2009/05/31

対話よりもおしゃべりを

『1Q84』、まだ読めていないが、『海辺のカフカ』を読み返したり、雑誌でいくつか村上春樹がらみの記事など読んだ。

Alteなかでも、この人にかぎってはこのタイミングというわけでもないのだろうけど、『オルタ』に載った杉田俊介「性暴力と失語――村上春樹『風の歌を聴け』ノート」がよかった。
かつて岡田利規は杉田俊介の思考スタイルについて「引き延ばし」という言葉をつかったが、今回も軸足はまったく動かさないまま、もう片方の足をより遠い地点へ飛ばそうとしている。

杉田さんはまず、「信用できない語り手」や「ノート」を手がかりに、『風の歌を聴け』が、その内在する重層的な失語とどのようにまみえた小説であるかをあきらかにする。
他人を騙すのみならず自分への嘘こそが嘘の純粋結晶体なのであり、性暴力の核心には「自分に嘘をつくこと」のブラックホールがある。自己欺瞞がおそろしいのは、他人や自分の言動の矛盾や微少な虚偽を責めれば責めるほど、自己欺瞞の澱が溜まるからだ。大切なのは自己欺瞞は自力では断ち切れない事実を思い知ること、別の言語使用を探ること、しかし非倫理的なアパシーと真剣な嘘の先に、既存の日本語=性分業を猛り狂わせる<真実>が宿るかもしれないことだ――他人の嘘を受け取り(損ね)、交換し(損ね)続ける場、「単純な、個別的な、または偶然的な」交換の場(マルクス)に。ぼくら読者は、『歌』をそんな賭け=嘘として受け取る。
その上で、『風の歌を聴け』の読み直しを図りつつ、その思考は、不穏さすら感じられるとんでもない地平にまで到達してしまう。
ぜひともみさなんにも読んでみてほしいのだけど、とはいえ、軸足はやはりここなんだよなあと思ったのが、
村上は、自分の言葉を自由に所有・操作可能と盲信する人の無自覚な暴力に抵抗し、加害者としての自分の中にすら常にある小さく弱々しいものの胎動に耳を澄ませてきた。論理や対話や論争の場では生き始められない沈黙や失語を。
という箇所。かつて杉田さんがぼくの日記について書いてくれた記事を想起したりもした。
でもって、杉田さんよりもいくらかまだ腰の軽いぼくがいまでも思っているのは、やっぱり「対話よりもおしゃべりを」ってことで。以前の日記(たとえばこれとかこれとか)でも似たようなことを書いたけども、それでも、なんどでもなんどでも同じところに戻ってくるし、そうやってゆっくりと大きな螺旋が描ければいい。
久々に杉田さんの原稿を読み、そのタフで粘り強い思考に触れ、改めてそんなことを思った。

同じ『オルタ』には別の人が書いた「村上春樹のエルサレム・スピーチを批判する」という原稿も載っていて、こちらはぼくですらちょっと雑駁すぎるよなあと感じる代物だった。
それに対するアンサーではないのだろうけど、杉田さんの原稿の中で先取りされている批判がそのまま当てはまっちゃうっていうのもなんとも……(雑誌的には大丈夫なのだろうか?)。
ちなみに杉田さんの原稿はこうだ――。
村上は政治的な作家なのか、という不毛な問いを無数の人が繰り返してきた。それは「政治と個人」の衝突において個の側につく、という話ではありえない。最近村上のエルサレム賞受賞をめぐって、ブログ論壇でキャンペーンや地域紛争が散見された。「村上ファンどもの自尊心と村意識を犬は食ってくれまいが『パレスチナ人』という大儀のために一人の人間を矮小化して恥じない精神の不感症(暴力の自己消去)こそが『イスラエル的』な暴力の縮小再生産に見える」とは今さら言わない。〇九年の今、息絶えつつあるのは、村上が七九年に孕んだ、他者の失語にこそ君もまず失語してくれ、というミニマムな「読むことの倫理」と言える。

Monkeyb他の雑誌では、『モンキービジネス』の古川日出男による村上春樹インタビューが、やはりおもしろかった。
――ぼくも作家を丸十年やってきまして、この機会にあらためて自分が村上さんから受けた影響を洗い出してみたんですが、作品的な影響というよりは作家の背骨としての部分でまず、村上さんの「肉体から小説を作るんだ」という覚悟と信条ですね、それに影響されて、自分なりにひたすら実践してみるっていう感じできたなあと痛感しました。
村上 肉体から――ということについて言うと、これは本当に単純な話で、ぼくは二十代の間、ずっと肉体労働をやってきたわけです。ジャズ喫茶みたいなバーみたいな店を持っていて、そこで毎日立って動いて、重いものを運んだり、なんのかんのと朝から夜遅くまで、かなりきつく体を動かしていました。贅肉なんかつく余裕もなかった。それが三十歳の時に唐突に小説を書き始めて、そっちの仕事が忙しくなってきたんでやがて店を畳んで、それからは机の前に毎日座って書き続けるという、これまでとはがらりと正反対の暮らしに変わっちゃった。その時、これは身体を鍛えておかないとまずいぞ、とつくづく思ったんですよ。机の前に座って一日何時間も仕事をするって、すごく疲弊しますよね?
――かなりします。
村上 だからここのところでしっかり身体をつくっておかないといけないと思ったんです。[後略]
――で、実際に体を鍛え始めてからの村上さんの感慨っていうか実感というのは、どういうものだったんですか?
村上 ごく単純に、贅肉つくと小説家は駄目だな、と思いましたね。実感として。
――ああ、いい言葉ですね。
村上 個人的な実感なんで、一般性がどれくらいあるかわからないけど、でもそう思います。とにかく贅肉がつくと身体の動きはそのぶん鈍くなります。身体の動きが鈍くなると頭の回転もやはり鈍くなってきます。ぼくが言うのは、小説家的な頭の動きということですが。もちろん贅肉がついても良い小説を書く人はいっぱいいますよ。ぼくが意味するのはもっと長期的なことです。長い歳月にわたってアクティブな小説家であり続けるには、ということです。
作家どうしだからこそ引き出せる言葉がある。
他にも「短篇」と「長篇」の位置づけや、「人称」問題など興味深い話がたっぷりのロングインタビューだった。