成子と個という目的論の二重化がテレオノミーの相対化に向かうダイナミズムを生む。
(同上)
 どの他者もわれわれの個としての生の目的を決定しないし、どの他者もわれわれの個としての生の目的を決定することができる。この無根拠と非決定とテレオノミーの開放性とが、われわれが個として自由であることの形式と内容を共に決定している。
(同上)

◆16日、映画美学校で諏訪敦彦、イポリット・ジラルド共同監督『ユキとニナ』試写。かわゆいなあ。よき映画だった。

◆17日、バルト9で『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』。



なんだこれ最高! 泣いたよ。「L-O-V-E、ラヴだよ」
周りにMJ狂が多いだけにちょっとはばかられもするが、それでもあらためて、喪ったものの大きさにたじろいでしまう。完全無欠のエンタテイナー。永遠に。

◆19日、あうるすぽっとで作:サラ・ケイン/演出:飴屋法水「4.48 サイコシス」。
死へ向かっていくサラ・ケインのテクストに寄り添いながら、強烈に「生」へと転換させるエモーショナルな舞台。声に出して読みたい「SILENCE(沈黙)」。音、光、気配、すべてに生理が息づいていた。

◆21日、東京芸術劇場前のオープンスペースでPort B「個室都市 東京」。ツアーにも参加。
Port Bといえば、池袋に来るたびに思い出す(ほとんどトラウマ)といっても過言ではない「サンシャイン62」。あれはホントすごかった。
今回の「個室都市 東京」も、都市社会学、格差社会論などのハイコンテクストな文脈を装いつつ(いやもちろん両含みなんだろうけど)、かなりエグーく迫ってきた。生理をついてきた。とてもよかった。

2009/11/07

弁天湯VS前野健太

◆映画『ライブテープ』の公開記念で、前野健太@風呂ロック、ついに実現。すでにかなり予約が入ってきている模様なので、チケットはお早めにぜひ!

以下、完全に個人的な感慨。
初めての風呂ロックは第1シリーズのファイナルと銘打たれた「弁天湯VS遠藤賢司」だった。あのあと主催者の一人であるヒロキくんと知り合って、イラブチャーの閉店もあったりなんだりでしばらくごぶさたしている間に、こっちは吉祥寺の映画をつくったよなんて。そしたら日を空けずに、なんだ風呂ロックも再開かと。かくして、前野くんのライブが弁天湯で観られる運びとなった。ホントにうれしい。

◆10月30日には、前野健太とDAVID BOWIEたちが渋谷クラブクアトロのステージに。対バンが相対性理論と湯浅湾。おまけにオープニングでPHEWまで出たのだけど見逃してしまった(すばらしいステージだったらしい)。そういやPHEWずいぶん観てないないつからだろうとググッてみたら、自分がインターネッツに日記をつけた最初のページまでさかのぼっちゃったよ。

Maenoqua前野健太とDAVID BOWIEたち、一曲目が「背中」。おー、そうくるかと。前野くん、もろ風邪っぴきだったそうで、声が若干鼻掛かる。めずらしく歌詞も飛ばしてしまったりしてやや心配になるが、「3月のブルース」「友達じゃがまんできない」とハードフォークでたたみかけたあたりから俄然、空気をつかんでいく。久しぶりに二胡・吉田くんのギタープレイも炸裂。終わってみれば熱のこもったすばらしいライブであった。

相対性理論もやはりよかった。「相対性理論」というイリュージョンを起ち上げようとする繊細な手つきからしてすでに美しいもの。起ち上げる、といっても「降りてくる」のを待っている身体だったりもするのだけど。そのせめぎあいに磨かれ、やくしまるえつこのステージングがどんどん艶やかなものになっているのがすごい。

湯浅湾、「」もホントいいアルバムだったけど、なるほどライブバンドだわ。ルーズな演奏なのに牧野さんのギターソロだけが超絶なのも笑った。湯浅→PHEW→前野→やくしまる、とありえないリレーで「ミミズ」合唱。よいものを見た。

湯浅湾企画といいつつも、つまりは雑誌『スタジオ・ボイス』のフェアウェルパーティー的な意味合いも持ったライブイベントだったので、知り合いの編集者やライターやカメラマンに大勢会った。すばらしいスキルとハートを抱いた連中。まだまだ楽しいことやっていきたいね。

◆11月6日、豊田道倫with昆虫キッズ『ABCD』完成祝賀会@七針。
映像に、司会に、と岩淵くんが大活躍。イベント中にも指摘していた人がいたが、あるバンドやミュージシャンの記録を映像できちんとアーカイヴしている人がいるのは心強い。たとえば昆虫キッズには岩淵くんがいて、神聖かまってちゃんには竹内くんがいる。DVカメラ持ってりゃ誰でもいいわけじゃない。ちゃんとバンドと関係を切り結んでやっていくんだから、なかなか大変だ。

豊田さんのソロライブはここ最近観たなかでも出色の出来だった。
友川かずきばりの力強いストロークにピリっときた。まさかの「中央線」(THE BOOM)カバーは、サビの「中央線」がふっと抜けた感じが粋。中野から高円寺ぐらいの感じ。あれ? すぐ、みたいな。

◆祝・ゲラーズ再始動。ペイヴメントまで再結成して日本に来ちゃう時代だもの、どんどんやりゃあいい。楽しみにしています。

2009/11/05

「生きてるものはいないのか」+「生きてるものか」

Ikiteirumonoha先週の水曜日、一日池袋にいて、五反田団の「生きてるものはいないのか」と「生きてるものか」の2本立てを観た。

「生きてるものはいないのか」は、プロトタイプともいえるENBUゼミ・前田司郎クラスの卒業公演「ノーバディ」からはじまり、都合3回目の観劇となる。

はじめて「ノーバディ」を観たときにも書いたが、もとはといえばENBUゼミの卒業公演のために書き下ろされた作品であり、出演者全員にそれなりの見せ場をつくるための計算がされた戯曲だったのだと思う。
それが実際に上演されてみると、予想しないような(いやもしかしたら前田さんは稽古の時点で気づいていたのかもしれないが)スペシャルなことが起こった。
生徒たちはみな必死で死のうとする(この言語矛盾!)のだが、彼/彼女らの拙い演技力による死にゆく所作はどうみても滑稽で、まるでコントみたいなのだ。しかも「卒業公演」という性格上、観客は彼/彼女らの身内が大半であり、客席からはくすくすと笑い声が起こってしまう。人が真剣に死んでいるのに、やまない笑い声。おまけによく見たら、死んだはずの役者まで、死体のくせにちょっと笑ってしまっている! ……というのはぼくの錯覚かもしれないが、でも頻繁にお腹が動くので息をしてしまっているのがバレバレである。
なんておもしろいんだろう、と思った。

しかも重要なのは、彼/彼女らがとにかく真剣である、ということだ。
1年ないし2年、それなりにお金と時間を費やした演劇学校の卒業公演である。俳優としてプロの道に進む者もいれば、別の道に進む者もいる。野心に燃えている者もいれば、なんとなく卒業をむかえてぼんやりしている者もいる。ある季節の門出にあたり、この晴れ舞台で、彼/彼女らは一生懸命に死ぬ。必死に、バタバタと死んでゆくのだ。死体だらけ。そして、ホントは死んでいない。
しかしである。100年後には、彼/彼女らも、くすくす笑ってしまっているぼくらも、おそらく死んでしまってこの世界にはいないのである。

その後、「ノーバディ」は「生きてるものはいないのか」とタイトルを変え、プロ(という言い方が成立するのかは微妙だが)の俳優たちによって改めて演じられ、さらにはこの戯曲によって前田司郎は第52回岸田國士戯曲賞を受賞するに至った(ここで選評が読める)。

そして今回、「生きてるものか」というスピンオフ作品とあわせて上演されることによって、ようやくこの作品は完成をみたのだと思う。

長い旅をしているようだった。
観られなかった方は、検索などしてみてほしい。
またもや、「おやすまなさい」や「ふたりいる景色」、「さようなら僕の小さな名声」でも使われた、あの、たったふたりの、蝋燭の炎を思わせるポツポツとしたやりとり(かつて劇評で「エッセンシャル・オブ・五反田団」と呼ばせてもらったことがある)で幕はおろされ、誰もいなくなった舞台には静かに熱いものだけが残った。