2006/06/06

文学座+青年団自主企画交流シリーズ第一弾 『地下室』

4日の日記(←未読の方は先にさらっと覗いてもらえたら)に続き、文学座+青年団自主企画交流シリーズ第一弾の『地下室』のこと。
店長とその息子たちと店員たちが働く小さな自然食品の店。外に出ることを怖がり地下室にこもっている息子には体内の毒素を排出するという「水」を作る力があった。彼らはその「水」をもとに商品を作り出していたのだが、ある日「働きたい」と店に現れた女の子と出会ったことで、息子は「力」を失い「水」は枯れてしまう。排出することができなくなり体内で濃度の高まった毒素は思わぬところで吐き出されることになる。
ここのvol.255より)
怪しい宗教がかった自然食品店が舞台。いちおうアンチ資本主義的な理念のもと運営されてるみたいなんだけど、あきらかに歪んだ正論、みたいな。登場する人物がどいつもこいつもみなちょっとずつ狂ってて、総括とかはじめちゃうという連赤チックな展開。

集団心理がおかしな方へむかっちゃうのもあるんだけど、それ以上に、ひとりひとりの狂い方が怖いというかまぬけというか。卑小さとか狡猾さとか妄想とかそういう説明つく狂い方じゃなくて、人物設計の段階からパースが歪んじゃってるような狂い方。
店長の息子っていうのがまるっきり無気力な廃人で、だけど性欲が溜まるもんだから「お母さん」と呼ばれる店員が手コキで抜いてあげるのね。劇中では手コキっていわないで「おしぼり」っていうんだけど。それで「おしぼり」の頻度について「お母さん」と男性店員が話あったりするんだけど、この二人がじつは元・夫婦だったりする。まあ、ありていにいうとこの団体、フリーセックスなんですわ。

そんなふうにパースの狂った世界を「静かな演劇リアリズム」で演じてるもんだから、これがもうおかしくって。一種コメディーのような趣もあり。ここで松井周がやってるのは、もう明らかだと思うけど、目のつりあがったニセ人間の目をさらにガンガンつりあげちゃうようなこと。潜在的怪獣パワーの極大化。それによって「静かな演劇」では文学性(奥行きや謎)によってぼかされてしまいがちな「性」の問題についても接近戦が可能になっている。

Chikaアフタートークの松井の言葉を借りれば、そこにあるのは「ゾンビ」みたいなカラダ。ニセ人間なんて言葉は甘っちょろい。まがまがしい呪いによって操られた死体たちが蠢く、地下室の白昼夢。
舞台中央に据えられた煙突みたいなカタチした水質濾過(息子のウンコをつかう)装置は、地上から地下室までを突き抜けて、ぼくたちのカラダにつきささるのだった。