2006/07/27

最近のニキータ②

野外だけでなく、劇場でみる演劇も見ました。

五反田団 『びんぼう君2006@桜美林大学PRUNUS HALL 06/25
桜美林大学の学生が企画した芸術祭GALA Obirinの招待公演。上演されたのは、五反田団にはめずらしく、何度も再演を重ねているびんぼう君の06年バージョン。
今回は父親役が黒田さん、息子役が中川さん、川森さん役が端田さんという鉄壁の布陣。親子にプラス1人の川森さんが担う社会性といい、ラストの父親のセリフといい、戯曲の巧みさはあいかわらず。畳と梯子だけの簡素な舞台装置も、惚れ惚れするほどに美しい。もはやスタンダードの風格。それこそ「ニセS」のようにいろんな「びんぼう君」を見てみたいとすら思った。

Onna_no_michiポツドール特別企画 女シリーズvol.1 『女のみち@新宿THETER/TOPS 07/06
男性誌のグラビア担当者が最初にやる仕事に写真のレスポンス(写真を修正する機械)指示っていうのがあって、事務所の言う通りにアイドルのシワやシミを消したりするんだけど、AV女優の場合、よくあるのがリストカットの跡とか根性焼きの跡を消してくれっていうせつないレスポンス。
以前、カンパニー松尾のAV作品にこんなシーンがあった。フツーの主婦がAV出て、自宅でセックスして、お金ももらえて、あー楽しいと。でも撮影が終わってカンパニーを駅まで自家用車で送っていくとき、この主婦、ハンドル握ったまま突然ゲロを吐く。バレリーナの足の裏は血マメだらけっていう西洋近代芸術の光と影を持ち出すまでもなく、人間そんなに軽やかになれるものじゃない。カラダは正直だ。
「女のみち」にはそこまで臭くて酷薄な現実は描かれていない。かといって安藤玉恵演じるAV女優がその名を模した立花里子のような痴女神が跋扈するどエロな世界が描かれるわけでもない。
それでも、物珍しいAVの撮影現場を舞台に、「リストカットの跡」や「根性焼きの跡」を適度に散りばめた、たくましい女たちのドタバタ劇として楽しい作品だった。あと、トークショーの準備のためAD役を演じた人が舞台上のゴミを片づけてたんだけど、その様子が、まだ芝居が続いているみたいで面白かった。

シベリア少女鉄道 『残酷な神が支配する』@吉祥寺シアター 07/08
痛快!天才!バカ!!
いやーしかし、あのひとが神だったとは……(たしかにそう呼ばれてはいるけど)。

Sousouliter六本木のam/pmでゲットした、横山三国志ライター。
カード型でかっこいい。
曹操、ちゃんと赤い。
そういやシャアのイメージあるよね。

2006/07/24

最近のニキータ①

で、なんて言ったのマテラッツィ?

世の中の流れからどんどん取り残されていく。
どうにも仕事に乗れない気分なので、ここ一二ヶ月のことなど書いていきます。

まず、野外劇をいくつか見た。

KAKUTA 『ムーンライトコースター@浅草花やしき 06/01
3月のにかさやライブの不満を晴らすべく参戦。さすが演劇あたまの人たち、花やしきという舞台装置を存分に活かしきってた。
予想してたこととはいえ、カタカナで「ハートウォーミング」、みたいなテイストにややとまどう。友人Tさん(コメントにレスしてください!)を誘って正解。ひとりだったらいたたまれなくて帰るとこだったよ。
しっかし、巧い。「不在」や「喪失」を隠しテーマにしながら、最後、誰も乗っていないジェットコースターを走らせるところなどニクいよ。にかさやもぜひ次は桑原さんと、……は余計なお世話か。

POTALIVE 吉祥寺編『斜』 06/16
「散策しながら楽しむライブ」ポタライブ。この日は西荻駅に集合し、吉祥寺方面へしばし散策。
文字どおり杓子定規な都市計画。中央線もナナメにまっすぐに。つうかなんでこんなにナナメってんだ、とか。思惑のズレが生み出しちゃった吹きだまり(三角形)に遊ぶ。
歩きながら、普通に喋ってるつもりが、ふっと虚構に入ったりするダラダラ感がすごい。いやあのダラダラ感はホントすごいと思う。2回言った。

Soyokazeゴキブリコンビナート 『そよ風のささやき』@旧淀橋第3小学校跡地 07/15
ゴキコンの野外劇て! しかも小学校跡地で。開演前、やたら「劇団竹田企画へようこそ」ってアピールしてたけど、なにか大人の事情かしらん。
すり鉢状につくられた装置の底にギュウ詰めの観客。そこに降ってくる役者やら、うどんやら、ヒロインの元恋人(人形)やら。
客を押し分け突っ込んでくる移動式ステージにはねられそうになること多数。泥だらけの役者に衝突し、すっころんだ女子号泣。最高でございました。
エクストリーム「聖者の行進」なストーリーも味わい深かった。観客の疲労のピークを見計らったようにリピートされる輪廻転生芝居(衣装を替えただけの同じ芝居が何度も)も絶妙。くだらなさを突き抜けキャッチーにすら聞こえてくる楽曲群、ケン※ショクヨー、オマンキー・ジェット・シティーをはじめとする役者の本気っぷり、すべてが愛おしかった。

野外劇といえば今週末の超歌劇団@木場公園も楽しみ(ゴキコンのDr.エクアドル&オマンキーも客演!)。まねきねこさん(真の偉人)のレポートを読むだに、期待は高まります。

2006/07/16

磯部涼インタビュー

想像力はベッドルームと路上から」というサイトの方が前回の日記に言及してくれて(引用部がやや恣意的な気はするが)、それを読んだら、以前、磯部涼氏にインタビューしたときもそんな話したなーというのを思い出しました。けっこう関連ある記事だったので再録してみます。
(※というかオレの原稿仕事なんてこうやって自分でサルベージしてかないと歴史から抹消されてしまうのよ!)

『ヒーローはいつだって君をがっかりさせる』
磯部涼インタビュー


Herohai

歴史的水脈や自意識は完全スルー

ヒーローはいつだって君をがっかりさせる』(太田出版)は、ライター・磯部涼が日本のアンダーグラウンドなヒップ・ホップ/ハードコアシーンの現場に飛び込み、8年に渡って様々な雑誌に書き散らかしてきたテキストを編み直したブ厚い本である。磯部にとってキャリアの一里塚となる初の単行本なわけだが、ただひとつ危惧があるという。

「この本はたまたま編集側の要請で日本のアンダーグラウンドについて書いた原稿をまとめたんですけど、じつはわりとメジャーなものも好きなんですよ。実際そういう原稿もたくさん書いてるし。だから、アンダーグラウンド専門とか、身近なことばっか書いてるライターってイメージがついてしまうのはちょっと困る……」

たしかに筆者も磯部に対し、そんなイメージを持ってなかったといったらウソになる。だからといって、面と向かって「がっかりしました?」なんて言われても困惑してしまうわけだが。
とはいえ、あれだけの量のテキストを「アンダーグラウンド」に捧げるには、やっぱりそれなりに思い入れってのもあるんじゃないだろうか。

「自分の思ってるアンダーグラウンド観に的を絞ったというのはありましたね。日本ではアンダーグラウンドっていうとどうしても過去のモノを神格化する傾向があって、(裸の)ラリーズだったら永遠にラリーズのことを書いてる人とかいる。べつにそれがキライってわけじゃないけど、自分はそういうものを切り捨ててしまおうと。かわりに『いま/ここ』にいる人たちを持ち上げてやろうと思ったんです」

そうなのだ。『ヒーローはいつだって君をがっかりさせる』を読んでまず驚くのは、そこに一部のマニア以外は聞いたことのないような固有名詞が遠慮なくバンバン登場することだ。磯部に言わせると、それは「ポップ」だという。フィクションのように読ませることができる、と。

「だいたい『アンダーグラウンド』なんて、最初はギャグのつもりでしたから。たとえばハードコアは昔からシーンが根づいてたけど、ヒップホップに関しては、そんなものはなかった。売れてるもの以外はただマイナーだっただけで、それを無理矢理「アンダーグラウンドだ!」って騒いでた(笑)。でも、そのうちみんな、だんだん成長して……っていうか、じつはみんなけっこうホンモノだったんですね」

ギャグといえばそうかもしれない。磯部のテキストに登場するミュージシャンたち、彼らはミュータントのように、突如、姿をあらわす。ともかく、いきなり、「いま/ここ」にいる。彼らがいったいどんな歴史的水脈をたどって漂着したのか、そのいっさいを磯部は切り捨てる。だから「いま/ここ」にいる彼らは、だれもなんにも「しょってない」。そのかわり、速度と熱量だけはたっぷりとある。
そこではだれもがガシガシ行動している。生活のしんどさはあっても、内省的な苦悩はない。鬱陶しい自意識も完全スルーである。

「だって自分のことなんて書くの恥ずかしいですよ。それに文章で自分を見つめようとするものって多いじゃないですか。だからそうじゃない、もっと表面的なことを書きたいなと思って。政治的っていうか、具体的な『政治』じゃなくて、個人が行動してく上で起きる軋轢っていうか」

サウンド・デモは新しい形のパーティ

そんな磯部たちのガシガシした行動が極点に達したのが「サウンド・デモ」だった。03年、アメリカのイラク派兵に対し巻き起こった反対運動は、ここ日本でも、政治に無関心な層までがデモに駆り立てられてしまうほど大きな社会運動となった。そのうねりの中で、磯部たちは路上にサウンド・システムを持ち込み、街をパーティ空間に変えてしまうという画期的なデモンストレーションを行ったのだ。
機動隊に囲まれながら踊るのは、どんな気分だったのだろう。

「いや、フツーに興奮しますよ。レイヴとかパーティってもともと人目のつかない山奥とか廃屋みたいな面倒なところでやるんだけど、だったら一番メンドくさいところでやってやろうって。それって道路じゃないですか。始めたころなんて機動隊と揉みくちゃになったりしてすごかったですから。もう笑いましたね」

路上パーティのノリで始まったサウンド・デモは規模を拡大しながら、03年10月をピークに、翌04年2月、とりあえずのピリオドを打つ。もともと「そんなにマジメにやってたわけじゃない」磯部にとって、サウンド・デモは「新しい形のパーティ」だったという。

「でもね、最後はけっきょく飽きちゃったんですよ(笑)」

この身もフタもなさ!
しかし、これこそがライター・磯部涼の魅力にほかならない。

「なんにも足をとられたくない。とくに身近なことを書いてるので、同じところにいるとどんどんメンドくさいことになってくんですよね。なんでアイツのことは書くのにオレのことは書かないんだ、みたいな。べつに書かないことに意味なんかなくて、たんにボクの琴線に触れなかっただけで。こないだ渡したアレ、聴いてくれました? とか言われちゃうとたとえ本人はそんなつもりじゃなくても、メンドくさくなっちゃう」

磯部は、だれかになにかを「しょわせない」ように、自分自身もなにも背負おうとしない。若い子に言っておきたいのもただ一つ、「自分の身の周りで遊んでればいいんじゃない」ってこと。
なるほど、がっかりするのはもうたくさんだもんな。
(初出:『ウラBUBKA』05年6月号)

2006/07/15

ミッキーマウスのプロレタリア宣言

◆6月4日(日)「ミッキーマウスのプロレタリア宣言」

大友良英が吉祥寺に立ち上げたスペース、GRID605のオープニング・イベント。
平井玄『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』をめぐる、平井玄+北里義之+大友良英の鼎談。

平井玄の言う「デジタル・フリーター」っていうのはなにもPC画面に向かうような仕事を指すだけじゃなく、たとえば宅急便の人が伝票入力機を携帯したり、キオスクにもPOSが導入されたりていう、すべてのフリーターがデジタルの端末化していくような事態をも言い表している。

もはや我々のカラダと時間は機械よりもフレキシブルに。
そこはJ-WAVEの流れる明るい職場。15分おきにプログラムが替わる。

『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』を一種の音楽批評として受けとめたという北里義之の読み、それから大友良英のミュージシャンとしての直感が鋭かった。
北里さんは『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』に「音響派批判」「声の集団的再編成」の問題を読み込む。
大友さんはサウンド・デモへの違和感を率直に語り、90年代以降急速に発達したPAシステムの問題を指摘する。

テクノ、ハウス、テクノイズ、音響派、どんな呼び方をしてもいいが、認知科学的な大脳聴覚野の変成を語る前に、これらの音響は「街路工場」の環境音楽なのである。デジタル・フリーターたちが労働し、休息し、遊び、食べて酒を飲み、そしてセックスし眠るための音楽。サウンド・デモのブースでプレイする音楽家たちは思いきり乱暴に言ってしまえばそうしたジャンルに属している。ふだんは円山町あたりのクラブの内密な空間や濃厚なフォロワーたちに囲まれて内閉していた彼らの音楽の潜勢力が、街路の空間で全面的に開放されたと言っていいだろう。
つまり、商品の単位としての三分間の曲構成や音楽のリニアーなストーリー性を否定するテクノ・ハウスの系の音響は、IT生産の労働規律と戯れながら、それを促進し、癒し、あるいは逸脱するという揺れるライン上を動いている。それが「IT工場」の生産ラインをコントロールする街頭秩序の限界で、音量規制の見えない有刺鉄線に触れ、公共暴力(機動隊)の檻を揺さぶるデモのウェイヴに煽られて、いつのまにかある種のカウンター労働の環境音楽へと向かうのである。
(平井玄 『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』)

平井玄はサウンドデモを「神的な力」(ベンヤミン)、集団身体といった概念と結びつけることで、街路工場のノルム(行動規範)をかき乱す、もう一つの「踊り狂う工場」=オルタナティヴな生産のあり方を夢想する。
しかしそこには決定的に声や言葉が欠けている、と北里義之は指摘する(ミクシィ日記)。むしろ欠いているからこそ成立する集団性とも。たしかにサウンドデモにおいてその政治的旗幟はある程度あいまいにされる。あいまいにすることで多声的な交響空間が実現されているというわけでもない。
大友良英の実感では90年代以降、あまねくライブハウスやクラブにPAシステムが浸透し、その性能も進化したことで、音楽の現場においてすさまじい重低音(否応なくカラダがふわっと浮いてしまうような)ととてつもない高音域の再生環境が「普通」のことになったという。そのような環境に置かれれば、誰しもカラダが自然と踊りだしてしまう。

奇しくも「CIRCUS」という雑誌の創刊号インタビューでモノホンの賢者・真木蔵人がこんな発言をしている。

真木 だから俺、トランスとかのイベント行かないんだよ。あいつらは、ただオールフリーダムになりたいだけなんだよ。俺はそっちはダメだね。コール・アンド・レスポンスがないと。意外と人間はその2種類に分かれてて、トランスとかやってる人間の方が主流になって日本は動いてるよ。

北里さんは声を欠いたカラダだと、大友さんは声とカラダの間にラウドスピーカーのようなPAが挟まっていると指摘する。二人とも声とカラダを結びつけるものについて繊細に思考する。思考するだけでなく、活動として実践にも移している。

しかしそれでもなお、犬でも社畜でもなくネズミだと。サウンドデモに、集団身体に、狂ったミッキーマウスらのイマジネーションやスピードや行動力に、潜在性の開放を見る平井玄の論は魅力的である。
そこではカラダそのものが声を構成する。

スキル評価の下に誰もが一人一人バラバラにされて飼いならされていた身体が、ダンスという秘匿空間に誘い込まれていく。路上で踊ること、音を出すことは、いつもは抑えつけていた体の局部、その欲望に語りかけることだ。そこをねじり、大きく開き、身をよじらせながら回転させる。この時活性化された神経回路にテクノの粒子化した微細振動が直接作用していく。
(中略)
つまり極端にいえば揺れる音のビートが、人を別のミュータントに進化させていく可能性さえうかがえる。久しぶりにぎこちなく踊りながら、「飼いならされた『自然』を破壊し新しい自然を発明する」ベンヤミンのミッキーマウス論が何度も頭をかすめていた。
(平井玄 『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』)

平井玄の「集団身体」や北里さんの指摘する「声の集団的再編成」の問題は、たとえば生田武志が言う“別の”共同性のあり方とも関わってくる。やはり最首悟が書くように、課題は古くて新しい。声を聴くこと、そして響き合わせること。

自分自身をひっくり返し、低い低い声を絞り出してほしい。そして遠くから響き合う声を探し求めてほしい。おためごかしの歌など聴きたくはない。
自分の声を代理店に売り渡すな、何よりもまず言いたいことはこのことである。そして耳を鍛えよう。この本はラウド・スピーカーというより、小さな聴音装置である。声をストックし、シャッフルして加工し、自分の声を縒り合わせる。この本はそのための装置である。
(平井玄 『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』)

なお、この日初めて聴いた大友良英と宇波拓のライブ・パフォーマンス、どちらもとてもよかった。本当に素晴らしい演奏だった。

2006/07/13

Juana Molina@Morning Becomes Eclectic

Sonjuana

仕事が一段落して、いいかげん日記更新するかーと思ったら、ココログ48時間メンテナンスて……。でもそのおかげか、管理画面のレスポンスはいくらか改善されたような(気がする)。

リハビリ代わりにアルゼンチンの魔法使いJuana Molinaのスタジオライブ動画を紹介させてください。
Juana Molina@Morning Becomes Eclectic
(「Click HERE to Watch Video!」をクリック)

ニューアルバム『Son』もかなりよいです。マジカルです。
来週、来日ライブあります。(エンケン@弁天湯があるので行けず……。)

にしてもMorning Becomes Eclectic、YouTube登場でありがたみが減ったとはいえ、40分のライブ動画(225Kbps)をノンストレスで見せてくれるんだから、やっぱり素晴らしい。