2006/10/10

愛染恭子ショー作家

最近はあまり出歩かず、読書。

三連休は中村文則『遮光』、本谷有希子『生きてるだけで、愛』、森見登美彦『太陽の塔』、田中和生『あの戦場を越えて』など。

デビュー作『銃』のモチーフをさらに深化させた『遮光』。やっぱりこの人すごく好き。茫洋とした無意識力。
逆に『生きてるだけで、愛』は自意識過剰小説なんだけど、これはこれでおもしろく、一気読み。すごいキレ。
太陽の塔』は本谷有希子的物語を男の側から。うう、切ない。
あの戦場を越えて』は中原昌也と松尾スズキの作品分析から始まる現代文学論。固有名詞の扱いや文章意識(「私」の濃度みたいなもの?)について。
以下の箇所はまんまここで書いたような「静かな演劇リアリズム」の可能性と限界としても読める。
たとえば村上龍、村上春樹、高橋源一郎といった1980年代以降の日本文学を牽引していく作家たちは、いずれも1980年前後に「風景」や「内面」を描く「近代文学」に対する切断の身振りを見せることで登場してきた。そしてそのような書き方が一般化すれば、それ自体が「近代文学」的なものになっていくのは当然である。そうした意味で、おそらく「私」の範型をかたちづくるという点で影響が大きかったのは村上春樹であるが、文体としてもっとも影響力があったのは村上龍である。なぜなら村上龍は、その文体を個人の体臭を感じさせない映像的リアリズムとして、一つの文章意識を生み出すほどにまで鍛え上げていったからである。
(中略)
そこに投影される「内面」というある種の自意識を内包する「風景」描写的なリアリズムでは、「俺達はコインロッカーズだ」というせりふは滑稽に響かざるをえないだろうが、それを切り落とした映像的リアリズムでは映画の決めぜりふのように聞こえてくる。ここで達成されているのは「風景」の代わりに「見られる世界」を描く言葉であり、映像でそうするように現実を記録する言葉である。そのような言葉で書かなければならなかったのは、おそらく作者が映画のような映像表現を近代文学的なものとして受け取っているせいであるが、以後村上龍の文体は映像を記録するカメラの位置や場面の切り取り方が変わっても変わらずに緊張度の高い物語を可能にする強力な文章意識として存在しはじめる。
(田中和夫 『あの戦場を越えて』)

雑誌もいろいろ。『エンタクシー』、『新潮45』、『小説トリッパー』、『kamipro』、あとバサラブックスでゲットした初期『カジノ・フォーリー』(すけべえ特集!とか)などなど。

『エンタクシー』があいかわらず最高。表紙に前田司郎、立川談春、TAJIRIって並ぶ雑誌なんてほかにないよ!
『新潮45』は板東眞砂子「『子猫殺しバッシング』の渦中で考えたこと」を。
森達也『いのちの食べかた』や鳥山敏子なんかに通ずる内容。やはり日経の連載は通しで読むないとだめらしい。
最近、私は、自分の手で殺せる範囲の獣の肉を食べる、という食事の指針を作った。そう決めないと、生きていくために他の生き物を殺して食べるという行為に対して、自分で納得できないからだ。
他の獣を殺して喰らうこと。これが、人が生き物として生きるということの実態だ。必然性からくる「殺し」は、生の中に含まれている。
(板東眞砂子 「『子猫殺しバッシング』の渦中で考えたこと」)

『kamipro』は谷川さんとバカ社長のインタビューを興味深く。
サダハルンバ谷川said,
「亀田論はねえ……あんまり儲かってないだろうなって」