2006/06/10

「野宿者/ネオリベ/フリーター」

部屋のジャングル化がとまらない。過去最高の密林度。資料(安達哲『サクラの唄』)が出てこなくて2時間くらいムダにしちゃった。しかも出てこねー。その時間で片づけができたと思うと、うー。
とりあえず、カーツ大佐が仕切る「片方くつ下の王国」を探すのだ!

ここの日記も停滞気味。明日、杉田さんが出るトークショーがあるので、とりあえず先月の生田武志×白石嘉治×杉田俊介トークセッション「野宿者/ネオリベ/フリーター」について書きつけておこう。

さて「野宿者/ネオリベ/フリーター」。内容はやはりこの人のまとめが素晴らしすぎる。皮肉でなく、これは一種の才能だと思う。そしてあいかわらずぼくは前回の杉田×白石トークショーと同じく、杉田さんの沈鬱さや、白石さんのお調子者スレスレともいえる軽ろやかさ、生田さんの誠実な語り口(『野宿者の授業』で培われた部分も大きいのかもしれない)などについて考えていたのだった。

トークショーは生田さんの語る野宿者問題の現状報告が中心。生田さんの口から真摯に語られた言葉はとても重く、動揺もさせられたのだけど、トークショーに対して抱いていた自分の中の期待はほとんど満たされずに終わった。

ぼくにとって『<野宿者襲撃>論』が衝撃なのは、たとえば以下のような引用箇所に象徴される情動による。

今、子どもたちに何かがあると思わざるをえなかった。
何よりも彼ら(青木悦の前著に反応してきた大学生たち――生田)は「殺られた側」の野宿生活者の状況に視線を向けるよりも、「殺った側」の少年たちの方に感情的に同調していた。言葉としては少年たちを許せないと言い、野宿生活者の状態を何とかしなければならないのでは、と語った。しかしその言葉はどこかタテマエのように聞こえた。事件の話になるとそろって口が重くなり、自分の学校での生活を語り、自己の悩みを語り、少年たちの暴力を肯定はしないものの、どこかかばっていこうとする姿勢に、私はそう感じたのであった。事件の話を何回くり返しても、問題が社会のことに広がらず、自己の問題としてくすぶりつづける、そういう感じがあった。
彼らは、この問題を客観的に具体化していくには、悩む時間がこれまでの人生の中にあまりにも少なかったように、私には思えた。
事件を、失業の問題、社会的差別の問題としてとらえようとしていた私は、その意味で強い味方にたってくれると思っていた大学生に失望した。同時に、自分の、あまりに皮相的な見方を反省させられた。事件を、いきなり社会問題としてとらえていくことは無理だと思い、そこにいくまでの途中として彼らと話し合っていこうとしたが、そういう考え方じたい、まちがっていたと思った。中学生といい、大学生といい、若者たちが自分の中に大きなイライラをかかえていること、その出し方がわからずイライラしていること、それじたいが社会的な問題であることに気づいたのだった。
(青木悦 『やっと見えてきた子どもたち』)

ここで言われているような若者たちの「イライラ」について、生田さんは考える。
「まったり革命」の限界、「出会い損ね」への出会い損ね、居場所の崩壊と過剰適応のこと……。
スティーヴィー』のところでもちょっと触れたけど、「死=存在とはなにか」という問いが切迫する「ねじれ」の時間、それが「隣接」を通じて別の共同性のあり方へと拓けていくくだりは震えて読んだ。抽象的なところなどいっさいなかった。それはぼくの臓腑に直撃した。落とせば痛みを感じる重量をもって。

隣接性―別の共同性のあり方、そんなものがありうるのだろうか。終章で生田さんは90年、西成暴動での体験について触れる。その文章の一部はここで読める(ここで知りました)。暴動のただなかにどこからともなく現れた少年・少女たち。

日雇労働者・野宿者をめぐる釜ヶ崎の現状が突然シンクロして、日本全国から若者たちを引き寄せる。若者たちは日雇い労働者や野宿者の状況についてはほぼ何も知らなかったし、また日雇い労働者・野宿者も若者たちのいる状況についてはほぼ何も知らなかった。しかし、このお互いの理解せず、理解されない関係が、そこではめったにありえない「共闘」となっていた。
この共闘関係は4~5日で消滅し、若者たちは寄せ場から消えていった。彼ら彼女らにとって、あの暴動はいまどういう形で残っているのだろうか。そして、釜ヶ崎にいるわれわれにとって、あの予期しない突然の共闘関係は何だったのだろうか。多分、「これは自分の問題だと思った」と若者に言われたとき、われわれは寄せ場・野宿者の運動の今までとはちがう可能性を与えられていた。それに気づかなければ、社会運動としては多分終わっているような何かの可能性に。
(生田武志 『<野宿者襲撃>論』)

若者と野宿者との間に起こる襲撃は、1968年革命以来の普遍的問題を凝縮する「最悪の出会い」だった。それは、別の「出会い」へ転換されなければならない。そして、われわれは若者と野宿者の出会いをもたらす「穴」=「通路」を作り出そうとしてきた。もちろん、こうした出会いはそれだけでは「二つのホームレス問題」を解決することはできない。しかし、この「二つのホームレス」の出会いは、従来の「資本・国家・家族」の原理を更新する「連帯と共闘」「別のルール」を予告する。
(同上)

今回のイベントタイトル――「野宿者/ネオリベ/フリーター」。ちょっとどうかと思うほど安易なのだが、もしそのような並記になんらかの可能性をつかもうとするのであれば、それは上記のような箇所においてだろう。「その先」についての考える契機になるかもとジュンク堂までのこのこ出かけたわけだが、残念ながらトークショーでそれは果たされなかった。生田さんはフリーター問題との連続性に可能性を示唆しながらも、基本的に野宿者の概況を説明するにとどまった。あえて自分の役割として「状況」を確実に届けることにこだわったのかもしれない。

だとしたら重要になってくるのは白石さんだったりするのだが、この人が話すと杉田さんの沈鬱さや、生田さんの実直さがことごとく政治的ジャーゴンに回収されてしまう。肝心なところで大事なものがスルスルと指の間を抜けていく。その軽やかな手つきはトークショーの余興として80点ぐらいはやれるものだったけど、そこにあるすれ違いに誰も違和感を覚えてなさそうなのが不気味だった(たとえば杉田さんのかなりぼそぼそとしたわかりづらい吃音のあとに白石さんが何かを話すと、「ホッとされる」みたいな)。
「野宿者/ネオリベ/フリーター」、けっこうじゃない。それに白石さんの言ってることもたいへん意味があるんだとは思う。だけどまず他人の声にはちゃんと耳を澄ましたほうがいい。それから自分の声についても。ぼくたちはあまりに「声」を売り渡しすぎる。

あまりにいたたまれなくなって、打ち上げの席で生田さんに、「<襲撃>する側の話がほとんど出ませんでした。でも今回のトークショーに来ているような連中、というか僕なんですけど、『<野宿者襲撃>論』で描かれた若者の側にもすごく感じるものがあったんですが……」とおもいきって言ってみた。
「共感するものがあったんですか?」「いや共感というか、あの『生きづらさ』や『イライラ』が自分たちにも通じるような…」「何年生まれですか?」「1976年です」「そうですか。ぼくはあの若者たちにはまったく共感できません」「あ、いや、そういう……」

恥ずかしかった。ぼくの言い方がすごく悪かったのもあるんだけど、生田さんがいま渦中にいる現場へのイマジネーションをすっとばして、突然「<襲撃>する側」のことを持ち出したりした自分に。屹然と「共感できない」って言われて、それは僕の言い方が悪かったのもあるんだけど、青木悦が書いてる「問題が社会のことに広がらず、自己の問題としてくすぶりつづける」若者、それがオレ、ダメだーみたいな。言い訳がましく、自分も学生時代に寿町で野宿者支援に関わっていた話をしたりしたけど、生田さんの現場のリアリティに気圧されてあわあわしてしまった。

打ち上げ後、生田さんたちは池袋で野宿者支援に関わってる人たちの案内で、池袋の夜回りに随行するというので、恥ずかしさを抱えたままついていく。

「池袋の野宿者は段ボールを敷かないんですか」
生田さんが支援者の方に聞いていたのが印象的だった。言われてみればたしかに何も敷かず、ホームの床に直接寝ている方が多い。そんな状態で何日も寝ればきっと腰を悪くするだろう。背中に堅くて冷たい床が触れる感覚。心因的な「障害」を抱えていると思われる若い野宿者もいた。

夜回りのあと、始発待ちのファミレスで生田さんを囲み、朝まで話した。自分が『<野宿者襲撃>論』に衝撃を受けた点をうまく伝えられなかった想いがどうしてもあって、児童相談所でのことも交えながら、本当に聞きたかったことについて、聞いた。どのようにしたら若者と野宿者の出会いをもたらす「穴」=「通路」を作り出せるのか。もちろんそんなの人に聞くような、「答え」が出るような質問じゃない。でも聞かずにいられなかった。
生田さんは、トークショーのときと変わらぬ真摯さで受け止めてくれた。やっぱりすぐに答えが出るような質問じゃない。

もしかしたら芸術が。それはとても自信がなくて言い出せなかったんだけど、僕はやっぱり五反田団のことなんかを考えていた。

生田さんといろいろ話す。公的就労、ベーシックインカムの問題はやはり重要だと思い知らされた。なぜ行政は公的就労に踏み切れないのか。

いまいるフリーター層が高齢化すれば、その一部が、たとえばちょっとしたケガや病気で転がり落ちるように(参照:「カフカの階段」のたとえ)野宿者となる可能性は高い。
おおざっぱな計算だけど、現在のフリーター数を内閣府の調査にあった約400万人として、そのうちたった3%が野宿者となるだけで12万人。たとえばその12万人のなかに自身を含む自分に近しい人が入ること、そんな想像はけして非現実的なものではないだろう。

現在の日雇労働者の野宿者問題はリハーサルであり、いずれ本番をフリーターがやる可能性がある。
(同上)

重い。あまりにも重い……。
いま考えとかないと、絶対、あとで、大変なことになる。