2008/03/08

チェルフィッチュ「フリータイム」

チェルフィッチュ「フリータイム」@六本木Super Deluxeを観る。

なによりもまず、ファミレスのテーブルの高さで、社会とのバランスをとろうとする姿(文字通りその体勢)にぐっときた。
自然人は無際限の自由をもっている。自然人の対極は奴隷人である。しかし、奴隷人の奴隷人たるゆえんは、自分を縛るカセが自然のオキテに等しいとみなすことにあるから、その意味では奴隷人もまた無際限の自由をもつことになる。ガレー船に掲げられていたという自由である。
それにくらべると、社会人は大幅に自由を減じている。社会人は共同した生活を選んだヒトのあり様である。自由が減じた原因は共同にある。共同は規模が大きくなるにつれて、あるいは緊急事態の出現によって、協議・指導・指揮・支配が要請されるようになる。どのように理想的な共同でも、自由は目減りしているのである。
 (中略)
課題は古くて新しいというべきである。ヒトが共同へ向かったときの、その自発意志、すなわち自由をせばめながら責任観念を発生させた内発的義務とは、何なのであるか。
(最首悟『星子が居る』)
チェルフィッチュについては初めて見た「労苦の終わり」があまりにも衝撃で、あの終始夢見るような、酩酊するような、それでいて現実の重力に引きずられるようなマジカルな体験を追い続けて観てきたところがあったのだけど、今回、それをようやく更新することができた。

かつて「労苦の終わり」について映画の撮影現場のようだと書いたことがある。だが、「フリータイム」の、現前性とイリュージョニズムの隘路を抜けて、俳優のみならず観客までもの潜勢力を引き出そうとする繊細な手つきは、降霊術のような趣さえあった。
素晴らしい体験だった。

そういえば、先に引用した『星子が居る』は、杉田俊介に貸そうと思って引っ張りだしたもので、その杉田さんはかつてこんなことを書いていたのだった――。
ともかくアガンペンの言葉に耳を澄まそう――「バートルビーが新しいメシアだとしても、彼は、イエスのようにかつて存在したものを贖うためにではなく、かつて存在しなかったものを救済するために到来するのだ」。アガンペンは著書のあちこちで無為・非労働に転倒的価値を見るが、ここでの認識はそれとは違う。アガンペンはライプニッツの「偶然性」の定義=「偶然性とは存在(ないし真として存在)しないことができる何かである」を引用し、「バートルビーが冒す実験は次の『全的な回復』(アポカタスタシス)まで突き抜ける。
「むしろそれは一つの脱想像であり、そこでは、起こったことと起こらなかったことが、神の精神の内で、もともとの単一性へと回復され、また、存在しないこともできたが存在したものは、存在することもできたが存在しなかったものと見分けがつかなくなる」。
生者や死者ばかりではない。かつて存在しなかったものをも包摂するメシア主義なきメシア性。相変わらずアガンペンの拘りは奇妙で不可解で、この部分には安易な想像を許さない独特の凄みがあるが、それでも引用したパートの言葉は殆ど神秘思想へと沈潜している。しかし重要なのは、「全的な回復」=≪今の時≫に至る手前の、存在の停止の瞬間(の骨片化)、無限陥没の継続の方にあるはずだ。
(杉田俊介「ニート/バートルビー」)