2009/11/05

「生きてるものはいないのか」+「生きてるものか」

Ikiteirumonoha先週の水曜日、一日池袋にいて、五反田団の「生きてるものはいないのか」と「生きてるものか」の2本立てを観た。

「生きてるものはいないのか」は、プロトタイプともいえるENBUゼミ・前田司郎クラスの卒業公演「ノーバディ」からはじまり、都合3回目の観劇となる。

はじめて「ノーバディ」を観たときにも書いたが、もとはといえばENBUゼミの卒業公演のために書き下ろされた作品であり、出演者全員にそれなりの見せ場をつくるための計算がされた戯曲だったのだと思う。
それが実際に上演されてみると、予想しないような(いやもしかしたら前田さんは稽古の時点で気づいていたのかもしれないが)スペシャルなことが起こった。
生徒たちはみな必死で死のうとする(この言語矛盾!)のだが、彼/彼女らの拙い演技力による死にゆく所作はどうみても滑稽で、まるでコントみたいなのだ。しかも「卒業公演」という性格上、観客は彼/彼女らの身内が大半であり、客席からはくすくすと笑い声が起こってしまう。人が真剣に死んでいるのに、やまない笑い声。おまけによく見たら、死んだはずの役者まで、死体のくせにちょっと笑ってしまっている! ……というのはぼくの錯覚かもしれないが、でも頻繁にお腹が動くので息をしてしまっているのがバレバレである。
なんておもしろいんだろう、と思った。

しかも重要なのは、彼/彼女らがとにかく真剣である、ということだ。
1年ないし2年、それなりにお金と時間を費やした演劇学校の卒業公演である。俳優としてプロの道に進む者もいれば、別の道に進む者もいる。野心に燃えている者もいれば、なんとなく卒業をむかえてぼんやりしている者もいる。ある季節の門出にあたり、この晴れ舞台で、彼/彼女らは一生懸命に死ぬ。必死に、バタバタと死んでゆくのだ。死体だらけ。そして、ホントは死んでいない。
しかしである。100年後には、彼/彼女らも、くすくす笑ってしまっているぼくらも、おそらく死んでしまってこの世界にはいないのである。

その後、「ノーバディ」は「生きてるものはいないのか」とタイトルを変え、プロ(という言い方が成立するのかは微妙だが)の俳優たちによって改めて演じられ、さらにはこの戯曲によって前田司郎は第52回岸田國士戯曲賞を受賞するに至った(ここで選評が読める)。

そして今回、「生きてるものか」というスピンオフ作品とあわせて上演されることによって、ようやくこの作品は完成をみたのだと思う。

長い旅をしているようだった。
観られなかった方は、検索などしてみてほしい。
またもや、「おやすまなさい」や「ふたりいる景色」、「さようなら僕の小さな名声」でも使われた、あの、たったふたりの、蝋燭の炎を思わせるポツポツとしたやりとり(かつて劇評で「エッセンシャル・オブ・五反田団」と呼ばせてもらったことがある)で幕はおろされ、誰もいなくなった舞台には静かに熱いものだけが残った。