2008/05/15

豆腐のような毎日

豆腐のような毎日さ
豆腐のような毎日さ

って前野健太の「豆腐」ばかり聴いてる。
未発表曲なんだけど、U.F.O.Clubのコンピに入ってる。

先週の土曜日、前野くんと三輪二郎さんと対談つーかおしゃべりを吉祥寺の「庭」っていうひなびた純喫茶で。
「庭」は、いつもすいてて、居心地がよいのです。
なのにこの日にかぎって、スーツを着た若い男女15名ほどがやってきて、通路をはさんだ席で合コンみたいなことをはじめだす。
夜の9時すぎ。ありえないよ。和民かつぼ八、行ってくれって。

仕事と生活と音楽のトライアングル、その話になったなあ。
やっぱり。
同世代のミュージシャンたち。

美舟でいつものみんなと合流して、気づいたら15人ぐらいの大所帯になっていたのでチェーン居酒屋へ。

直井さんに前野くんと三輪さんを紹介できた。
こんどはさきっちょも会わせよう。

ハモニカにもどって、「ファイナル・カウントダウン」に笑いながら奇跡の夜遊び。
小松くんはこないだ学生大喜利大会で決勝まで行ったらしい。
ふだんからフリースタイルで鍛えてるんだよ。
大喜利版『8 Mile』だよ。

デニーズで朝まで大喜利力をみがく。

2008/05/07

マッスルハウス6

連休最終日は「マッスルハウス6」@後楽園ホールへ。
詳細はこちらで。

過去最高にシリアスな内容だった前回の揺り戻しか、過去最高にお笑いによったマッスルに。
あるいは、そもそもマッスルという興行の設立趣旨であった「ファイティング・オーディション」という原点に戻っただけという話も。

マッスル坂井自身は、オトナの事情で実現できなかったり、時間不足で練り込み不足のアイデアがいくつかあったようなことを興行中に匂わせたりもしていたが、それでも投げっぱなしにせず、きっちりまとめてみせる手腕はさすが。

こういったマッスルがあってもいい。
これからも、とことん自由にやってほしいよ。

エンドロール後にはこんな衝撃情報が!
YOSHIMOTO DIRECTOR'S 100
マッスル坂井監督作「シルバーホストG
6月7日(土)~6月13日(金)まで
神保町花月、ヨシモト∞ホール、ルミネtheよしもとにて公開!
前売800円 当日1000円
公式HP http://www.yoshimoto.co.jp/yd100/
マッスル坂井がついに映画監督デビュー!
しかも主演・村上ショージ!!

2008/05/05

相対性理論ライブ

相対性理論のライブを観る@渋谷クラブクアトロ。

とにかく動いているところが観てみたかった相対性理論。
ヴォーカル・やくしまるえつこは、最初から最後までほぼ直立不動のまま。声もアルバムに忠実に体温低め。最初はちょっと硬くなってるのかと思ったけどそんなこともなく、むしろこちらが慣れていなかっただけで。ブレイクを多用するエモっぽい演奏に乗せ、歌詞中の特徴的な単語を転がしながら、たゆたうような不思議なグルーヴを生み出していた。

2008/05/04

君についての覚書き

連休初日。
松倉如子さんやビトさんが出る円盤ジャンボリーに行くつもりだったが、寝坊して断念。自由と生存のメーデーに夜のトークイベントから参加することにして新宿へ。

開始時間になっても会場のCLUB ACID前にはけっこうな行列が続いており、盛況な様子。
フリーターズフリー組に合流させてもらい、中へと入る。ちょうど雨宮処凛さんがトークしているが、人がいっぱいのため入り口そばに席を確保し、杉田俊介さん、大澤信亮さん、栗田睦子さんらと近況など話す。以前からいくつかの集まりでよくお名前を伺っていたかりん燈の渡辺琢さんや、雑誌『ロスジェネ』を創刊準備中の浅尾大輔さんを紹介していただく。

『ロスジェネ』については、デザインやタイトル周りはともかく(えらそうにあーだこーだ言ってしまいすみませんでした)、内容については期待している。
とくに大澤信亮の小説。
以前、同人誌『エフェメーレ(儚)』に掲載された「君についての覚書き」は本当に突き刺さったから。

みんなでラーメン食って帰る。

2008/05/03

眼のエイリアンズ

昼、京橋の喫茶店でSPOTTED PRODUCTIONSナヲイさんに忙しいなか時間をつくっていただきインタビュー。
というかおしゃべり。

『童貞をプロデュース。』をはじめとして、常日頃、ナヲイさん仕掛けの映画を楽しませてもらってるのはもちろんのこと、自分の企画した上映イベントを手伝ってもらったり、新年会でも「やったろうぜ」ってな感じでマジ握手したりしていながら、じつのところナヲイさんの過去のことはほとんど知らずにいたので、いい機会だった。

一度も作り手に回ったことがないことを気にかけながらも、だからこそプロデューサーとしてできることを、と探るナヲイさん。プロジェクト主義でなく、作品至上主義でもなく、まずはとことん監督の才能と人柄、つまりは人間に惚れ込むナヲイさん――。
こないだ「エクス・ポ」のイベントで、富永昌敬監督が、「日本映画界にあとふたりぐらいナヲイさんがいれば状況はかなりよくなるのに」(ややうろ覚え)みたいなことを言ってたけど、ホントそう思うよ。

前野健太三輪二郎のCDを手渡す。
近いうちにふたりとナヲイさんを引き合わせたいと思っている。

Vernacukar_2インタビュー後、すぐそばのINAXギャラリーでやっている石川直樹写真展「-VERNACULAR 世界の片隅から-」へ。

端正な距離のとり方と、呼吸の深さがズシリとくる。
生命の躍動が、おそるべき静謐さのなかに収められてる。映画のアクションシーンが、クライマックスで、無音とともにスローモーションになってしまうような。

石川さんとは近日中に、ある雑誌連載のなかで一緒に仕事をさせてもらう予定だ。
その連載は、たぶんぼくがもっとも好き勝手させてもらっている編集者仕事のうちのひとつで、毎回、自分の好きな写真家たちにひとりずつ交替で撮影をお願いしている。

これまでお願いしたのは、下村しのぶ、梅佳代、梅川良満、川島小鳥、間部百合。いずれも固有の距離感、質感、カメラアイを持った素晴らしき写真家たち。
事実、あがった写真は、全員が全員、信じられないぐらいよかった。
石川さんの写真もすごく楽しみだ。

Mayonakaそして写真家といえば、新創刊の雑誌『真夜中』で、大竹昭子さんが名著『眼の狩人』の90年代版、その名も「眼のエイリアンズ」という連載をはじめている。
記念すべき第1回にフィーチャーされているのが佐内正史。
佐内さんの写真に拮抗する張り詰めたテンションといい、写真から見た雑誌エディトリアルの変遷への言及といい、まさに『真夜中』の篝火となるような熱さを内包した美しい文章だった。

2008/05/02

観客という名の鈍重な演劇的身体

吉祥寺シアターでガーディアン・ガーデン演劇フェスティバル参加作品のユニット美人「髪結いの女たち」を観る。

ユニット美人は京都の劇団衛星所属俳優の黒木陽子と紙本明子が中心のユニットで、仮結成当初は「クラブイベントなどでちょこっと『ブルマ人間ブル子』のコントをやっていた」(劇団HPより)らしい。どんだけゆるい「クラブイベント」だよ……。

劇団のテーマでもある「女性が考える女性の強さ・美しさ・笑い」を30分×3話で、努力・友情・勝利な子どもアニメ風に展開してみせた今回の「髪結いの女たち」。ズバリいって、同じテーマならはなとゆめのほうが好みだし、むっちりみえっぱりの角をクニッと丸っこくするような「演劇あたま」のほうを圧倒的に買う。ただ、それでもやはり、失うものがないゴーフォーブロックなブルマ姿のハイテンション演技は、イナタいローカル色とあいまって、ちょっとだけ心に響いてくるものがあった。

あと、1ステージのみの東京公演にしたために早々にチケットが完売してしまったらしく、予定していた観客席の後ろにちょっと間をあけて、追加でさらに一段高いひな壇を設けており、ぼくもその追加席で観劇したのだけど、これがまったくの偶然とはいえ、非常におもしろい体験だった。

もともとの席というのが舞台美術である赤い絨毯の花道をサンドイッチする形で設けられていて(先日のチェルフィッチュ「フリータイム」みたいな客席といったらわかる人にはわかるだろうか)、もう砂カブリみたいな状態なんですね。この席が手前・奥、合わせて80席ぐらいあっただろうか。
劇団側の謙虚さというか、自信のなさの表れというか、1ステージ公演にもかかわらずその席数なもんで、吉祥寺シアターのいつもなら舞台となるべきスペースに舞台美術と観客席すべてがコンパクトに収まってしまっているような感じだった。

一方、追加の席というのは吉祥寺シアター備え付け観客席の上方部分、言ってみればいつもどおりの観客席なのです。
そんなわけで、この追加席という名のいつもどおりの観客席から舞台を眺めると、自然と、「赤絨毯の花道で繰り広げられる、妙齢女子がブルマ姿で繰り広げるハイテンション芝居」だけでなく、「そのハイテンション芝居を砂カブリの位置で見せられて笑ったり当惑したりしている観客たち」をも観ることになってしまうのです。
ようするに、意図せずして(もし意図してたのだとしたら素晴らしすぎる)、舞台上に異化効果が働いちゃってるという。

そうなると、自分の身体も含めて、小澤英実いうところの「暗い客席のなかで窮屈に身を寄せ合って座っている、観客という名の鈍重な演劇的身体」がグーンとせり出してきてしまうわけで、これはかなりスリリングで貴重な観劇体験だったのでした。

Butaigeijutu13で、そんなことを考えたのも、送っていただいた『舞台芸術』に掲載された小澤さんの「生きてるものはいないのか」と「ゴーストユース」についての論考、その名も「めぐりあう身体たち」がかなり刺激的だったからで。

この論考、自分も末段で謝辞を記していただいているんですが、だからというわけじゃなく、ホント普段から自分が漠然と考えていたようなことがきちんと整理して書かれていて、びっくりした。
やっぱりちゃんと勉強しているひとはすごいなあ。

いちばんグッときたくだりを孫引きしておこう。
ブレヒトの演劇に深い影響を受けたトニー・クシュナーが、セントラルミシガン大学で行った講演の質疑応答のなかで、演劇と映画の違いを説明した発言――。
ブレヒトの理論の非凡なところは、すごくシンプルなことだと思う。舞台上の物体を見るとき、その物体はそれらしく見える。きみがそう信じているからね。でも同時にそれは、それが表す物なんかではまったくない。それは舞台上にあるニセモノだ。演劇は、きみにそのことをけっして忘れさせない。これが演劇だけがもつ価値なんだ。……きみは演劇を単一に見ることはできない。きみは演劇を二重に見なければならない。ある種のぼやけたヴィジョンで見なければいけないんだ。舞台の上できみが見る死体(もちろん、もっとも有名な例は『ハムレット』の終幕だ)、舞台上で見るあらゆる死体はみな息をしている。もしそれが本当に素晴らしい『ハムレット』なら、観客は涙を流すだろう。役者たちは当然死んでいないと理解しているのだからおかしなことだが、それでもひとは揺さぶられて涙を流させられる。観客は世界を批評的に見させられるんだ。……『エンジェルス・イン・アメリカ』の映画版で、製作者たちがワイヤーをデジタル処理で除去しようとしたとき、僕たちは大論争をした。なにしろワイヤーこそが重要なんだ。公演日程の終わりごろには、引き具に吊された不幸な女優の背中は壊れそうになっている。でも、もしそれがほんとうにすごい芝居であれば、見ている人はそれがリアルじゃないと知りつつ、超自然的で魔術的な何かを見ている感じをもつ。この二重性――それこそが、生を理解し、生に到達するための唯一の方法なんだ。
あー、もう、まさに自分が演劇に打ちのめされるときの核心がここにあると思う。
だからこそ、たとえば「マッスル」や「立川談志」について「自称・演劇好き」みたいなひとたちに話すとき、好き嫌いはべつとして、「それってプロレスでしょ」とか「落語でしょ」とか言ってスルーされたりすると、とてもさびしい気持ちになるんだよなあ。
演劇って、「ぴあ」のインデックスじゃないんだからさ。