2008/06/13

ポツドールとマジックミラー

一ヵ月ぐらいたってしまったが、こちらでいくつか雨宮まみさんとのやりとりがあった。
わかったのは、やっぱり雨宮まみはものすごい破壊力のあるライターだなあということとともに、雨宮さんもコメントで書いているとおり、自分とは興味の方向がまるっきり違うんだなあということ。
以前から雨宮さんがAVについて書かれたテキストを読んだときもまったく同じことを思っていたので、今回の件はちょっと感慨深いものすらあった。
「ポツドールの芝居と自分を同一視」できるなんてすごいことだ。僕にはぜったいできない。だからこそ、そんな人が書いたポツドール論はすごく読んでみたいわけだけど。

雨宮さんはあくまで舞台上で表現されている感情に関心があり、演劇的な方法論にはあまり興味がいかないという。
僕はといえば、舞台上で表現されている「感情」よりも、どうしてもそれを支えている方法論や身体のあり方(雨宮さんのいう肉体性とはまたべつのものです)のほうに関心がいってしまう。というかその二つが切り離せない。そこに、映画でも小説でも漫画でも紙芝居でもなく、演劇である意味があるから。

ポツドールに即して言うなら、たとえばそれは、覗き見るという感覚だったり、身もフタもない即物性(たとえば暗闇でレイプの悲鳴や物音に耳を傾ける)だったりする。
だからポツドールを観るときは、ただただ静かに固唾を呑んで(観客という名の鈍重な演劇的身体!)、そこにある身体(それはたいていの場合、僕たち同様だらしなく貧しいカラダをしている)と、それを囲む暗い四角い空間を感じるしかない。
「きみは演劇を単一に見ることはできない。きみは演劇を二重に見なければならない。ある種のぼやけたヴィジョンで見なければいけないんだ」
(トニー・クシュナー)
僕たちはたとえ舞台上で俳優が死んでも、それは実際に死んだわけではないことを知っている。横たわっている死体は、本当は息をしていると。
たしかに演劇なんて、四角い空間で俳優が貧しい身体を晒してジタバタしているのにすぎないのだ。それを僕たち観客が暗闇で、肩を寄せ合い、身を屈めて、じっと眺めているだけのこと。
なのに/であるからこそ、それは僕たちにとってたまらなく切実な体験となるのだ。とりわけポツドールをはじめとするいくつかの劇団の舞台を観ることは。
そのあたりについてはすでにここで一度書いたので、繰り返さない。

ポツドールにおける二重性。
表面的にわかりやすいのは、たとえば「ニセS高原から」の際に触れた「話の裏読み」ってやつだろう。もしシンデレラが純朴な少女ではなく、じつはものすごく計算高い女で、継母や姉にいじめられるのも、それで同情を買うのも、なぜか王子の目にとまってしまうのも、靴を忘れていくのも全部計算でやってたとしたらっていう。
一見、円滑にみえるコミュニケーションに裏がある。嫉妬や、優越感や、秘密や、コンプレックスが張りついている。
そういった人間の醜い部分をポツドールは執拗に舞台上に描きだす。そのために、一度はうまく行っているように見える関係性を時間経過とともに裏返してみせる。それなりに仲のよさげな夫婦が、じつは互いに内緒で不倫をしている。一見善良そうな男がいきなり差別意識を剥き出しにしたりする。

最近ではそのような二重性を、作品の時系列のなかに配置するのではなく、同時に存在するものとして描こうとしているようにもみえる。
『顔よ』の前作『人間・失格』では、主人公の男が、自分を振り込め詐欺でだまそうとしている出会い系の女をただ帰すのか、それともレイプするのか――もちろん演劇がリニアな表現である以上、どちらかが先に演じられるのであるが――その二つの展開は、時系列上に並ぶのではなく、どちらのシーンもが同時にそこに存在しているように思わせるだけの強度と即物性を具えていた。
『顔よ』のラストもそうだ。ヒロインたる主婦を演じる女優が入れ替わるあの瞬間に二重性が結晶した形で現れていた。だからこそ、多くの観客はあのラストをたんなる夢オチとして片づけることができなかったはずだ。

観客が舞台そのものを二重で見ているまなざしについても考えたい。
演劇では、映画やテレビに比べてフレームが厳密でないぶん、舞台を見る観客の目線は自由度が高い。だから演劇を見る者は暗闇で肩寄せ合ってじっとしている自分の鈍重な身体についてついつい忘れがちになる。自分たちが誰に見られることもなく、生身の人間を一方的にまなざす者であることがあまり意識されない。つまり、自らが窃視者であることの後ろめたさを感じないですんでいる。

しかし、ポツドールの場合、ときに窓枠(=フレーム)を意識させることで、観客とは、暗闇から一方的にただ見つめることしかできない窃視者であることを暴露する。それも華麗なる盗撮者ではなく、結局のところ誰かによって切り取られたあるフレームでしか窃視することしかできない鈍重な人間であることを。
ポツドールの舞台美術でいつも効果的に使われているテレビが象徴的だ。僕は日常で浴びるようにテレビの映像を見ているが、それはけっきょく誰か(具体的にはカメラマンだったり、ディレクターだったり、秋葉原で起きた無差別殺人の現場を携帯動画で撮影した通行人だったり)のまなざしを反復して見ることでしかない。

ただ、テレビと違うのは、観客はポツドールの舞台から簡単に目を反らすことができないということだ。ただ見ることしかできない観客の鈍重な身体は主体的なようでいて、じつはとても受け身的である。
そのことでポツドールと観客の間にはSM的な、そういって言葉が悪ければ共犯的な関係が成立する。

Kaoyoやはり窃視症と露出狂は同じ病理の裏表なのだろう。
「顔よ」の劇中で、ヒロインたる主婦は、顔の見えないまなざしに監視されている。一方的に見られる者である。
かつてエデンの園で蛇の目によってまなざれたイヴは羞恥を覚え、原罪を抱えこんだ。それ以来人間が様々な欲望の虜となって生きるしかなくなったように、主婦のなかに芽生えた羞恥もやがてマゾヒスティックな欲望を喚起するだろう。「もっと見られたい」。そして、できることなら自分をまなざす者の顔を「見たい」。
主婦の生活を覗き見ていた男もしかり。「見られることなく見ること」を欲望していた男が、主婦に「見られること」を望むのは時間の問題である。

ちょっと話が変わるが、今回の雨宮さんのテキストで一番よくわからないというか、これだけは本当にタチの悪いフレーミングだと思ったのが、「みんな過去のV&Rのことばかり語りたがる」とやたら激昂してるんだけど、雨宮さん言うところの「からかい半分のアオリ」に使われた僕の三浦大輔インタビューですら、面白いAVとして『マジックミラー号』をあげているにも関わらず、それをまったくないことにしている点だ。
雨宮さんに言わせれば『マジックミラー号』はいまのAVのトレンドではないし、ただたんに「面白くないAV」なのかもしれないが、それにしたって、自分の主張に沿わない部分をなかったことにしてしまうのはいくらなんでもあんまりだろう。

で、雨宮さんへの愚痴はおいておいて、ようするになにが言いたいかというと、インタビュー中のマジックミラー号についてのくだり(マジックミラー号への言及については七里くんとのおしゃべりから多大な示唆をもらったことを感謝します)で三浦さんが語っている、「かつて舞台と観客席の間にマジックミラーを設置しようと考えたことがある」という発言はじつはすごく重要なんじゃないかということだ。

暗い側からは窓として、明るい側からは鏡として機能するマジックミラー(マジックミラー号のは、明暗がなくても機能する特殊仕様だけど)。もしマジックミラーを明るい舞台と暗い客席の間に設置すれば、観客が「一方的に見る者」であることははっきり可視化されるにちがいないから。

「顔よ」が終幕すると、舞台は暗転し、客電が点く。
マジックミラーは反転し、さっきまで窓だったものは鏡となる。
もちろんそこに映るのは――僕たちの顔、だ。

ただ忘れてならないのは、結局のところ、僕たちは他人の顔を見るのと同じ地平で自分の顔を見ることはできないということ。他人をまなざすことと、自分の顔を鏡で見ることはまったく別の行為だからだ。本当の意味で自分の顔を見るためには他人のまなざしを通過するよりほかない。
「顔よ」を見終わったあとの気まずさや息苦しさの正体。あれは他人の顔を見てしまうことでも、その裏で稼働する自分の自意識に圧迫されることでもない。
つらいのは、他人のまなざしに映る自分の顔を、他人の顔を通して見てしまうことなのだ。

※いい機会なので「面白いAV」についてもちゃんと書いておきたいと思うのですが、長くなったのでまた後日。