2009/11/23

L-O-V-E、ラヴだよ

◆誕生日だった。またひとつ歳をとった。

◆星崎かのんはフェイクだぜきっと(ちがってたらごめん)。

◆7日、フレデリック・ワイズマン監督『パリ・オペラ座のすべて』。
ワイズマンといえばアメリカン・バレエ・シアターを撮った『BALLET』があるけれど(前に観たときの感想→)、今度はパリ・オペラ座。あいかわらずワイズマン節全開のすばらしいドキュメンタリーだった。
舞台(それもリハーサル?)よりも長い、会議や電話や掃除のシーン。オーレリ・デュポンすら出ないパリ・オペラ座映画に、Bunkamuraに集まったおばちゃんたちもあっけにとられたのではないだろうか。

◆その後、木場公園に移動し、超歌劇団「ぼうやー♪よい子だ、金出しな!」表公演を観劇。
毎年、夏の恒例行事と化していた超歌劇団。今年は来ないもんだと思ってたから、ホントにうれしい。今回のテーマは「裏おとぎ話」。最高に熱く、くだらなく、感動的だった。毎年お世話になっているリンクを→

◆8日、にしすがも創造舎でグルーポ・ヂ・フーア「H3」。
後ろ向きに疾走したり、全力でぶつかってはね飛ばされたり、無理矢理動きをストップしたりっていう、この「溜めてる」感じにぐっとくる。このフィジカルな知性ってあれだ、ブラジリアン・トップチーム。

◆12日、元週プロ野郎にしてフリーライター宣言をした鈴木健さんと実況アナウンサー・村田晴郎さんのイベント、その名も「神実況ドラマティック・ドリーム・トークライヴ」へ。
健さんの意気込み、周到な準備を知っていただけに、大盛況でなにより。ただ、「神実況」と銘打つからには、誰もが納得する「実況」芸をまずは見せてほしいと思ってしまったのも事実。唯一それっぽかったのがニコ動で有名なガチムチレスリングにつけた実況だけど、もうずいぶんと手垢のついている動画だし、なにより動画そのものがすでにおもしろいわけで。そうではなくて、あくまで二人の視点が入るからこそおもしろくなるようなコンテンツ選びをしないとまずい気がする。それができる人たちだとも思う。

◆13日、東京芸術劇場でサンプル「あの人の世界」。
ここ2作ほど見逃した間に、こんな遠くまできてしまったのか。
軸足は最初の頃から変わっていないと思うんだけど、もう片方の足が「運命」やら「出来事」にまで届いていて、そのバランスが見事。ラストの「本物」の金魚なんてキマリすぎていて、かえって不安になるくらいだ。頭の中でずっと、前野健太の「動物になっちゃいそう」が流れていた。
以下、いつかちゃんと本作について書く日のためのメモ。
 個体の利己を遺伝子の「利己」から剥奪して取り出しうるのは、両者の方向が対立するという状況においてだけである。たとえば鮭の個体の内に、苦難に満ちたしかも死に至る産卵のための遡行を拒否し、大海にそのまま悠々と遊ぶ自由と幸福を満喫することを選択する個体がいれば、その個体はドーキンスのいう遺伝子の生存機械ではなく、個としての主体性を確立したといえる。
 そういう個体は繁殖しないから、定義上このような「主体的」資質は進化しえないという論理は成り立ちそうに見えるが、そんなことはない。ある個体にとって第一の欲望は心理の探求であり、第二の欲望はセックスであるということはありうる。一方を選ぶとすれば学問を選ぶけれども、両立ができればそのほうが好ましい。それでも多くの子孫を残すことに支障はない。
(『自我の起源』 真木悠介)
 進化論的な「的格性」を決定する尺度の多次元化ということは、他個体たちからの個体の選択と「評価」の基準の多次元化ということの根拠を構成し、個体が次第に群れの他個体から個々にユニークな「かけがえのない」個として識別され、待遇されるということの根拠ともなる。
 [中略]
 こうして哺乳類という独自の分岐は、いつか人類というひとつの先端部分が、生成子の支配という圏域自体をほとんど走り去って(runnway!)しまうかに見える強固な個我の主体性を確立するまでに至る、加速度の助走を開始しているといえる。それが「進化」の暴走であるかは分からない。
(同上)
 個体を主体としてみれば、個体はその<起源>のゆえに、自己の欲望の核心部分に自己を裂開してしまう力を装置されている。個体にとって、性はなくてもいいはずのものだ。個体の長寿にも安らぎにも幸福にとってもないほうがいいものである。それでも個体は不可解な力に動かされるように性を求める。この不幸を求める。この不可解な力は個体自身のいちばん核芯からくる。個体は自分自身の中核によって自分を解体される。
 [中略]
 けれど個体の、この自己裂開的な構造こそは、個体を自由にする力である。個体のテレオノミー的な主体化が、自己=目的化、エゴイズムという貧相な凝固に固着してしまうことがないのは、個体のこの自己裂開的な構造のためである。個体は個体自身ではない何かのためにあるように作られている。法皇と王たちという中世の二重権力がやがて権力一般の相対化に向かうダイナミズムを生むように、生成子と個という目的論の二重化がテレオノミーの相対化に向かうダイナミズムを生む。
(同上)
 どの他者もわれわれの個としての生の目的を決定しないし、どの他者もわれわれの個としての生の目的を決定することができる。この無根拠と非決定とテレオノミーの開放性とが、われわれが個として自由であることの形式と内容を共に決定している。
(同上)

◆16日、映画美学校で諏訪敦彦、イポリット・ジラルド共同監督『ユキとニナ』試写。かわゆいなあ。よき映画だった。

◆17日、バルト9で『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』。



なんだこれ最高! 泣いたよ。「L-O-V-E、ラヴだよ」
周りにMJ狂が多いだけにちょっとはばかられもするが、それでもあらためて、喪ったものの大きさにたじろいでしまう。完全無欠のエンタテイナー。永遠に。

◆19日、あうるすぽっとで作:サラ・ケイン/演出:飴屋法水「4.48 サイコシス」。
死へ向かっていくサラ・ケインのテクストに寄り添いながら、強烈に「生」へと転換させるエモーショナルな舞台。声に出して読みたい「SILENCE(沈黙)」。音、光、気配、すべてに生理が息づいていた。

◆21日、東京芸術劇場前のオープンスペースでPort B「個室都市 東京」。ツアーにも参加。
Port Bといえば、池袋に来るたびに思い出す(ほとんどトラウマ)といっても過言ではない「サンシャイン62」。あれはホントすごかった。
今回の「個室都市 東京」も、都市社会学、格差社会論などのハイコンテクストな文脈を装いつつ(いやもちろん両含みなんだろうけど)、かなりエグーく迫ってきた。生理をついてきた。とてもよかった。