2006/07/15

ミッキーマウスのプロレタリア宣言

◆6月4日(日)「ミッキーマウスのプロレタリア宣言」

大友良英が吉祥寺に立ち上げたスペース、GRID605のオープニング・イベント。
平井玄『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』をめぐる、平井玄+北里義之+大友良英の鼎談。

平井玄の言う「デジタル・フリーター」っていうのはなにもPC画面に向かうような仕事を指すだけじゃなく、たとえば宅急便の人が伝票入力機を携帯したり、キオスクにもPOSが導入されたりていう、すべてのフリーターがデジタルの端末化していくような事態をも言い表している。

もはや我々のカラダと時間は機械よりもフレキシブルに。
そこはJ-WAVEの流れる明るい職場。15分おきにプログラムが替わる。

『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』を一種の音楽批評として受けとめたという北里義之の読み、それから大友良英のミュージシャンとしての直感が鋭かった。
北里さんは『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』に「音響派批判」「声の集団的再編成」の問題を読み込む。
大友さんはサウンド・デモへの違和感を率直に語り、90年代以降急速に発達したPAシステムの問題を指摘する。

テクノ、ハウス、テクノイズ、音響派、どんな呼び方をしてもいいが、認知科学的な大脳聴覚野の変成を語る前に、これらの音響は「街路工場」の環境音楽なのである。デジタル・フリーターたちが労働し、休息し、遊び、食べて酒を飲み、そしてセックスし眠るための音楽。サウンド・デモのブースでプレイする音楽家たちは思いきり乱暴に言ってしまえばそうしたジャンルに属している。ふだんは円山町あたりのクラブの内密な空間や濃厚なフォロワーたちに囲まれて内閉していた彼らの音楽の潜勢力が、街路の空間で全面的に開放されたと言っていいだろう。
つまり、商品の単位としての三分間の曲構成や音楽のリニアーなストーリー性を否定するテクノ・ハウスの系の音響は、IT生産の労働規律と戯れながら、それを促進し、癒し、あるいは逸脱するという揺れるライン上を動いている。それが「IT工場」の生産ラインをコントロールする街頭秩序の限界で、音量規制の見えない有刺鉄線に触れ、公共暴力(機動隊)の檻を揺さぶるデモのウェイヴに煽られて、いつのまにかある種のカウンター労働の環境音楽へと向かうのである。
(平井玄 『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』)

平井玄はサウンドデモを「神的な力」(ベンヤミン)、集団身体といった概念と結びつけることで、街路工場のノルム(行動規範)をかき乱す、もう一つの「踊り狂う工場」=オルタナティヴな生産のあり方を夢想する。
しかしそこには決定的に声や言葉が欠けている、と北里義之は指摘する(ミクシィ日記)。むしろ欠いているからこそ成立する集団性とも。たしかにサウンドデモにおいてその政治的旗幟はある程度あいまいにされる。あいまいにすることで多声的な交響空間が実現されているというわけでもない。
大友良英の実感では90年代以降、あまねくライブハウスやクラブにPAシステムが浸透し、その性能も進化したことで、音楽の現場においてすさまじい重低音(否応なくカラダがふわっと浮いてしまうような)ととてつもない高音域の再生環境が「普通」のことになったという。そのような環境に置かれれば、誰しもカラダが自然と踊りだしてしまう。

奇しくも「CIRCUS」という雑誌の創刊号インタビューでモノホンの賢者・真木蔵人がこんな発言をしている。

真木 だから俺、トランスとかのイベント行かないんだよ。あいつらは、ただオールフリーダムになりたいだけなんだよ。俺はそっちはダメだね。コール・アンド・レスポンスがないと。意外と人間はその2種類に分かれてて、トランスとかやってる人間の方が主流になって日本は動いてるよ。

北里さんは声を欠いたカラダだと、大友さんは声とカラダの間にラウドスピーカーのようなPAが挟まっていると指摘する。二人とも声とカラダを結びつけるものについて繊細に思考する。思考するだけでなく、活動として実践にも移している。

しかしそれでもなお、犬でも社畜でもなくネズミだと。サウンドデモに、集団身体に、狂ったミッキーマウスらのイマジネーションやスピードや行動力に、潜在性の開放を見る平井玄の論は魅力的である。
そこではカラダそのものが声を構成する。

スキル評価の下に誰もが一人一人バラバラにされて飼いならされていた身体が、ダンスという秘匿空間に誘い込まれていく。路上で踊ること、音を出すことは、いつもは抑えつけていた体の局部、その欲望に語りかけることだ。そこをねじり、大きく開き、身をよじらせながら回転させる。この時活性化された神経回路にテクノの粒子化した微細振動が直接作用していく。
(中略)
つまり極端にいえば揺れる音のビートが、人を別のミュータントに進化させていく可能性さえうかがえる。久しぶりにぎこちなく踊りながら、「飼いならされた『自然』を破壊し新しい自然を発明する」ベンヤミンのミッキーマウス論が何度も頭をかすめていた。
(平井玄 『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』)

平井玄の「集団身体」や北里さんの指摘する「声の集団的再編成」の問題は、たとえば生田武志が言う“別の”共同性のあり方とも関わってくる。やはり最首悟が書くように、課題は古くて新しい。声を聴くこと、そして響き合わせること。

自分自身をひっくり返し、低い低い声を絞り出してほしい。そして遠くから響き合う声を探し求めてほしい。おためごかしの歌など聴きたくはない。
自分の声を代理店に売り渡すな、何よりもまず言いたいことはこのことである。そして耳を鍛えよう。この本はラウド・スピーカーというより、小さな聴音装置である。声をストックし、シャッフルして加工し、自分の声を縒り合わせる。この本はそのための装置である。
(平井玄 『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』)

なお、この日初めて聴いた大友良英と宇波拓のライブ・パフォーマンス、どちらもとてもよかった。本当に素晴らしい演奏だった。