2008/06/25

大童貞、略してDDT

◆一週遅れになってしまいましたが、先週より『ヤンマガ』の巻頭カラーで始まったルノアール兄弟の新連載、その名も「セクシーDANSU☆GAI ユビキタス大和」が素晴らしすぎる!!

ソバ屋にセクシーDANSU☆GAIがいるというぶっ飛んだ設定もさることながら、アクション、ボケ、ツッコミのハイパーコングロマリットぶりに、ギャグ漫画の更新に真正面から挑もうとする気高い志すら感じてしまいました。ゴー・フォー・ブロック、ユビ!!

Kc_ddt1◆おまけに盆と正月がいっぺんにじゃないですが、なんとルノアール兄弟の新刊『ルノアール兄弟の愛した大童貞 (1)』まで発売されております。

シリウスのサイトで連載されているWeb漫画の単行本化なんですが、サイトには載っていない主人公・土毛のブログ日記なんかも収録されており、大童貞の世界をより立体的に堪能できるようになっているので、これは買い!です。
マッスル坂井と松江哲明監督による帯文も必見。

2008/06/23

また夏がくる

今月はわりとライブを観ています。

Jackie-O Motherfucker Japan Tour@Shibuya O-nest 06/02
なにげに楽しみにしていた初ツジコノリコが、Vampilliaというバンドのゲスト・ヴォーカルとして一曲のみの出番でやや残念。けど「White Film」よかったー。
Jackieoジム・オルークとメルツバウの純ノイズ対決でふらふらになったところで、トリのジャッキーO・マザーファッカー。
寄せては返すサイケデリックの大波小波。
ライブ後はプールではしゃいだ小学生のようにどっと疲れが。
会場で合流したゲラーズのKくんとバサラブックスのKくんとフリーペーパーの帝王・KくんのKKKトリオと、吉祥寺でげんこつラーメン喰って帰る。

KILL ROCK STARS Showcase@恵比寿リキッドルーム 06/14
ついにきたキルロックスターズのショウケースライブ。
出演順にPANTHER/MIKA MIKO/XIU XIU/DEERHOOF。
なんといってもXIU XIU目当てだったわけだけど(てっきり初物かと思ったら03年に一度来日してたらしい)、これがもう予想を上回る衝撃。ジェイミー・スチュワートの本気っぷりにやられる。
これはやばいわ。
衝撃の余韻を消したくないという同行者・Fさんに賛同し、XIU XIU終わりで会場をあとにする。
前二つでは期待していたMIKA MIKOがややおとなしくてもったいなかったなあと。でもそのおかげでXIU XIUを迎えるにちょうどいい空気ができていたような気もするので、結果オーライか。

あがた森魚といまから山のぼり@三軒茶屋グレープフルーツムーン 06/15
三輪二郎といまから山のぼりがあがた森魚さんを迎えてお送りするという、おむすび佐藤くん率いるハヤシライスレコードのライブ企画。
CDで何度か聴いてたshibata emicoさん。見た目は小柄でキュートな女性なのだけど、大気をぐわっと掴むような世界観が心地よい。まだステージングに慣れてない感じも微笑ましかった。森田童子のカバーきまってたなあ。
Yamanobori続いておまちかね三輪二郎といまから山のぼり。
今日も二郎さんはかっこいいな。山のぼりもかっこいいぜ。この日はなんだか音の粒だちが踊ってる様まで聴こえてきたよ。音がよかったよー。
そういや、いかしたクルー・TOKYOHELLOZ製作総指揮による、三輪二郎のいかしたPVが、YouTubeにあがってるんで、みなさんぜひ見てみてください。しかし最初と最後、轟渚さん、おいしいすぎるよ!(たぶん撮影日にこれなかっただけだと思うけど)
で、肝心のライブのほうは、トリのあがた森魚さんが完全ガチモード。語りと唄を行き来しながら、客席まで縦横につかってあがたワールドを展開。素晴らしすぎる。赤色エレジー、力強かった。
ラスト、三輪二郎といまから山のぼりを呼び込んで、「百合コレクション」と「ブリキロコモーション」を競演。あがたさんが一番元気で楽しそうだったもんな。まったくすごいことだよ。本気にさせた二郎さんと佐藤くんも。

前野健太ワンマン ギターと歌う@高円寺無力無善寺 06/16
Maenomu01三輪二郎、前野健太とすごいツーデイズ。それにしても、楽しみにしてたんだ前野健太ワンマンライブ。しかも、開演2時間前に突然ビデオ撮影大臣を仰せつかり、こんな光栄な仕事もないよ。
前半はアコースティック弾き語り、休憩を挟んで、後半はエレクトリック弾き語りの二部構成。
たっぷり二時間、マエケンのみ聴ける幸せよ。新曲もたっぷり。どの曲も、下半身にくるし、走ってるしで、たまらなかった。「sad song」、たまらなかったなあ。
Maenomu02_2後半のエレクトリックセットでは「カントリーロード」の日本語カバーや、荒井由美の「卒業写真」のカバーも披露。ゲストに二胡リスト・吉田くんを迎えての「友達じゃ我慢できない」、お客さんからお題を募っての即興ソング「図書館」もよかった!
即興ソングを聴いたナヲイさんが、打ち上げでさっそくマエケンに『spotted701』のCMソングを頼んでたのはさすがだった。たぶん近いうちに皆さんの耳元にも届くのではないかと思われます。

Melting Pot Special & AH-WOOTRAPPその16@Shibuya O-west 06/17
予定には入れてなかったのだけど、どうしてももう一度XIU XIUが見たくて行ってしまった。
他の出演者は、トクマルシューゴ/降神/テニスコーツ。
ただし久方ぶりのテニスコーツは遅刻して観られず。
そして、トクマルくんも降神もよかった(とくに降神の「帰り道」のイントロにはやはりゾクゾクしてしまった)のだけど、とにもかくにもトリのXIU XIUにぜんぶもっていかれてしまったのでした!
ただ初見だったリキッドほどの衝撃はなし。PAはこちらのほうがよかったが。
会場で合流したキアズマ先生とバサラブックスのMくんと、吉祥寺の一風堂でラーメン喰って帰る。

銀杏BOYZ/YUKI ライブ@Zepp Tokyo 06/22
せんそうはんたいツアー最終日以来、久々の銀杏ライブ。
新曲はほとんどやらなかったけど、ファストナンバーで攻め立てて、客席がいつものように生き物のようにうねってた。あれ龍だか虎だかに見えるときがあるよ。「駆け抜けて性春」でついにYUKI本人が! ナタリーにもレポートあがってたね。小松くんにも見せてやりたかった。
さいきん音楽を聴くのが楽しくてしょうがなくて。ライブハウスで買ったCD-R音源なんか聴いては、このバンド早くアルバム出さないかなあとか、今日はどこでどんなバンドが素敵なライブをやるんだろうかとかそんなことばかり考えてる。まさか自分が30をすぎてまたこんな気持ちになれるなんて、数年前には思ってもみなかったことだ。
で、なんでだろうと考えてみれば、たぶんそのきっかけはやはり銀杏BOYZだったのだと思う。
昨年のちょうど今頃だ、「ギンナンショック!」(末井昭)に襲われたのは。それから数ヵ月のボーイズ・オン・ザ・ラン。
銀杏BOYZの「光」のPVのなかに、『童貞。をプロデュース』のインターミッション映像用に中野サンモールで峯田くんが弾き語りをしている写真があって、そこになぜだかオイラも映りこんでるんだけど、なんかあの写真が、自分にとっての07年夏のすべてを象徴しているような気がする。

さて、今年はどんな夏になるだろう。

2008/06/19

か、枯れたのか……!?

いま売ってる『群像』に大江健三郎と岡田利規による第二回大江健三郎賞受賞対談が載ってるんだけど、冒頭の大江健三郎の発言――
大江 長嶋さん(筆者注:第一回受賞者の長嶋有氏のこと)は魅力的な人ですから、応援団がついています。かれらの同人誌に、第一回授賞式についての愉快な座談会があり、大江はもじもじしたり、無意味に手を動かしたり、とくに長嶋さんが話している間、眼鏡を磨いていたと(笑)。それを読んでいると、岡田さんの芝居の俳優になったような気がしました。私もむやみに無意味な身ぶりをするわけです。
 旧来、日本人はあまり身ぶりをしないで話していたのではないかと。私がこの頃気がつくのはテレビのトーク番組で話す人たちが過度に腕を動かしている。それは、無意味な習慣ではないだろうかとつねづね考えていたのに、自分も同じことをやっていました(笑)。
これ、会場での発言と微妙に変わっている。
というのも、会場で大江健三郎は、「テレビのトーク番組で話す人たち」ではなく、具体的に、彼より一つ年下の齢72にして、チェルフィッチュ・岡田利規といまなお身体表現の最前線で共振するある芸人の名前と、その芸人がホストを務めるテレビ番組について、はっきりと口にしていたからだ。
このブログを見てくださっている方にはもう想像ついたかもしれないが、その名前は立川談志。テレビ番組とは「談志・陳平の言いたい放題」のことである。

しかし、なんで変えちゃうかなあ。かねてよりチェルフィッチュ化する談志師匠について書いてきた身からするとあれは快哉を叫びたいような瞬間だったし、大江健三郎の発言としても、「テレビのトーク番組で話す人たち」でなく「立川談志」であることにちゃんと意味があったと思うんだけどな。

それはさておき、立川談志最新バージョンを確認するため、6月7日、立川談志・志らく親子会@三鷹市公会堂へ行ってきたのだった。

前回がこんなんだったので、なにが来ても驚く感じではなかったのだけれど、なんと、この日の談志師匠は「すべてを受け容れる」談志であった。

ここのところ演目一覧にわざわざ「体調不良」と明記されてることからもわかるとおり、健康状態はかなりよくないのだろう。実際、声もかなりかすれていた。
こんなコンディションであれば、以前の談志師匠なら、自身の体調への不満、苛立ちをまくらでひとしきり話してからようやく噺に入って、噺も途中でちょいちょい中断して、ってな具合だったにちがいない。むしろそこに身体をめぐる精神と肉体の凄まじいまでの相剋を刻み、その先にチェルフィッチュ化なんていうとんでもない境地まで見せてくれていたわけなのだが。

しかし、この日の談志師匠は高座に上がるなりいつものジョークあれこれにつづき、ローな感じでそのままにすっと「やかん」に――。
体調不良も、老いもそのままに、淡々と、訥々と、繰り広げられるイリュージョン問答。このトワイライトゾーンに入ってしまったような不思議な時間の流れ方はなんだろう。
も、もしかして、これは!?
……枯れ!?

まさか、談志師匠が枯れるなんてそんな。
まだ一概にはいえないけれど、でももしそんなことがあるのだとしたら、それはすごいことだ。
だって、あの噺や、この噺も聴いてみたいじゃないか。
枯れた談志で!

とにもかくにも、談志師匠の体調が一日も早く回復されることを祈っているのです。

ちなみに、志らく師匠の「鉄拐」「品川心中」も素晴らしかった。
「鉄拐」はずっと演りつづけてほしいです。ファンタジーあふれる面白い噺なのに、いまや談志師匠ぐらいしか演ってくれないので(サゲが地味だからかなあ)。

2008/06/13

ポツドールとマジックミラー

一ヵ月ぐらいたってしまったが、こちらでいくつか雨宮まみさんとのやりとりがあった。
わかったのは、やっぱり雨宮まみはものすごい破壊力のあるライターだなあということとともに、雨宮さんもコメントで書いているとおり、自分とは興味の方向がまるっきり違うんだなあということ。
以前から雨宮さんがAVについて書かれたテキストを読んだときもまったく同じことを思っていたので、今回の件はちょっと感慨深いものすらあった。
「ポツドールの芝居と自分を同一視」できるなんてすごいことだ。僕にはぜったいできない。だからこそ、そんな人が書いたポツドール論はすごく読んでみたいわけだけど。

雨宮さんはあくまで舞台上で表現されている感情に関心があり、演劇的な方法論にはあまり興味がいかないという。
僕はといえば、舞台上で表現されている「感情」よりも、どうしてもそれを支えている方法論や身体のあり方(雨宮さんのいう肉体性とはまたべつのものです)のほうに関心がいってしまう。というかその二つが切り離せない。そこに、映画でも小説でも漫画でも紙芝居でもなく、演劇である意味があるから。

ポツドールに即して言うなら、たとえばそれは、覗き見るという感覚だったり、身もフタもない即物性(たとえば暗闇でレイプの悲鳴や物音に耳を傾ける)だったりする。
だからポツドールを観るときは、ただただ静かに固唾を呑んで(観客という名の鈍重な演劇的身体!)、そこにある身体(それはたいていの場合、僕たち同様だらしなく貧しいカラダをしている)と、それを囲む暗い四角い空間を感じるしかない。
「きみは演劇を単一に見ることはできない。きみは演劇を二重に見なければならない。ある種のぼやけたヴィジョンで見なければいけないんだ」
(トニー・クシュナー)
僕たちはたとえ舞台上で俳優が死んでも、それは実際に死んだわけではないことを知っている。横たわっている死体は、本当は息をしていると。
たしかに演劇なんて、四角い空間で俳優が貧しい身体を晒してジタバタしているのにすぎないのだ。それを僕たち観客が暗闇で、肩を寄せ合い、身を屈めて、じっと眺めているだけのこと。
なのに/であるからこそ、それは僕たちにとってたまらなく切実な体験となるのだ。とりわけポツドールをはじめとするいくつかの劇団の舞台を観ることは。
そのあたりについてはすでにここで一度書いたので、繰り返さない。

ポツドールにおける二重性。
表面的にわかりやすいのは、たとえば「ニセS高原から」の際に触れた「話の裏読み」ってやつだろう。もしシンデレラが純朴な少女ではなく、じつはものすごく計算高い女で、継母や姉にいじめられるのも、それで同情を買うのも、なぜか王子の目にとまってしまうのも、靴を忘れていくのも全部計算でやってたとしたらっていう。
一見、円滑にみえるコミュニケーションに裏がある。嫉妬や、優越感や、秘密や、コンプレックスが張りついている。
そういった人間の醜い部分をポツドールは執拗に舞台上に描きだす。そのために、一度はうまく行っているように見える関係性を時間経過とともに裏返してみせる。それなりに仲のよさげな夫婦が、じつは互いに内緒で不倫をしている。一見善良そうな男がいきなり差別意識を剥き出しにしたりする。

最近ではそのような二重性を、作品の時系列のなかに配置するのではなく、同時に存在するものとして描こうとしているようにもみえる。
『顔よ』の前作『人間・失格』では、主人公の男が、自分を振り込め詐欺でだまそうとしている出会い系の女をただ帰すのか、それともレイプするのか――もちろん演劇がリニアな表現である以上、どちらかが先に演じられるのであるが――その二つの展開は、時系列上に並ぶのではなく、どちらのシーンもが同時にそこに存在しているように思わせるだけの強度と即物性を具えていた。
『顔よ』のラストもそうだ。ヒロインたる主婦を演じる女優が入れ替わるあの瞬間に二重性が結晶した形で現れていた。だからこそ、多くの観客はあのラストをたんなる夢オチとして片づけることができなかったはずだ。

観客が舞台そのものを二重で見ているまなざしについても考えたい。
演劇では、映画やテレビに比べてフレームが厳密でないぶん、舞台を見る観客の目線は自由度が高い。だから演劇を見る者は暗闇で肩寄せ合ってじっとしている自分の鈍重な身体についてついつい忘れがちになる。自分たちが誰に見られることもなく、生身の人間を一方的にまなざす者であることがあまり意識されない。つまり、自らが窃視者であることの後ろめたさを感じないですんでいる。

しかし、ポツドールの場合、ときに窓枠(=フレーム)を意識させることで、観客とは、暗闇から一方的にただ見つめることしかできない窃視者であることを暴露する。それも華麗なる盗撮者ではなく、結局のところ誰かによって切り取られたあるフレームでしか窃視することしかできない鈍重な人間であることを。
ポツドールの舞台美術でいつも効果的に使われているテレビが象徴的だ。僕は日常で浴びるようにテレビの映像を見ているが、それはけっきょく誰か(具体的にはカメラマンだったり、ディレクターだったり、秋葉原で起きた無差別殺人の現場を携帯動画で撮影した通行人だったり)のまなざしを反復して見ることでしかない。

ただ、テレビと違うのは、観客はポツドールの舞台から簡単に目を反らすことができないということだ。ただ見ることしかできない観客の鈍重な身体は主体的なようでいて、じつはとても受け身的である。
そのことでポツドールと観客の間にはSM的な、そういって言葉が悪ければ共犯的な関係が成立する。

Kaoyoやはり窃視症と露出狂は同じ病理の裏表なのだろう。
「顔よ」の劇中で、ヒロインたる主婦は、顔の見えないまなざしに監視されている。一方的に見られる者である。
かつてエデンの園で蛇の目によってまなざれたイヴは羞恥を覚え、原罪を抱えこんだ。それ以来人間が様々な欲望の虜となって生きるしかなくなったように、主婦のなかに芽生えた羞恥もやがてマゾヒスティックな欲望を喚起するだろう。「もっと見られたい」。そして、できることなら自分をまなざす者の顔を「見たい」。
主婦の生活を覗き見ていた男もしかり。「見られることなく見ること」を欲望していた男が、主婦に「見られること」を望むのは時間の問題である。

ちょっと話が変わるが、今回の雨宮さんのテキストで一番よくわからないというか、これだけは本当にタチの悪いフレーミングだと思ったのが、「みんな過去のV&Rのことばかり語りたがる」とやたら激昂してるんだけど、雨宮さん言うところの「からかい半分のアオリ」に使われた僕の三浦大輔インタビューですら、面白いAVとして『マジックミラー号』をあげているにも関わらず、それをまったくないことにしている点だ。
雨宮さんに言わせれば『マジックミラー号』はいまのAVのトレンドではないし、ただたんに「面白くないAV」なのかもしれないが、それにしたって、自分の主張に沿わない部分をなかったことにしてしまうのはいくらなんでもあんまりだろう。

で、雨宮さんへの愚痴はおいておいて、ようするになにが言いたいかというと、インタビュー中のマジックミラー号についてのくだり(マジックミラー号への言及については七里くんとのおしゃべりから多大な示唆をもらったことを感謝します)で三浦さんが語っている、「かつて舞台と観客席の間にマジックミラーを設置しようと考えたことがある」という発言はじつはすごく重要なんじゃないかということだ。

暗い側からは窓として、明るい側からは鏡として機能するマジックミラー(マジックミラー号のは、明暗がなくても機能する特殊仕様だけど)。もしマジックミラーを明るい舞台と暗い客席の間に設置すれば、観客が「一方的に見る者」であることははっきり可視化されるにちがいないから。

「顔よ」が終幕すると、舞台は暗転し、客電が点く。
マジックミラーは反転し、さっきまで窓だったものは鏡となる。
もちろんそこに映るのは――僕たちの顔、だ。

ただ忘れてならないのは、結局のところ、僕たちは他人の顔を見るのと同じ地平で自分の顔を見ることはできないということ。他人をまなざすことと、自分の顔を鏡で見ることはまったく別の行為だからだ。本当の意味で自分の顔を見るためには他人のまなざしを通過するよりほかない。
「顔よ」を見終わったあとの気まずさや息苦しさの正体。あれは他人の顔を見てしまうことでも、その裏で稼働する自分の自意識に圧迫されることでもない。
つらいのは、他人のまなざしに映る自分の顔を、他人の顔を通して見てしまうことなのだ。

※いい機会なので「面白いAV」についてもちゃんと書いておきたいと思うのですが、長くなったのでまた後日。