2006/10/26

亡霊生産装置

『亡霊生産装置 ghost production device』
(2003年/51min)

YouTubeページ [Tags: ドキュメンタリー、フリーター、青森、弘前]

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2006/10/11

居残り談志

仕事を早めに切りあげ、立川談志「家元の独断場・特別編『一期一会』」へ。内容はよくわかってなかったのだが、行ってみれば独演会形式で二席。『やかん』と『居残り佐平次』。

ひとり会でいつも配られる家元からのメッセージが書かれたパンフが今回も配られたので、客席でさっと目を通す。

「我立川流は『伝統を現代に』語る弟子も居るし、『伝統芸』もキチンとしている。ナニ、別にどうということでもなくなってきた。/いい落語家が出りゃあいいのだ。/とりあえず家元も今年一杯か…。」

今年一杯か、みたいな自虐ネタはいつものことではあるけれど、お弟子さんのくだりがちょっと気になった。最近出た談笑師匠の『超落語!』に寄せた前書きでも、俺にはよくわからんが、こういう落語へのアプローチもありなんじゃないか、みたいなことを書いていたから。

腹のうちはどうあれ、基本的に、「弟子もよくなってきたが、まだまだ俺のほうが上」とか、「あいつらとは見えてるものが違う」というスタンスの人だった。
それがここにきて(志の輔・志らく・談春の三人会や志の輔との二人会あたりから?)、弟子を認めるというか、立川流に関してはとりあえず、それぞれの料簡で立つ落語家が揃ったと。それに関しては自分にはもういいも悪いもない。あとはお客なり時代なりが判断すればよい。みたいな発言が目立つようになってきた。

一席目の「やかん」をサゲたあと、高座に残ったまま、次は「『へっつい』演ろうと思ってたンだけど、『居残り』演ろうか。いいかな?」と客席に尋ねる談志師匠。おそらく完全にその場の思いつき。
でも思うところがあったのかもしれない。

「はじめて聴く方は、どうぞ昔の談志はもっと上手かったんだろうなと思いながら聴いてください――」
まくらも短く、チェルフィッチュ化もなしの『居残り佐平次』。
本人も納得の内容だった3年前の平塚での『居残り』をなんとか再現するべく、
丁寧に丁寧に演じられる『居残り佐平次』。

そして再現とはいかなかったが、終わってみれば「なんとか身体が30分もった。まあそこそこのものにはなったんじゃないでしょうか」との弁。
いつもほど愚痴もなく、その顔も心なしか清々しい。

そのまま高座に「居残り」続けたところでサプライズが!
なんと舞台上に立川流の真打ちが勢揃い。
しかも談志師匠に花束贈呈ときた。
立川談志、70歳、古希のお祝いとのこと。
最後は立川流の今後の発展を願い、里う馬師匠の音頭による三本締めでお開き。

なんというか談志師匠、ようやくケリがついたのかな。

これからの立川談志はどこへ向かうのか、それも楽しみだけど、
とにかくこの一年、すごいものを見せてもらって、本当に、ありがとうございました。

2006/10/10

愛染恭子ショー作家

最近はあまり出歩かず、読書。

三連休は中村文則『遮光』、本谷有希子『生きてるだけで、愛』、森見登美彦『太陽の塔』、田中和生『あの戦場を越えて』など。

デビュー作『銃』のモチーフをさらに深化させた『遮光』。やっぱりこの人すごく好き。茫洋とした無意識力。
逆に『生きてるだけで、愛』は自意識過剰小説なんだけど、これはこれでおもしろく、一気読み。すごいキレ。
太陽の塔』は本谷有希子的物語を男の側から。うう、切ない。
あの戦場を越えて』は中原昌也と松尾スズキの作品分析から始まる現代文学論。固有名詞の扱いや文章意識(「私」の濃度みたいなもの?)について。
以下の箇所はまんまここで書いたような「静かな演劇リアリズム」の可能性と限界としても読める。
たとえば村上龍、村上春樹、高橋源一郎といった1980年代以降の日本文学を牽引していく作家たちは、いずれも1980年前後に「風景」や「内面」を描く「近代文学」に対する切断の身振りを見せることで登場してきた。そしてそのような書き方が一般化すれば、それ自体が「近代文学」的なものになっていくのは当然である。そうした意味で、おそらく「私」の範型をかたちづくるという点で影響が大きかったのは村上春樹であるが、文体としてもっとも影響力があったのは村上龍である。なぜなら村上龍は、その文体を個人の体臭を感じさせない映像的リアリズムとして、一つの文章意識を生み出すほどにまで鍛え上げていったからである。
(中略)
そこに投影される「内面」というある種の自意識を内包する「風景」描写的なリアリズムでは、「俺達はコインロッカーズだ」というせりふは滑稽に響かざるをえないだろうが、それを切り落とした映像的リアリズムでは映画の決めぜりふのように聞こえてくる。ここで達成されているのは「風景」の代わりに「見られる世界」を描く言葉であり、映像でそうするように現実を記録する言葉である。そのような言葉で書かなければならなかったのは、おそらく作者が映画のような映像表現を近代文学的なものとして受け取っているせいであるが、以後村上龍の文体は映像を記録するカメラの位置や場面の切り取り方が変わっても変わらずに緊張度の高い物語を可能にする強力な文章意識として存在しはじめる。
(田中和夫 『あの戦場を越えて』)

雑誌もいろいろ。『エンタクシー』、『新潮45』、『小説トリッパー』、『kamipro』、あとバサラブックスでゲットした初期『カジノ・フォーリー』(すけべえ特集!とか)などなど。

『エンタクシー』があいかわらず最高。表紙に前田司郎、立川談春、TAJIRIって並ぶ雑誌なんてほかにないよ!
『新潮45』は板東眞砂子「『子猫殺しバッシング』の渦中で考えたこと」を。
森達也『いのちの食べかた』や鳥山敏子なんかに通ずる内容。やはり日経の連載は通しで読むないとだめらしい。
最近、私は、自分の手で殺せる範囲の獣の肉を食べる、という食事の指針を作った。そう決めないと、生きていくために他の生き物を殺して食べるという行為に対して、自分で納得できないからだ。
他の獣を殺して喰らうこと。これが、人が生き物として生きるということの実態だ。必然性からくる「殺し」は、生の中に含まれている。
(板東眞砂子 「『子猫殺しバッシング』の渦中で考えたこと」)

『kamipro』は谷川さんとバカ社長のインタビューを興味深く。
サダハルンバ谷川said,
「亀田論はねえ……あんまり儲かってないだろうなって」

2006/10/09

この夏イチのビッグウェイブ

この一ヶ月でとくに心を震わされたもの
マッスル「マッスル11」追加公演
むっちりみえっぱり「表へどうぞ」