2006/06/26

『星子が居る』 最首悟

Seikogairu

最首悟『星子が居る』を引っ張りだして読んでいる。
なんでだか思い出せないのだけど、杉田俊介と話していて最首悟の名前が出た。
杉田さんに貸そうと思って書斎のジャングルを分け入り探し出したが、貸せるのは先になりそうだ。

自然人は無際限の自由をもっている。自然人の対極は奴隷人である。しかし、奴隷人の奴隷人たるゆえんは、自分を縛るカセが自然のオキテに等しいとみなすことにあるから、その意味では奴隷人もまた無際限の自由をもつことになる。ガレー船に掲げられていたという自由である。
それにくらべると、社会人は大幅に自由を減じている。社会人は共同した生活を選んだヒトのあり様である。自由が減じた原因は共同にある。共同は規模が大きくなるにつれて、あるいは緊急事態の出現によって、協議・指導・指揮・支配が要請されるようになる。どのように理想的な共同でも、自由は目減りしているのである。
 (中略)
課題は古くて新しいというべきである。ヒトが共同へ向かったときの、その自発意志、すなわち自由をせばめながら責任観念を発生させた内発的義務とは、何なのであるか、わが身に深く錨鉛(いかり)を降ろすこと。私は、自然人ともいうべきわが子の星子という介助者に恵まれて、その作業を進めて行こうと思う。
(『星子が居る』)

立岩真也による最首悟も。

生きがいというものが静かに居すわる不幸ということを軸にしているのではないか、そして、そして静かな不幸と密接不可分な、畏れの気持ちもまた生きがいを構成していているのではないかと考える。そのような軌跡として、この本を読んでもらえたらと願っている。
(『星子が居る』)