2008/05/02

観客という名の鈍重な演劇的身体

吉祥寺シアターでガーディアン・ガーデン演劇フェスティバル参加作品のユニット美人「髪結いの女たち」を観る。

ユニット美人は京都の劇団衛星所属俳優の黒木陽子と紙本明子が中心のユニットで、仮結成当初は「クラブイベントなどでちょこっと『ブルマ人間ブル子』のコントをやっていた」(劇団HPより)らしい。どんだけゆるい「クラブイベント」だよ……。

劇団のテーマでもある「女性が考える女性の強さ・美しさ・笑い」を30分×3話で、努力・友情・勝利な子どもアニメ風に展開してみせた今回の「髪結いの女たち」。ズバリいって、同じテーマならはなとゆめのほうが好みだし、むっちりみえっぱりの角をクニッと丸っこくするような「演劇あたま」のほうを圧倒的に買う。ただ、それでもやはり、失うものがないゴーフォーブロックなブルマ姿のハイテンション演技は、イナタいローカル色とあいまって、ちょっとだけ心に響いてくるものがあった。

あと、1ステージのみの東京公演にしたために早々にチケットが完売してしまったらしく、予定していた観客席の後ろにちょっと間をあけて、追加でさらに一段高いひな壇を設けており、ぼくもその追加席で観劇したのだけど、これがまったくの偶然とはいえ、非常におもしろい体験だった。

もともとの席というのが舞台美術である赤い絨毯の花道をサンドイッチする形で設けられていて(先日のチェルフィッチュ「フリータイム」みたいな客席といったらわかる人にはわかるだろうか)、もう砂カブリみたいな状態なんですね。この席が手前・奥、合わせて80席ぐらいあっただろうか。
劇団側の謙虚さというか、自信のなさの表れというか、1ステージ公演にもかかわらずその席数なもんで、吉祥寺シアターのいつもなら舞台となるべきスペースに舞台美術と観客席すべてがコンパクトに収まってしまっているような感じだった。

一方、追加の席というのは吉祥寺シアター備え付け観客席の上方部分、言ってみればいつもどおりの観客席なのです。
そんなわけで、この追加席という名のいつもどおりの観客席から舞台を眺めると、自然と、「赤絨毯の花道で繰り広げられる、妙齢女子がブルマ姿で繰り広げるハイテンション芝居」だけでなく、「そのハイテンション芝居を砂カブリの位置で見せられて笑ったり当惑したりしている観客たち」をも観ることになってしまうのです。
ようするに、意図せずして(もし意図してたのだとしたら素晴らしすぎる)、舞台上に異化効果が働いちゃってるという。

そうなると、自分の身体も含めて、小澤英実いうところの「暗い客席のなかで窮屈に身を寄せ合って座っている、観客という名の鈍重な演劇的身体」がグーンとせり出してきてしまうわけで、これはかなりスリリングで貴重な観劇体験だったのでした。

Butaigeijutu13で、そんなことを考えたのも、送っていただいた『舞台芸術』に掲載された小澤さんの「生きてるものはいないのか」と「ゴーストユース」についての論考、その名も「めぐりあう身体たち」がかなり刺激的だったからで。

この論考、自分も末段で謝辞を記していただいているんですが、だからというわけじゃなく、ホント普段から自分が漠然と考えていたようなことがきちんと整理して書かれていて、びっくりした。
やっぱりちゃんと勉強しているひとはすごいなあ。

いちばんグッときたくだりを孫引きしておこう。
ブレヒトの演劇に深い影響を受けたトニー・クシュナーが、セントラルミシガン大学で行った講演の質疑応答のなかで、演劇と映画の違いを説明した発言――。
ブレヒトの理論の非凡なところは、すごくシンプルなことだと思う。舞台上の物体を見るとき、その物体はそれらしく見える。きみがそう信じているからね。でも同時にそれは、それが表す物なんかではまったくない。それは舞台上にあるニセモノだ。演劇は、きみにそのことをけっして忘れさせない。これが演劇だけがもつ価値なんだ。……きみは演劇を単一に見ることはできない。きみは演劇を二重に見なければならない。ある種のぼやけたヴィジョンで見なければいけないんだ。舞台の上できみが見る死体(もちろん、もっとも有名な例は『ハムレット』の終幕だ)、舞台上で見るあらゆる死体はみな息をしている。もしそれが本当に素晴らしい『ハムレット』なら、観客は涙を流すだろう。役者たちは当然死んでいないと理解しているのだからおかしなことだが、それでもひとは揺さぶられて涙を流させられる。観客は世界を批評的に見させられるんだ。……『エンジェルス・イン・アメリカ』の映画版で、製作者たちがワイヤーをデジタル処理で除去しようとしたとき、僕たちは大論争をした。なにしろワイヤーこそが重要なんだ。公演日程の終わりごろには、引き具に吊された不幸な女優の背中は壊れそうになっている。でも、もしそれがほんとうにすごい芝居であれば、見ている人はそれがリアルじゃないと知りつつ、超自然的で魔術的な何かを見ている感じをもつ。この二重性――それこそが、生を理解し、生に到達するための唯一の方法なんだ。
あー、もう、まさに自分が演劇に打ちのめされるときの核心がここにあると思う。
だからこそ、たとえば「マッスル」や「立川談志」について「自称・演劇好き」みたいなひとたちに話すとき、好き嫌いはべつとして、「それってプロレスでしょ」とか「落語でしょ」とか言ってスルーされたりすると、とてもさびしい気持ちになるんだよなあ。
演劇って、「ぴあ」のインデックスじゃないんだからさ。