2006/06/29

べつの「ふれる」が生まれる

ここ最近、会うひとごとにその素晴らしさを伝えていた宮沢章夫proposed「何周も自己紹介する」が、やっぱり素晴らしい。
いつかここにも書こうと思ってたのだけど、そうこうしてるうちに宮沢さんの日記(Jun.23)に「『何周も自己紹介をする』を実践し、盛り上がったということをブログに書いている方たちが何人かいるという話」を見つけてしまい、しまった、出遅れた、と。
とはいえ、よいものはよいので、後出しジャンケンのそしりを受けようとも書いておこうと思う次第。

Engekihad「何周も自己紹介する」というのは宮沢さんの『演劇は道具だ』という本に書かれている自己紹介のやり方で、ふつうは1回ですませちゃう自己紹介を、何周もくり返しながら行うというもの。
自己紹介って、だいたい1周目は名前とか職業とか役職とか、ようするに肩書き的な話に終始する(むろん、そのひとの「からだ」から分かることもいろいろある、と宮沢さんは書く)だろうけど、それが2週目になると、趣味とか家族構成とか、もう少し踏み込んで自分のことを話さないと間がもたなくなる。さらに周回を重ね、4周目くらいまでは「言葉として語るにあたいするその人の情報」が語られるけど、「いよいよ5週目になると、どうでもいい話までしなくてはならなくなる」。
周回を重ねれば重ねるほど、話から、具体的なことが消えてゆきます。 (中略) 少しむつかしい言い方をすれば、抽象化するということですが、「抽象化」とはここでは、「なにがなんだか、よくわからなくなってゆく」ということにほかなりません。しかし、言葉でしかコミュニケーションがとれない、現在の人間にとって、たしかに言葉を使っているのですから、わからないはずがない。だけど、わからなくなっている。とするなら、これは先に書いた、「大むかしにあったはずの、人とふれあうこと」にきわめて似てゆくことになります。
(宮沢章夫 『演劇は道具だ』)
すごい。ふだんから「対話よりもおしゃべりを(それもできるだけだらだらしたやつを)」を旨とするオシャベリストの自分としては、もううなずきすぎてヘッドバンギング状態なのです。
ちょっと違うかもしんないけど、テレビ見ながらのどーでもいい話だとか、ドライブしながらのだらだらトークなんかもかなり好き。テレビのせいで親子のふれあいが減った、なんてぜったいウソ!って思うもんね。まあ、たしかに「対話」(1周目の自己紹介)は減ったかもしれんが、そこにはまたべつの「ふれる」があるんじゃねーのって。
なにを話せばいいか、もう、みんなわからなくなってゆく。どうでもいいことを話しだす。そのどうでもよさと、わからなさこそが、またべつの「ふれる」を生みだします。これはぜひ試してください。
(『同上』)

2006/06/27

生田武志さんからのメール

先日アップした日記「野宿者/ネオリベ/フリーター」について、生田武志さんから丁寧なメールを頂きました。
じつは日記をアップしたすぐあとに頂いたのですが、返信をさせていただくのに1週間。さらに許可を頂いておきながら、こうしてアップするまでさらに1週間かかってしまいました。
とはいえ情報戦の様相すら呈してきたブログ時代、こんな風にレスポンスの遅い(それも微妙に)ブログもまた乙ではないかとも思うわけです。
言い訳ですが。

以下、生田さんからのメールです。

◆九龍さんへ
ブログを読みました。
トークセッションで野宿者問題の概況について多くの時間を取ったのはその通りで、あの場で「〈野宿者襲撃〉論」を読んだ人や野宿者問題に詳しい人が大多数だとは思えず、状況説明から始める必要がありました。
これは他の場(教師対象の話とか)でも同様で、「どのように考えるか」「どのように行動するか・教えるか」を語る前に、ほとんど知られていない以上「現状はどうか」を説明するところから始めなければなりません。(詳細なレポートを出したkawakitaさんも「知らないことだらけ」と書いてましたし)。
けれども、ブログを見て、九龍さんの関心のあるところにちゃんと答えられてなかったんだなあと思って、その点を書いてみたいと思いました。

ブログの中で引用された「〈野宿者襲撃〉論」の箇所は、ぼく自身が最も関心を持っていた問題に関わるところです。野宿者を襲撃する若者たち、というより多くの「若者たちが自分の中に大きなイライラをかかえていること、その出し方がわからずイライラしていること、それじたいが社会的な問題である」こと、それが何なのかということをずっと考えてきました。
その「イライラ」は、時として野宿者襲撃として現われてしまいます。しかし、(トークセッションでも言いましたが)それはある時には「志願兵」として戦争につながるかもしれないし、90年のように暴動へと参加するかもしれない。また、95年のように震災へのボランティアへとつながるかもしれない。現実にどこへ向かうかは紙一重だと思います。
ぼく自身は90年暴動を体験しましたが、「あれは何だったのか」ということはずっと気になっていました。ちょうど襲撃についてそうだったように。それを1968年革命以来の二つのホームレスの出会いの「ネガとポジ」として理解することで「〈野宿者襲撃〉論」(の特に後篇)を作り出しました。
「〈野宿者襲撃〉論」ではこの「イライラ」を資本・国家・家族の変容による「ホーム」レスとして理解しようとしています。しかし、実際には1968年以来の「資本・国家・家族の変容」は、社会で生活する全ての人に影響を及ぼしているはずです。それでは、なぜ特に若者たちが襲撃や暴動という形でその問題を集約的に体現してしまうのだろうか。

そこであらためて自分の中で焦点となってきたのは、特に思春期(というより5才と14才の時期)に現われる「瞬間と隣接」という問題でした。生と死のねじれの時間、そして他者との関係。
特に「死」の問題は、ぼくがずっと考えてきたものです。それはパスカルやハイデガーやキルケゴール以上に、岡真史の「ぼくは12歳」、特にその文庫版に収録された高校1年の読者の(岡真史の両親への)手紙を通じてでした。その読者は、12歳の自殺を「生の永遠」として理解しますが、両親はそれを理解できず、「生は確かに汚辱に満ちているが、それを含めて生はなお尊い」という理論で回収しようとします。それに対してその読者はなお強く反論をしますが、それはぼくが知る限り、「生と死」について最も深い洞察に満ちたものでした。「〈野宿者襲撃〉論」での生と死について触れた章(酒鬼薔薇少年やメビウスの環のたとえ)はその延長にあります。
それはぼく自身の14歳ごろからの問題です。5才のエディプス期、そして14才の時期には、人間の条件ともいうべき構造が一時的に破壊され再構成されるように見えます。(フロイトがどこかで思春期にはエディプス期の問題が逆向きに再現される、といったことを書いていますが)。それは人生の中では一瞬ですが、その時期にやってくるものは、通常の社会を構成する枠組みを揺さぶり、組み替える衝撃を持つものでもあると思います。

この隣人愛や「時が満ちる」ものとしての瞬間といったキリスト教の概念については、柄谷行人が言う「世界宗教」に示唆を受けました(本に引用しておくべきでしたが)。つまり、「資本・国家・共同体」を揺さぶるものは過去においては「世界宗教」、特にキリスト教だったという指摘です。世界宗教の核としての「瞬間と隣接」が露わになるとき、「資本・国家・家族」の相互関係が揺さぶられるだろうということです。
「資本・国家・家族の変容」は、社会で生活する全ての人に影響を及ぼしますが、多くの大人にとっては、自分自身が「会社・国家・家族」という旧来の共同体に安住してしまうため、その変容を察知することやその危機を体現することができません。主に思春期の若者の「イライラ」は、この「資本・国家・家族の変容」と「瞬間と隣接」の衝突から生じているのではないかと思いましたこの二つの視点を組み合わせることによって、1968年から1990年、そして現在に至る「二つのホームレス」の幾つかの出会いを描くことができるのではないかと思ったわけです。
それは、日本においては1990年暴動で爆発的な形をとって現われました。しかし、二つのホームレスの出会いを、こうした「暴動」に期待し続けるだけであれば、ただの「一揆主義」になってしまいます。この「瞬間と隣接」の破壊力を消し去らないまま、社会の中に建設的な形でどのように定着させることができるかということが課題だと思っています。

「どのようにしたら若者と野宿者の出会いをもたらす「穴」=「通路」を作り出せるのか」。
ぼく自身にとって「野宿者問題の授業」は、90年暴動の自分なりの継続、つまり歴史の引き受け方の一つです。
授業、そして本としての「〈野宿者襲撃〉論」という形で「瞬間と隣接」の破壊力を社会の中に継続させていくことが、ぼくなりの一つの「解」になっています。
「〈野宿者襲撃〉論」は、ある意味では少年犯罪論ですが、それは凶悪な少年犯罪そのものである「暴動」を経由することによって、「社会変革論」であろうとしました。「襲撃論」は、国家・資本・家族とは別の社会を求める「革命論」(1968年「革命」の意味での)でなければなりません。
その意味で、「〈野宿者襲撃〉論」は、「二つのホームレス」という「資本・国家・家族の変容」の極限形から考えられた社会変革論だったと思います。したがって、それは「極限形」であるために、わかりやすい「特殊解」でしかありません。特殊な例ではなく、「一般解」としての変革論が必要であるはずです。
ぼくは、「〈野宿者襲撃〉論」を書いた後すぐに、次の課題は「二つのホームレス」の間で成り立つ特殊な変革論ではなく、一般的な形での社会革命論だと思いました。しかし、当然「特殊解」よりも「一般解」がはるかに導出困難です。

「〈野宿者襲撃〉論」以降、いろいろと考えていますが、これというプランは出てきません。「〈野宿者襲撃〉論」の中で、「瞬間と隣接」はたぶん最も抽象度が高く(ぼくにとっては最も現実的ですが)、そのため最も普遍性を持ちうる概念なのでしょう。したがって、ここから一般的な変革論を考え出すべきだろうと思うんですが、それをどうやればいいのか、途方にくれています。

一つのアイデアは、生の限界としての「瞬間」と他者との関係としての「隣接」は、「偶然」という概念によって捉えることができるのではないかということです。中島一夫は、「媒介と責任――石原吉郎のコミュニズム」(「新潮」2000年11月号)の中で「加害と被害の流動のなかで」現われる「平等=偶然が支配する『賭け』の世界」について触れ、「加害と被害にたいする根源的な問い」を通して、その「境界が、全く偶然かつ相対的なものにすぎなかった」こと、「いつでも彼らは入れ替わっていたかもしれない」ということ、そこから「負い目」と倫理的な「責任」を導き出されるとしてします(いす取りゲームと同じ原理)。これは、中島一夫によれば「コミュニズムの核心」です。こうした偶然性としてのコミュニズムについて、社会変革の一つのあり方として考えています。
この点については「口実としての「自己責任」論」という文章でかなり考えましたが、この延長で何か出てこないか、今も考えているところです。

また、「瞬間と隣接」は平たく言うと「死と愛」ですが、ワーグナー的な「愛と死」はすでにわれわれには無効だと思います。(でも、「ノルウェイの森」も、読んでないけど「セカ中」もそのノリだったのだろうか)。「〈野宿者襲撃〉論」がある意味で最大の目標としていたのは「ホットロード」でした。あの作品は、「瞬間と隣接」をそれ以上を考えることができないほどに鮮烈かつ豊かに描き出しましたが、その結末は従来の少女マンガのロマンティックラブ・イデオロギー(性と愛と結婚の三位一体)を完成させるものでした。ぼくがその後に夢中になったのは90年代の「ハッピーマニア」でしたが、その主人公(というか安野モヨコ)は「ホットロード」の主人公と実は「タメ」です。しかし、「ハッピーマニア」は「ホットロード」が着地した性と愛と結婚の三位一体の無効を完全に実証してしまっています。では、80年代の「ホットロード」、90年代の「ハッピーマニア」の後に来るべき現在の作品は何なのだろうか。ということもよく考えています。

九龍さんが触れている前田司郎さんの作品も、読んでみようと思います。

★★
蛇足ながら、ぼくが生田さんにお送りした返信も付記しておきます。
挨拶的な文は省いてあります。文法的におかしな言い回し(メールでよくやりがち。恥ずかしい)もちょこっと直させていただきました。

◆生田さま
丁寧なメールありがとうございます。
返事がたいへん遅くなり申し訳ありません。

ブログへのアップもそうなのですが、考えが自分のなかにいったん沈殿したあと、発酵するまで異常に時間がかかるというか、いつもなにか遅れ遅れになってしまいます。
ここ数日、生田さんから頂いたメールの内容はずっと頭の片隅にありました。

頂いたメール、「資本・国家・家族の変容」と「瞬間と隣接」が衝突していること、
まさにそのことについて詳しくお話を伺いたいと思っていましたので(トークセッションに勝手に過剰な期待をしてしまってすみませんでした…)、ありがたかったです。
なかでも「偶然」という概念にハッとしました。
生田さんの言う「偶然」とはまた異なる意味合いかもしれませんが。

ぼくはかつて「青い芝の会」という障害当事者団体で介助の仕事をしていたのですが、そこにIさんという重度の脳性麻痺の男性(歳は30くらいです)がいました。
このIさん、よく一人で介助もなしにフラフラと外出するんです。車イスで。
しかも絶対にエレベーターを使わない。
そのことでしょっちゅうJRの駅員とケンカしてて、地元の駅が使えなくなったり、電車に乗るためにはわざわざ隣りの駅まで行かなくてはならなかったりと、大変でした。

Iさんはエレベーターを使わないので、階段の下で車イスを持ち上げてくれる人を4人つかまえないとホームに行けない。
なので道行く人に「すみません」と声をかけます。
すごく吃音のある声です。

ただ、そうやってIさんが声をかけることで、偶然そこを通りかかった人が介助に巻き込まれていくんです。
というか、そうやって横浜のある駅で「偶然」Iさんの車イスを押したばっかりに、それまで「障害」者と話しすらしたことなかったのに、なぜか介助の仕事まで初めてしまった一人が、ぼくだったりします。

たとえば野宿者支援にしても、理念とか社会意識といったタテマエ(もちろんそういうのも大事ですが)よりも、なにか「偶然」のようなものが、ひょんなパワーを持ってしまう瞬間はないでしょうか。
そしていま、そういう「偶然」性みたいなものが「自己責任」という物言いや管理社会のなかですごく希薄化されているのを感じます。
イレギュラーな「出会い」や「接触」を排除していく社会というか。

IさんもJRの職員が言うのに従って障害者用のエレベーターを使えば社会的にはものすごく効率がいいのでしょうが、もしそうしていたらぼくはIさんと出会わなかったわけですし。
(もちろんバリアフリーによって多くの「障害」者が自由に外出したりできるようになったことはまったく否定しません。素晴らしいことだと思います)

ちょっとまとまりがつかなくなってしまいました。

生田さんが触れてらっしゃる中島一夫氏の評論や岡真史「ぼくは12歳」、ぜひ探して読んでみようと思います。

2006/06/26

『星子が居る』 最首悟

Seikogairu

最首悟『星子が居る』を引っ張りだして読んでいる。
なんでだか思い出せないのだけど、杉田俊介と話していて最首悟の名前が出た。
杉田さんに貸そうと思って書斎のジャングルを分け入り探し出したが、貸せるのは先になりそうだ。

自然人は無際限の自由をもっている。自然人の対極は奴隷人である。しかし、奴隷人の奴隷人たるゆえんは、自分を縛るカセが自然のオキテに等しいとみなすことにあるから、その意味では奴隷人もまた無際限の自由をもつことになる。ガレー船に掲げられていたという自由である。
それにくらべると、社会人は大幅に自由を減じている。社会人は共同した生活を選んだヒトのあり様である。自由が減じた原因は共同にある。共同は規模が大きくなるにつれて、あるいは緊急事態の出現によって、協議・指導・指揮・支配が要請されるようになる。どのように理想的な共同でも、自由は目減りしているのである。
 (中略)
課題は古くて新しいというべきである。ヒトが共同へ向かったときの、その自発意志、すなわち自由をせばめながら責任観念を発生させた内発的義務とは、何なのであるか、わが身に深く錨鉛(いかり)を降ろすこと。私は、自然人ともいうべきわが子の星子という介助者に恵まれて、その作業を進めて行こうと思う。
(『星子が居る』)

立岩真也による最首悟も。

生きがいというものが静かに居すわる不幸ということを軸にしているのではないか、そして、そして静かな不幸と密接不可分な、畏れの気持ちもまた生きがいを構成していているのではないかと考える。そのような軌跡として、この本を読んでもらえたらと願っている。
(『星子が居る』)

2006/06/21

東京デスロック 『3人いる!』

◆午前中、企画書などつくって、昼すぎからジムへ。
マシントレーニング3セットやってプールでスイミング。
ほぼ貸し切り状態ゆえ、勃起の心配もなし。

Komotik_2里の宿で夕食。
泳ぐとどうにもサカナが食いたくなる。
子持ちカレイの煮付け定食。

◆5月29日(月)
東京デスロック 『3人いる!』
@下北沢CAFE PIGA

チェルフィッチュのようなハイパーな人格処理を、ほとんどゲームのように見せる3人芝居。

こんな感じ。
本田という男が部屋にいると、そこへやはり自分が本田だという男が入ってくる。
お互い自分が本物の本田であると主張し、片方を警察につきだそうとしたりするが、話をつきあわせればつきあわせるほど2人とも本田本人に思えてくる。
つまり本田という1人の人物を2人の役者が演じる(正確にいうと3人で本田1人を演じている瞬間もあり)。

2人の本田はどっちが本物かはっきりさせようと友人の家を訪ねるが、この友人も同じ症状(2人に分裂)に陥っている。

おもしろいのは、友人には2人いる本田が1人にしか見えない。2人の本田同士が交わす会話も、本田1人の独り言のように映る。その逆もしかりで、2人に分裂している友人も本田には1人にしか見えていない。
で観客には舞台上に3人の役者が見えている。

だれの主観に依るかによって見える状況が変わる。
たとえば2人に分裂した本田。片方の本田がもう片方の本田を殴る。
本田の主観からすれば、1人の役者がもう1人の役者を殴るという演技になる。
だけど、同じことを友人の主観にたつと、本田が自分で自分を殴っているように見える。
つまり、1人の役者が自分で自分を殴る。「べちっ」

こちらも観ているうちにルールが理解できてくるのだが、主観移動、人格処理が複雑に入り組んで行われるので、ぽかーんと見つめてしまった。いい意味で。
1ドリンク制でアイスコーヒー頼んじゃったのが惜しかった。ビールにしとけばたいそう気持ちよかったろうな。

やはりここで触れたような「静かな演劇リアリズムの向こう側」が意識されてるんだろうけど、それ以前に、これって談志の「主観長屋」じゃないか、なんてことも思った。

「主観長屋」っていうのは、『粗忽長屋』についての談志一流の呼び方。

『粗忽長屋』を知らない人はそんなにいないと思うけど念のため説明すると、浅草の観音様の境内に行き倒れの死体を見つけた八公が「こりゃ長屋の隣りの熊公じゃねぇか」ってンで長屋に戻って、熊公に「熊さん、さっきおめえ死んでたぞ」と報告。最初は不審がってた熊公もだんだん自分が死んだ気になっちゃって、2人で一緒に死体を引き取りにいくっていう非常にバカバカしい噺。
だけどこの2人を「粗忽者」とすることについて、家元・談志は「待った」をかける。人間、いかに主観に縛られていて、またそれを「客観」と信じて生きていることか。
家元はマスコミなどの例をあげ例証し、その上で、『粗忽長屋』は文句なしの名作である、と言い切る。
 で、『粗忽長屋』という題(な)の“主観長屋”であるが、昔から咄家、この主人公二人を“粗忽”と決めており(もっとも聞き手のほうは「粗忽ではないよ」と知っていた客も多くいたろう……)、私が主観長屋という粗忽長屋に変えたのだが、「俺は死んだんだ」と信じた熊さんは己の死骸に向かって泣く。
「泣いてるよ、あの人は。泣いたって仕様がないよ」に、
「死んだ者でなきゃあ、この悲しさは判るもんか」といい、己が死骸を抱いてしばし……。
 で、いう落(さ)げの文句(フレーズ)の物凄さは、
「ウーン……。よく判らなくなったぞォ」
「何が判らねぇんだ」の八公に、
「いえね、抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺は一体誰だろう?」
 文句なしの名作である、と談志(わたし)は信じている。落語こそ、本当の人間の業というか、常識という一般基準をはるかに超えたところで物事を見ている。
(立川談志 『新釈落語咄』)
そういえば、松井周はチェルフィッチュの演劇について、「これはなんだろう? 落語か?」なんてことも書いていた。でもそんな印象論でなく、立川談志が本質的にチェルフィッチュや『3人いる』と繋がってしまうのは、続けてこんなことをさらりと書いてしまうからだ。
 どこか心の底に、所詮人間なんて、何もつながらないところの言動が本当なのではないだろうか。それじゃあ、物事がまとまらないから、とりあえず、関わりのある会話をしているものの、それは、どっかで不自然で、ギクシャクした関係となっているのではなかろうか……。
 ま、いいか。
 『粗忽長屋』を演って、落(さ)げをいう。「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺は誰だろう……」。
 でも、本当のところは、喋っている談志(おれ)は一体何処の誰なんだろう。
(同上)
余談だけど、『3人いる』という芝居、PIGAというシモキタの小さなカフェが使われてて、それがよかった。
BGMに朝日美穂を流したり、下北沢という街への目くばせもじつにナチュラル。
こういうのどんどん増えてくといいな。

2006/06/20

犬猫ジャパン不振

梅雨入りあたりから性欲がおかしい。ものすごく減退。
なにこれ更年期?
一週間くらいオナニーしなくても平気みたいな。
仕事がはかどっちゃうよ。

はかどって、幽霊会員と化していたジムに通う時間なんかもできちゃって、プールで泳いだりしてるんだけど、やっぱり予防しておきたいじゃないですか。いくらおばさん連中ばっかりとはいえ、どんな不測の事態があるかわからないわけで。
木工用ボンド『ミズギズム』(超絶エロ漫画)で思いだし勃起しちゃうとか。

だからこそ転ばぬ先のオナニー。
なんだけど、できないまま家から出られず、ジムのデイタイム(17:30まで)終了って。

オナニー界のファンタジスタとまでいわれたこのオレが。
一週間にシュート1本。
ゆるせ、ジーコ。

2006/06/19

GANG GANG DANCE ライブ

ふー、山を越えました。

サッカー、試合はともかく、松木ングのコメントがむちゃすぎ。
戦前の「日本は3戦全勝・勝ち点9」って予想とか、オーストラリア戦のポイント「サッカーは90分間なにが起こるかわからないから、最後の1分まであきらめない」とか。新聞のラテ欄のほうがもうちょいマシなこと書いてあるよ!
でもああいうコメントを真顔で力強く言い放てるところに松木ングの偉大さがあるのやもしれぬ。AV女優インタビューで最後にかならず「オマ●コの色と形」を聞くことを忘れない中村カタブツ君のような。
なかなかできることじゃないって。

すでに週刊ペースですらなくなってきた当日記ですが、しれっと更新していきます。
まずは、いまさらながらGANG GANG DANCEライブの画像などを。
いかん、一ヶ月ちかく経っちゃってるよ……。

GANG GANG DANCE JAPAN TOUR 2006
@Shibuya O-nest 06.05.22

Rusty Coptic_1
アニコレのマスタリングなんかも手がけてるRUSTY SANTOS(左)と、ニューヨークの爆音トリオCOPTIC LIGHT(右)。どちらもすばらしかったが、とくにCOPTIC LIGHTの神懸かりノイズが! 鼓膜ビリビリビリ。

Gang01 Gang02
ついに見たGANG GANG DANCE! リリース音源からもうかがえる「きっとライブはすごいんだろうな(どんなライブするのか想像もつかない)」という予想をはるかに上回る衝撃。 まさに音の熱帯雨林(知人のミクシィ日記のパクリ)。
このYouTube動画より数倍、激しく、生々しいパフォーマンスなのでした。あとVoのリジーたん、かわいかった!

一生モノのライブがまた一つ増えたな。

※おまけ
Gang03_2GANG GANG DANCEを激写するパンダさん
(from ANIMAL COLLECTIVE)

2006/06/10

「野宿者/ネオリベ/フリーター」

部屋のジャングル化がとまらない。過去最高の密林度。資料(安達哲『サクラの唄』)が出てこなくて2時間くらいムダにしちゃった。しかも出てこねー。その時間で片づけができたと思うと、うー。
とりあえず、カーツ大佐が仕切る「片方くつ下の王国」を探すのだ!

ここの日記も停滞気味。明日、杉田さんが出るトークショーがあるので、とりあえず先月の生田武志×白石嘉治×杉田俊介トークセッション「野宿者/ネオリベ/フリーター」について書きつけておこう。

さて「野宿者/ネオリベ/フリーター」。内容はやはりこの人のまとめが素晴らしすぎる。皮肉でなく、これは一種の才能だと思う。そしてあいかわらずぼくは前回の杉田×白石トークショーと同じく、杉田さんの沈鬱さや、白石さんのお調子者スレスレともいえる軽ろやかさ、生田さんの誠実な語り口(『野宿者の授業』で培われた部分も大きいのかもしれない)などについて考えていたのだった。

トークショーは生田さんの語る野宿者問題の現状報告が中心。生田さんの口から真摯に語られた言葉はとても重く、動揺もさせられたのだけど、トークショーに対して抱いていた自分の中の期待はほとんど満たされずに終わった。

ぼくにとって『<野宿者襲撃>論』が衝撃なのは、たとえば以下のような引用箇所に象徴される情動による。

今、子どもたちに何かがあると思わざるをえなかった。
何よりも彼ら(青木悦の前著に反応してきた大学生たち――生田)は「殺られた側」の野宿生活者の状況に視線を向けるよりも、「殺った側」の少年たちの方に感情的に同調していた。言葉としては少年たちを許せないと言い、野宿生活者の状態を何とかしなければならないのでは、と語った。しかしその言葉はどこかタテマエのように聞こえた。事件の話になるとそろって口が重くなり、自分の学校での生活を語り、自己の悩みを語り、少年たちの暴力を肯定はしないものの、どこかかばっていこうとする姿勢に、私はそう感じたのであった。事件の話を何回くり返しても、問題が社会のことに広がらず、自己の問題としてくすぶりつづける、そういう感じがあった。
彼らは、この問題を客観的に具体化していくには、悩む時間がこれまでの人生の中にあまりにも少なかったように、私には思えた。
事件を、失業の問題、社会的差別の問題としてとらえようとしていた私は、その意味で強い味方にたってくれると思っていた大学生に失望した。同時に、自分の、あまりに皮相的な見方を反省させられた。事件を、いきなり社会問題としてとらえていくことは無理だと思い、そこにいくまでの途中として彼らと話し合っていこうとしたが、そういう考え方じたい、まちがっていたと思った。中学生といい、大学生といい、若者たちが自分の中に大きなイライラをかかえていること、その出し方がわからずイライラしていること、それじたいが社会的な問題であることに気づいたのだった。
(青木悦 『やっと見えてきた子どもたち』)

ここで言われているような若者たちの「イライラ」について、生田さんは考える。
「まったり革命」の限界、「出会い損ね」への出会い損ね、居場所の崩壊と過剰適応のこと……。
スティーヴィー』のところでもちょっと触れたけど、「死=存在とはなにか」という問いが切迫する「ねじれ」の時間、それが「隣接」を通じて別の共同性のあり方へと拓けていくくだりは震えて読んだ。抽象的なところなどいっさいなかった。それはぼくの臓腑に直撃した。落とせば痛みを感じる重量をもって。

隣接性―別の共同性のあり方、そんなものがありうるのだろうか。終章で生田さんは90年、西成暴動での体験について触れる。その文章の一部はここで読める(ここで知りました)。暴動のただなかにどこからともなく現れた少年・少女たち。

日雇労働者・野宿者をめぐる釜ヶ崎の現状が突然シンクロして、日本全国から若者たちを引き寄せる。若者たちは日雇い労働者や野宿者の状況についてはほぼ何も知らなかったし、また日雇い労働者・野宿者も若者たちのいる状況についてはほぼ何も知らなかった。しかし、このお互いの理解せず、理解されない関係が、そこではめったにありえない「共闘」となっていた。
この共闘関係は4~5日で消滅し、若者たちは寄せ場から消えていった。彼ら彼女らにとって、あの暴動はいまどういう形で残っているのだろうか。そして、釜ヶ崎にいるわれわれにとって、あの予期しない突然の共闘関係は何だったのだろうか。多分、「これは自分の問題だと思った」と若者に言われたとき、われわれは寄せ場・野宿者の運動の今までとはちがう可能性を与えられていた。それに気づかなければ、社会運動としては多分終わっているような何かの可能性に。
(生田武志 『<野宿者襲撃>論』)

若者と野宿者との間に起こる襲撃は、1968年革命以来の普遍的問題を凝縮する「最悪の出会い」だった。それは、別の「出会い」へ転換されなければならない。そして、われわれは若者と野宿者の出会いをもたらす「穴」=「通路」を作り出そうとしてきた。もちろん、こうした出会いはそれだけでは「二つのホームレス問題」を解決することはできない。しかし、この「二つのホームレス」の出会いは、従来の「資本・国家・家族」の原理を更新する「連帯と共闘」「別のルール」を予告する。
(同上)

今回のイベントタイトル――「野宿者/ネオリベ/フリーター」。ちょっとどうかと思うほど安易なのだが、もしそのような並記になんらかの可能性をつかもうとするのであれば、それは上記のような箇所においてだろう。「その先」についての考える契機になるかもとジュンク堂までのこのこ出かけたわけだが、残念ながらトークショーでそれは果たされなかった。生田さんはフリーター問題との連続性に可能性を示唆しながらも、基本的に野宿者の概況を説明するにとどまった。あえて自分の役割として「状況」を確実に届けることにこだわったのかもしれない。

だとしたら重要になってくるのは白石さんだったりするのだが、この人が話すと杉田さんの沈鬱さや、生田さんの実直さがことごとく政治的ジャーゴンに回収されてしまう。肝心なところで大事なものがスルスルと指の間を抜けていく。その軽やかな手つきはトークショーの余興として80点ぐらいはやれるものだったけど、そこにあるすれ違いに誰も違和感を覚えてなさそうなのが不気味だった(たとえば杉田さんのかなりぼそぼそとしたわかりづらい吃音のあとに白石さんが何かを話すと、「ホッとされる」みたいな)。
「野宿者/ネオリベ/フリーター」、けっこうじゃない。それに白石さんの言ってることもたいへん意味があるんだとは思う。だけどまず他人の声にはちゃんと耳を澄ましたほうがいい。それから自分の声についても。ぼくたちはあまりに「声」を売り渡しすぎる。

あまりにいたたまれなくなって、打ち上げの席で生田さんに、「<襲撃>する側の話がほとんど出ませんでした。でも今回のトークショーに来ているような連中、というか僕なんですけど、『<野宿者襲撃>論』で描かれた若者の側にもすごく感じるものがあったんですが……」とおもいきって言ってみた。
「共感するものがあったんですか?」「いや共感というか、あの『生きづらさ』や『イライラ』が自分たちにも通じるような…」「何年生まれですか?」「1976年です」「そうですか。ぼくはあの若者たちにはまったく共感できません」「あ、いや、そういう……」

恥ずかしかった。ぼくの言い方がすごく悪かったのもあるんだけど、生田さんがいま渦中にいる現場へのイマジネーションをすっとばして、突然「<襲撃>する側」のことを持ち出したりした自分に。屹然と「共感できない」って言われて、それは僕の言い方が悪かったのもあるんだけど、青木悦が書いてる「問題が社会のことに広がらず、自己の問題としてくすぶりつづける」若者、それがオレ、ダメだーみたいな。言い訳がましく、自分も学生時代に寿町で野宿者支援に関わっていた話をしたりしたけど、生田さんの現場のリアリティに気圧されてあわあわしてしまった。

打ち上げ後、生田さんたちは池袋で野宿者支援に関わってる人たちの案内で、池袋の夜回りに随行するというので、恥ずかしさを抱えたままついていく。

「池袋の野宿者は段ボールを敷かないんですか」
生田さんが支援者の方に聞いていたのが印象的だった。言われてみればたしかに何も敷かず、ホームの床に直接寝ている方が多い。そんな状態で何日も寝ればきっと腰を悪くするだろう。背中に堅くて冷たい床が触れる感覚。心因的な「障害」を抱えていると思われる若い野宿者もいた。

夜回りのあと、始発待ちのファミレスで生田さんを囲み、朝まで話した。自分が『<野宿者襲撃>論』に衝撃を受けた点をうまく伝えられなかった想いがどうしてもあって、児童相談所でのことも交えながら、本当に聞きたかったことについて、聞いた。どのようにしたら若者と野宿者の出会いをもたらす「穴」=「通路」を作り出せるのか。もちろんそんなの人に聞くような、「答え」が出るような質問じゃない。でも聞かずにいられなかった。
生田さんは、トークショーのときと変わらぬ真摯さで受け止めてくれた。やっぱりすぐに答えが出るような質問じゃない。

もしかしたら芸術が。それはとても自信がなくて言い出せなかったんだけど、僕はやっぱり五反田団のことなんかを考えていた。

生田さんといろいろ話す。公的就労、ベーシックインカムの問題はやはり重要だと思い知らされた。なぜ行政は公的就労に踏み切れないのか。

いまいるフリーター層が高齢化すれば、その一部が、たとえばちょっとしたケガや病気で転がり落ちるように(参照:「カフカの階段」のたとえ)野宿者となる可能性は高い。
おおざっぱな計算だけど、現在のフリーター数を内閣府の調査にあった約400万人として、そのうちたった3%が野宿者となるだけで12万人。たとえばその12万人のなかに自身を含む自分に近しい人が入ること、そんな想像はけして非現実的なものではないだろう。

現在の日雇労働者の野宿者問題はリハーサルであり、いずれ本番をフリーターがやる可能性がある。
(同上)

重い。あまりにも重い……。
いま考えとかないと、絶対、あとで、大変なことになる。

2006/06/06

文学座+青年団自主企画交流シリーズ第一弾 『地下室』

4日の日記(←未読の方は先にさらっと覗いてもらえたら)に続き、文学座+青年団自主企画交流シリーズ第一弾の『地下室』のこと。
店長とその息子たちと店員たちが働く小さな自然食品の店。外に出ることを怖がり地下室にこもっている息子には体内の毒素を排出するという「水」を作る力があった。彼らはその「水」をもとに商品を作り出していたのだが、ある日「働きたい」と店に現れた女の子と出会ったことで、息子は「力」を失い「水」は枯れてしまう。排出することができなくなり体内で濃度の高まった毒素は思わぬところで吐き出されることになる。
ここのvol.255より)
怪しい宗教がかった自然食品店が舞台。いちおうアンチ資本主義的な理念のもと運営されてるみたいなんだけど、あきらかに歪んだ正論、みたいな。登場する人物がどいつもこいつもみなちょっとずつ狂ってて、総括とかはじめちゃうという連赤チックな展開。

集団心理がおかしな方へむかっちゃうのもあるんだけど、それ以上に、ひとりひとりの狂い方が怖いというかまぬけというか。卑小さとか狡猾さとか妄想とかそういう説明つく狂い方じゃなくて、人物設計の段階からパースが歪んじゃってるような狂い方。
店長の息子っていうのがまるっきり無気力な廃人で、だけど性欲が溜まるもんだから「お母さん」と呼ばれる店員が手コキで抜いてあげるのね。劇中では手コキっていわないで「おしぼり」っていうんだけど。それで「おしぼり」の頻度について「お母さん」と男性店員が話あったりするんだけど、この二人がじつは元・夫婦だったりする。まあ、ありていにいうとこの団体、フリーセックスなんですわ。

そんなふうにパースの狂った世界を「静かな演劇リアリズム」で演じてるもんだから、これがもうおかしくって。一種コメディーのような趣もあり。ここで松井周がやってるのは、もう明らかだと思うけど、目のつりあがったニセ人間の目をさらにガンガンつりあげちゃうようなこと。潜在的怪獣パワーの極大化。それによって「静かな演劇」では文学性(奥行きや謎)によってぼかされてしまいがちな「性」の問題についても接近戦が可能になっている。

Chikaアフタートークの松井の言葉を借りれば、そこにあるのは「ゾンビ」みたいなカラダ。ニセ人間なんて言葉は甘っちょろい。まがまがしい呪いによって操られた死体たちが蠢く、地下室の白昼夢。
舞台中央に据えられた煙突みたいなカタチした水質濾過(息子のウンコをつかう)装置は、地上から地下室までを突き抜けて、ぼくたちのカラダにつきささるのだった。

2006/06/05

目のはしっこがつりあがってる

ウルトラマンでなにが怖かったって怪獣が人間に化けてるときだ。パッと見、人間なんだけど、よーく見れば目のはしっこがつりあがってる。人間もどき。怪獣オリジナルの姿よりはるかに恐ろしかった。あとニセウルトラマンとか。ブックオフで「いらっしゃいませー」と声を張りあげている人たちにも同じような怖さを感じる。肩が触れあうほどの距離にいるのにあきらかにぼくに向けてではなく、誰に向けてでもなく、「いらっしゃいませー」ってあいつら。
唐突だが舞台上で自然に話すということはどういうことだろう。多分「静かな演劇」と呼ばれるものの大半は、俳優が舞台上でのんきに日常会話を交わしている様子からそのように呼ばれるのだろう。しかし、「ナチュラルで等身大の演技」と評されるそのスタイルは果たしてその通りなのだろうか? 舞台上に上がって照明を浴びたなら、せめて姿勢を正して前を向き、滑舌よく詩の一つでも朗読するのが普通ではないだろうか? あるいは鍛えられた身体で超絶的なダンスを踊るのが舞台に上げられた者の特権であり、観客に対しての礼儀ではないだろうか?
では、何故彼らは舞台上でだらしない身体を曝し、ぼそぼそと取るに足らない会話を交わすのだろうか。(中略)彼らは何かを「する」ことよりも「されること」を望む。そして、いっそのこと舞台上においてその風景に溶け込みたい。机や椅子や動物や植物や石やその他のセットと同列で並んでいたい。紛れ込んだまましばらくそっとして欲しい。観客にはそんな姿をただ見つめて欲しい。いや見ないふりをして欲しい。このようなマゾヒスト的な欲望に支えられて「静かな演劇」は成立しているのだ。
(松井周 「ポスト『静かな演劇』の可能性」)
雑誌『ユリイカ』の小劇場特集に収められたこの論考で、松井周は「静かな演劇」の功績と限界について考察する。「静かな演劇」の核心とは「人間が『主体』でありつつ、『主体』でないことの二重性を捉えた」こと、功績は「俳優を『主体』の座から引きずり降ろ」し「日常をベース」とすることで、「『本当らしさ』と共に『文学性』を獲得」したこと。
つまり人間の心理や感情を拠り所とした「内面」を重視する「新劇的リアリズム」が、「外面」重視の「静かな演劇的リアリズム」に更新されたことで、初めて近代劇は完成したのである。
(「同上」)
松井の師(あくまで係累として)にあたる平田オリザがアフォーダンス研究者と共同で進めてるプロジェクトなんて、この究極のものといってもよいだろう。だけど、「静かな演劇的リアリズム」は、そのリアリズムゆえ、再現するのが難しいような、あるいは人前で演じるのが憚られるようなトピックを舞台に乗っけるのが苦手だ。殺人とかセックスとか。それらを「静かな演劇的リアリズム」でもって演じようとすると、とたんにウソくさくなってしまう。なので直接的な描写は回避され、隠蔽され、そのことは結果として作品に奥行きや謎を与えることとなる。観客の想像力を刺激するから。「文学性」か「文学趣味」かという問題はここでは問わない。ともかく「観客の想像力を働かせやすくすることこそ演劇である」と。「しかし……」と松井周は続ける。
しかし、本当はその舞台空間は実はどこにもつながっていない。暗い四角い空間の中で俳優たちはじたばたしてるに過ぎない。
(「同上」)
ありゃりゃ。どんなに「リアル」な外面を獲得しても、怪獣のような過剰な演技を封印しても、それはやはり「リアルっぽさ」でしかないと松井は指摘する。けっきょくのとこ、俳優たちは貧しいカラダ曝しながら、暗い四角い空間をじたばたしているにすぎないって。たしかにLOHASでナチュラルな演技もよーく目を凝らしてみたら、ああ、目のはしっこがつりあがってる!

いやだけど演劇ってそういうものなんだとは思う。むかしはみんなお面(これがまた、たいてい目がつりあがってんだ)かぶってたりしてたわけだし。でもって昔の俳優はみんな怪獣みたいで、だから観客も「かっけー!」とか「すてき!」とか「こえー」とか「うえ~ん(泣)」とかわかりやすかった。でも「静かな演劇」はというと、もはや本物の人間にようにうまく化けた(でも目のはしっこがつりあがっている)怪獣たちが、地味な、でも衝撃的なだったりする芝居を演じ、観客の意識の飛躍をいざなう。なるほど文学性。

「静かな演劇」のナチュラルな演技――冒頭の松井の言葉を借りれば「いっそのこと舞台上においてその風景に溶け込みたい」というような役者の演技は、「いま/ここ」にあるカラダをできるだけ溶解させるような志向性をもつ。たとえば怪獣なら隠しようもない「いま/ここ」にあるカラダとの乖離が、外面的なリアリズムを獲得したニセ人間においてはうまく隠蔽されている。「演じる」ことが本質的に恥ずかしいのはこの乖離があるからなのだけど、「静かな演劇」においては、演じる方も、見る方も、端的に言って、恥ずかしく、ない。けど、同時に、それゆえに、文学的な「静かな演劇」は、「いま/ここ」で起きていること(役者が四角い舞台でただじたばたしてる)、「いま/ここ」にあるカラダへの意識をそらしてしまうという弱点をもつ。

この弱点に自覚的で、でもいまさら恥ずかしいのもちょっと……、という先に可能性を切り開いている劇団がたとえばポツドールであり、チェルフィッチュだったりする、というのが松井の論旨。

たとえばポツドールは、観客に「いま/ここ」にあるカラダをひたすら見つめること、耳をすますことをなかば強引に要求する。動物化した人間たち。そこでは会話すらたんなるノイズとして扱われることもしばし。

チェルフィッチュでは俳優が「これから~という作品を演じます」とハナからぶっちゃける。たとえばブックオフで「いらっしゃいませー」と声をあげる店員がいつのまにか隣りのぼくになっていて、気づいたらもう一回繰り返されて、しかもいつのまにか店長になっている、というようなハイパーな人格処理が行われる。外面的なリアルでは追っつかない、けど確実にそのような複雑な処理をこなしている俳優の「いま/ここ」のカラダがある。そして、たしかにぼくらは日常をそのようなカラダで生きてる実感があったりする。

さらにつけ加えれば、たとえば矢内原美邦が『3年2組』で見せた3倍速演出なんてのも。そこには高速度で展開する外面的リアルに息切らせながら食らいつく俳優たちの「いま/ここ」のカラダがみごとに露呈されたいた。

論考のなかで自身については触れていないが、松井自身の作品も、「静かな演劇」の弱点を見すえた意識のもとでつくられているのはいうまでもない。というわけで、松井が『地下室』でとった手法はとりわけユニークなものだった。――つづく

明日に続きます。そっちが本題です(最近こんなんばっかですみません。これ書きながらメシの種になる原稿も書いてるので。「ヤクザも呪われたマル秘怨霊スポット」て)。

2006/06/04

五反田団のカラダ

Binbo21

五反田団『びんぼう君2006』の公演告知サイトに載っている写真(宣伝用の写真だと思うので勝手に転載してます)がいい。
2004年の工場見学会での『びんぼう君 21世紀版』のやつかな。たまらないものがあるよ。
ぜひリンク先にとんで、より大きいサイズでも見てみてください。

ぼくが聞き手をつとめた前田司郎さんのインタビューを杉田俊介さんが紹介してくれて、そこのコメント欄に書かせてもらったのがたとえばこんなカラダだ。
ぐったりとした重心の低さの奥底に、かすかに蠢いてるものらがある。

こんなカラダから出発しながら、延々「性」や「死」や「私」のことを考えている男がいる。
そう思うだけでとりあえず、さびしくはならないですむ。

公演案内に添えられた前田さんのコメントを読んで、やっぱりあいつら部屋をゴロゴロする神様なんじゃないかって思った。ぜんぜんエラくないけどな(まあ、むかしの神話にでてくる神様もけっこうだらしないやつ多いし)。

2006/06/02

『セキ☆ララ』公開に向けて

Sekilala

明日、6月3日(土)より公開される映画『セキ☆ララ』について。

もともと『アイデンティティ』というAV作品だったこの『セキ☆ララ』。『アイデンティティ』からとくに過激なエロシーンをカットした劇場公開用バージョンが『セキ☆ララ』、という認識でまず間違ってないと思う。実際、ぼくは両方を、『アイデンティティ』はDVDで、『セキ☆ララ』は劇場試写で観たけど、内容的にはほとんど同じものとして受け取った。

ただ、ミソは「劇場公開用」というところで、自宅でひとりでAVとして『アイデンティティ』を観るのと、劇場で知り合いでもない他人と一緒に映画『セキ☆ララ』を観るというのは、まったく異なる体験である。どんな映画だってDVD版が販売されていればそういったことは起きうるのだけど、でもこの『アイデンティティ』≠『セキ☆ララ』に関しては、それはとくに大きな意味を持つ。

「“等身大”在日ドキュメント」と謳うだけあり、お堅い啓蒙映画ではない。ポップで爽やかな青春映画の趣さえ、ある。でも、この映画が「AV」と「ドキュメンタリー」のあいだで行っている駆け引きはとっても政治的なものだ。また映画はアイデンティティが「日本人」と「韓国人」の間で揺らがされてしまう状況についても政治的な視座を外していない。『セキ☆ララ』を『セキ☆ララ』として“等身大”で受け止めようとするとき、観客のなかで知らず知らずいろんな「政治」が渦巻いてしまう。そんなAV。そんな青春映画。まったくすげーな。

余計なこととは思いつつ、ひとつだけ残念なのは、この映画、男と女の「政治」だけがちょと弱い。AVモデルとAV監督という垂直的な関係性だからというわけではなく、男と女である以上、そこにはなんらかの駆け引き(それはとても政治的なことだ)があるはずで、そこはもう少しみたかったかも。でもまあ、男と女の「政治」について、松江監督には『カレーライスの女たち』という素晴らしい映画があるので、不満はそちらで晴らすとしよう。

Identity『アイデンティティ』(≠『セキ☆ララ』)について以前、雑誌で松江哲明監督にインタビューしたことがあるので松江さんの承諾をもらった上、再録しておきます(雑誌のほうはすでに廃刊……)。05年の6月頃の記事です。インタビューの際、松江さんにも伝えたんだけど、以前から『アイデンティティ』についてインタビューがやりたくてでもどの雑誌でもなかなか企画が通らなくて、HMJMのリリース凍結にかこつけてなんとか実現できたという、ちょっとうれしいようなかなしいような複雑な原稿仕事だったと記憶している。そもそもHMJMってなに? という方は、先に下のほうにある「HMJM(ハマジム)について」という記事に目を通してみてください。

なお一ヶ所だけちょっとわかりにくいとこ(けどクリティカルな問題)があるので解説しておきます。インタビューの最後のほうの松江さんの「いまのAVは実用性を重視するあまり、作品のバランスが崩れてしまっている」ってとこ。そのあとに「バクシーシ山下さんとかはもっと雑でいいかげんだった(それが最高だった)」みたいにゆってるので、「バランスが崩れる」というのと「雑でいいかげん」っていうのはどう違うの?って疑問を持つ方がいるといけないので。

いまのAVのバランスが崩れてるっていうのは、誤解を恐れずにいうと、もうセックスシーンが「男と女のセックス」じゃなくなってるってこと。男のズリネタとしての機能性を追求していくと、どうしてもワンカットの時間や主観ショットの使い方、体位なんかがすごく恣意的な、オナニー本位の、「男と女のセックス」としてはいびつなカット編集になってしまう。しかも編集・構成の様式がすごく洗練されてきてて、あらかじめきまったコンテに女優(そのへんのアイドルよりかわいいんだぜ!)を画としてはめ込んでいくような方法でAVができあがってしまう。ラグジュアリーに、システマティックに。でもセックス描写のバランスとして崩れまくってるのはいうまでもない。

いっぽうでバクシーシ山下が雑だった、という話は、セックスはセックスなんだけど、たんに「編集が雑」っていう。ブチブチと適当につないでいる感じ。でもその雑な感じが、バクシーシがその著書で「セックス障害者」と呼んだような彼のAVに登場する男たちの貧しいセックス観や妄想のたぐいを見事、過不足なく活写していた。だから「あのいいかげんさがまた魅力だった」ということになる。

なお松江さん本人の編集について、ぼくはインタビューのなかで「セックスのダイジェストに見えてしまう」なんて失礼なことを言ってしまってて、これはホントに浅はかな発言だったと後悔している。「ドキュメンタリーは嘘をつく」で思い知らされたんだけど、松江さんの同ポジを多用した短いテンポのつなぎは、もう独特というか、これについてはもう少しゆっくり考えてみたいんだけど、とにかくかつてのバクシーシ山下の「雑さ」がそうであったように、松江さんのあのテンポもなんらかのぼくたちの潜在的な感性を反映しているように思えてならない。おそらくこちらもそれを説明するための新しい言葉、文体を発明しなければならないような。

「挑発するAVレーベル――HMJM(ハマジム)」
松江哲明&スチャラカ宮下(HMJM広報)インタビュー

文=九龍ジョー

元V&Rの名物広報で、現在はHMJMの広報を務めるスチャラカ宮下氏と、怪作ぞろいのHMJM作品の中でもとりわけユニークな『アイデンティティ』というAVをつくった松江哲明監督をお呼びし、HMJMの過去から現在までを語ってもらった。
 
――松江さんがHMJMに参加された経緯っていうのは?
松江 僕が関わった『ほんとにあった! 呪いのビデオ』(OV)の仕事で、音楽を豊田道倫さんにやってもらったんです。それをたまたま浜田(一喜・HMJM代表)さんが見て、「なんで松江って監督の回は音楽がパラダイス・ガラージ(豊田道倫)で、しかもAVっぽい主観画面なんだ」って気になって、それを(カンパニー)松尾さんに言ったらしいんです。松尾さんとは豊田さんのライブで挨拶ぐらいはしてたから「ああ、あいつか」って覚えてくれてて。それで「単体企画系の女優さんだけど、1本(AVを)撮ってみる気はないか」って声をかけてくれたんですよ。
――それはHMJMがスタートする前?
松江 いや、もうHMJMでした。HMJMの設立から最初のリリースまでの1年間って、そうやって単体系のギャラのいい外注仕事を請けて資金を貯める時期だったんですよ。
宮下 同時並行で、いま出てる7作品のうち『UFO』(監督:堀内ヒロシ)以外の6作品の撮影準備もしてましたけどね。
――ということは、その6作品については最初の時点ですでに青写真があったわけですね。なにか共通の指針のようなものはあったんですか。
松江 松尾さんに言われたのは「とにかく松江が撮りたいものを撮れ」ってことですね。それで僕は「『在日』を撮りたいです」って言って。じつを言うとそのとき僕、ちょっとカン違いしてたんですよ。HMJMで作るっていっても、僕はできたものを、たとえばV&Rとか他のメーカーさんに売るのかなって思ってたんです。
――つまりプロダクション的な作り方をするのではないかと。
松江 そう。でもそう言ったら、松尾さんに「こんな企画、他社に売れるわけがないよ!」って大笑いされて(笑)。「ウチ(HMJM)からオリジナルで出すんだよ」って。そっかぁ、HMJMで出すってことは、松尾さんも他のメーカーでは出せないようなものが作りたいんだなと。それでパッケージも見せてもらったらレコードジャケットの形でむちゃくちゃカッコいいじゃないですか。そこではじめて「なんかヤバイぞ! なんかスゴイことになってんぞ!」って(笑)。
――04年の5月に作品のリリースが始まるわけですが、反響はどうでした。
宮下 とりあえずサンプル盤1000枚を1週間で全部配って、業界関係にはしっかりパブを打ったんですが、反響は……。正直言ってあまりなかったですね。
松江 でも、イベントはすごい集客でしたよ。
宮下 そうそう、アップリンクさんからお話を頂いて上映イベントを打ったんですよ。
松江 あの上映会では『アイデンティティ』がすごい売れたんですよ! 会場でゴールドマン(AV監督)さんが「売れるはずがない」って力説してたんだけど、「売れてるじゃないか!」って(笑)。
――でも、アップリンクに来るお客さんって、基本的にあまりAVを見ない人たちですよね。
松江 そうなんです。だけどHMJMの作品を見て面白がる人っていうのは、やっぱりあのへんなんですよ。一般的なAVのエンドユーザーには『アイデンティティ』を見ても、「女のコがかわいくない」みたいな、よく業界誌に書かれたような判断をされてしまう。
――そういうエンドユーザーにも届けたいとは思ってるんですか。
松江 正直言ってあまり期待してないっていうのはありますね。「見せてもわからないから」じゃなく「たぶん見ようともしないから」って部分で。松尾さんなんかは、まだそこのお客さんに対しての期待というか、もっと偶然的に見せていきたいんだって言ってますけど。
宮下 いや、僕はやっぱり見てほしいと思ってますよ。ただ、見てほしいんですけど、いろんな障壁もあって……。たとえばこのジャケット、形(7インチレコードのジャケットを模している)がネックでDVDショップに置けなかったりするんです。店も置き場に困ってしまうというか。あと、よく言われるんですけど、ジャケットを見ても内容が全然わからない(笑)。
――たしかに、あらかじめ情報が伝わってないと手が出しにくいジャケットではありますね。それと「4830円(税込)」という価格設定も大胆だなって思ったんですが。
宮下 それも理由がありまして、ジャケットをこの形にしたことでものすごくコストがかかってしまったんです。
――ずいぶんジャケットに振り回されてますね(笑)。
宮下 だからリリース凍結にいたった一番の要因は、このジャケットなんです!
――松江さんはどうなんですか、ジャケットについては?
松江 うれしいですよ。けして自分の作品がこのジャケットだからっていうんじゃなくて、松尾さんがこういうカッコいいものを作ろうとしていることがうれしい。だから僕は自分が関わってなかったとしても買ってますよ、絶対。でも、そういう人はけっこういるだろうと思ったら、意外と少なかった……。
――結果として、リリース凍結になってしまったわけですが。
松江 残念だなと思います。なんだかんだ言って『アイデンティティ』なんて他のメーカーさんじゃ、ぜったい撮れないじゃないですか。もし他のメーカーさんが『アイデンティティ2』を撮っていいよって言ったら、僕はすぐにでも企画書を書いて送りますよ。竹島でもどこでも行きますよ!
――たしかに、いま竹島でセックスすればおいしいですもんね(笑)。ってことで、問題作『アイデンティティ』についてもお聞きしたいんですが、「在日」の問題とかぶるように、作品そのもののアイデンティティが「AV」と「ドキュメンタリー」のあいだで揺らいじゃってるのが面白いですね。
松江 だから、AV業界誌に「セックスシーンがなくても成立する」って書かれたときは、冗談じゃないぞって思いましたから。セックスシーンがなかったらこんな作品は撮れないですよ。やっぱりAVの撮影だからこそ何日も一緒に過ごして、セックスまでさらけ出しながら、女優さんの言葉を待てるわけじゃないですか。普通のドキュメンタリーじゃできないですよ。
――ただ他のAVよりもセックスシーンのテンポは早いと感じました。たとえば松尾さんのハメ撮りのカットつなぎだと、自分があたかもセックスしているように感じられるんですが、『アイデンティティ』のカラミシーンはセックスのダイジェストに見えてしまう。
松江 僕はセックスシーンだけ独立して考えられないんです。インタビューあってのセックス、逆にセックスあってのインタビューだから。ダイジェストっていうならインタビューだってそうなんですよ。それは自分の作り方なんです。早送りさせたくないっていうのがあるんです。そこでユーザーよりの編集をしちゃうと、実用性としてはいいのかもしれないけど、作品のバランスが崩れてしまう。
――崩れたほうが面白いんじゃないですか。
松江 イヤです。なんでかっていうと、いまのAVはみんな崩れてますから。『アイデンティティ』が最初の批評を受けたとき、やっぱりこれじゃいけないのかなって思わなくもなかったんですけど、でもなんかね、それってたんにいまのセル(セルAV)の基準なだけじゃないかって。だって昔のAVのカラミなんてもっと雑だったじゃないですか。バクシーシ山下さんとか。あのいいかげんさがまた魅力だったわけで。
――たしかに、かつてのAVにあった「AVでこんなところまで行けるのか!」っていうワクワク感とか熱気を『アイデンティティ』には感じます。それは他のHMJM作品にも言えると思います。
松江 僕はね、ジャンルの縛りが一番ないのがAVだとずっと思ってたんですよ。AVっていうとてつもなくでっかい枠があって、もちろん自分は真ん中だとは思わないです。端っこのほう。その端っこのほうから「認めてくれ」っていうんじゃなくて、「いったいAVってなんなんだ!?」って突きつけるのが僕の役目。でもね、これは松尾さんとも話したんですけど、意外とみんなが考えるAVの枠って小さかったんだねぇって。

HMJM(ハマジム)について
文=九龍ジョー

HMJM(ハマジム)はフリーのAV監督・カンパニー松尾が仲間たちと立ち上げたインディペンデントAVレーベル。設立は03年5月。翌04年5月より作品のリリースを開始した。
松尾たちをHMJM設立に駆りたてたものは、「かつてのV&Rをもう一度つくりたい」という想いだった。かつてのV&R――それは代表の安達かおる(現在もV&R社長)を中心に、松尾やバクシーシ山下、平野勝之らが規格外のキワモノ作品や実験作を次々と発表し、業界最強(最狂)の名をほしいままにしていた時代のV&Rにほかならない。
とはいえ松尾はけしてキワモノ路線がやりたいわけではない。監督それぞれが思い描く作品を、たとえそれがどんなに突拍子のないものでもリリースし世に問うことができる。そういうかつてのV&Rにあった自由闊達な雰囲気のもとで作品製作をしたいということなのだろう。そこにはズリネタとしての機能性が追求されるあまり、内容や製作体制が硬直化してしまったAV業界に対するアンチも、少なからずあったはずである。

ここでちょっと個人的な話をさせてほしい。かねがねAVの撮影現場を見学するたびに思うことがある。たいていどの現場でも、スタッフは女優さんを美しく撮り、カメラの前で最高のパフォーマンスを発揮させることに四苦八苦するわけなんだけど、じつはカメラの回っていない時のほうが女優さんはキュートだったりする。フィール・ライク・ナチュラル。だけどそういう女優さんの素の状態っていうのは、現在の実用性本位のAV界ではズリネタに直結しないノイズとして片づけられてしまいがちだ。なんとももったいない話で。
もちろん好みの問題であることは百も承知。でも、そういう素のおしゃべり(フェイクはナシよ)と、カラミで見せるエロい表情のギャップにグッときて思わずチンポを握ってしまう連中だってけっこういるんじゃないか?
そういう通常のAVではカメラの回らない場面に宿る女優の「リアル」を追求してきた監督こそカンパニー松尾であり、いまのところ他の監督の作品にも見られるHMJMレーベルの特徴でもある。だからHMJM作品はどれもおしゃべり(あと食事!)シーンの時間が長いのだが、コク深さではカラミシーンに負けてない。というかその2つが切り離せない。そこに松尾が考える「男と女のセックス」があるから。
身構える必要はない。なにしろカンパニー松尾のハメ撮りは悪魔的なまでにエロい。ちょっとおセンチな風景ショットを指してドキュメンタリー云々なんて言う向きもあるが、なんだかんだ最後はチンポの抜き差しで理解してしまえ、という男である。だから僕たちは登場する女たちの「リアルな」人生に思いを馳せつつ、そこでヌけばいいだけだ。

HMJMは現在、新作のリリースを凍結している。経営的な問題である。再開のメドは1年後くらいらしいが、それもはっきりしたものではない。本来ならこの原稿もそのこと(経営的な問題)をもっとフィーチャーすべきなのだろうが、あえてその必要はないと考えた。そもそもが個人製作集団である。各監督とも他社からでも作品をリリースしてくだろうし(すでにその方向で動いている)、なにより現在リリース済みの作品7本は、HMJMのサイトにアクセスすれば、いつだって手に入れることができるのだから。

(初出:『ウラBUBKA』2005年6月号)