2006/06/05

目のはしっこがつりあがってる

ウルトラマンでなにが怖かったって怪獣が人間に化けてるときだ。パッと見、人間なんだけど、よーく見れば目のはしっこがつりあがってる。人間もどき。怪獣オリジナルの姿よりはるかに恐ろしかった。あとニセウルトラマンとか。ブックオフで「いらっしゃいませー」と声を張りあげている人たちにも同じような怖さを感じる。肩が触れあうほどの距離にいるのにあきらかにぼくに向けてではなく、誰に向けてでもなく、「いらっしゃいませー」ってあいつら。
唐突だが舞台上で自然に話すということはどういうことだろう。多分「静かな演劇」と呼ばれるものの大半は、俳優が舞台上でのんきに日常会話を交わしている様子からそのように呼ばれるのだろう。しかし、「ナチュラルで等身大の演技」と評されるそのスタイルは果たしてその通りなのだろうか? 舞台上に上がって照明を浴びたなら、せめて姿勢を正して前を向き、滑舌よく詩の一つでも朗読するのが普通ではないだろうか? あるいは鍛えられた身体で超絶的なダンスを踊るのが舞台に上げられた者の特権であり、観客に対しての礼儀ではないだろうか?
では、何故彼らは舞台上でだらしない身体を曝し、ぼそぼそと取るに足らない会話を交わすのだろうか。(中略)彼らは何かを「する」ことよりも「されること」を望む。そして、いっそのこと舞台上においてその風景に溶け込みたい。机や椅子や動物や植物や石やその他のセットと同列で並んでいたい。紛れ込んだまましばらくそっとして欲しい。観客にはそんな姿をただ見つめて欲しい。いや見ないふりをして欲しい。このようなマゾヒスト的な欲望に支えられて「静かな演劇」は成立しているのだ。
(松井周 「ポスト『静かな演劇』の可能性」)
雑誌『ユリイカ』の小劇場特集に収められたこの論考で、松井周は「静かな演劇」の功績と限界について考察する。「静かな演劇」の核心とは「人間が『主体』でありつつ、『主体』でないことの二重性を捉えた」こと、功績は「俳優を『主体』の座から引きずり降ろ」し「日常をベース」とすることで、「『本当らしさ』と共に『文学性』を獲得」したこと。
つまり人間の心理や感情を拠り所とした「内面」を重視する「新劇的リアリズム」が、「外面」重視の「静かな演劇的リアリズム」に更新されたことで、初めて近代劇は完成したのである。
(「同上」)
松井の師(あくまで係累として)にあたる平田オリザがアフォーダンス研究者と共同で進めてるプロジェクトなんて、この究極のものといってもよいだろう。だけど、「静かな演劇的リアリズム」は、そのリアリズムゆえ、再現するのが難しいような、あるいは人前で演じるのが憚られるようなトピックを舞台に乗っけるのが苦手だ。殺人とかセックスとか。それらを「静かな演劇的リアリズム」でもって演じようとすると、とたんにウソくさくなってしまう。なので直接的な描写は回避され、隠蔽され、そのことは結果として作品に奥行きや謎を与えることとなる。観客の想像力を刺激するから。「文学性」か「文学趣味」かという問題はここでは問わない。ともかく「観客の想像力を働かせやすくすることこそ演劇である」と。「しかし……」と松井周は続ける。
しかし、本当はその舞台空間は実はどこにもつながっていない。暗い四角い空間の中で俳優たちはじたばたしてるに過ぎない。
(「同上」)
ありゃりゃ。どんなに「リアル」な外面を獲得しても、怪獣のような過剰な演技を封印しても、それはやはり「リアルっぽさ」でしかないと松井は指摘する。けっきょくのとこ、俳優たちは貧しいカラダ曝しながら、暗い四角い空間をじたばたしているにすぎないって。たしかにLOHASでナチュラルな演技もよーく目を凝らしてみたら、ああ、目のはしっこがつりあがってる!

いやだけど演劇ってそういうものなんだとは思う。むかしはみんなお面(これがまた、たいてい目がつりあがってんだ)かぶってたりしてたわけだし。でもって昔の俳優はみんな怪獣みたいで、だから観客も「かっけー!」とか「すてき!」とか「こえー」とか「うえ~ん(泣)」とかわかりやすかった。でも「静かな演劇」はというと、もはや本物の人間にようにうまく化けた(でも目のはしっこがつりあがっている)怪獣たちが、地味な、でも衝撃的なだったりする芝居を演じ、観客の意識の飛躍をいざなう。なるほど文学性。

「静かな演劇」のナチュラルな演技――冒頭の松井の言葉を借りれば「いっそのこと舞台上においてその風景に溶け込みたい」というような役者の演技は、「いま/ここ」にあるカラダをできるだけ溶解させるような志向性をもつ。たとえば怪獣なら隠しようもない「いま/ここ」にあるカラダとの乖離が、外面的なリアリズムを獲得したニセ人間においてはうまく隠蔽されている。「演じる」ことが本質的に恥ずかしいのはこの乖離があるからなのだけど、「静かな演劇」においては、演じる方も、見る方も、端的に言って、恥ずかしく、ない。けど、同時に、それゆえに、文学的な「静かな演劇」は、「いま/ここ」で起きていること(役者が四角い舞台でただじたばたしてる)、「いま/ここ」にあるカラダへの意識をそらしてしまうという弱点をもつ。

この弱点に自覚的で、でもいまさら恥ずかしいのもちょっと……、という先に可能性を切り開いている劇団がたとえばポツドールであり、チェルフィッチュだったりする、というのが松井の論旨。

たとえばポツドールは、観客に「いま/ここ」にあるカラダをひたすら見つめること、耳をすますことをなかば強引に要求する。動物化した人間たち。そこでは会話すらたんなるノイズとして扱われることもしばし。

チェルフィッチュでは俳優が「これから~という作品を演じます」とハナからぶっちゃける。たとえばブックオフで「いらっしゃいませー」と声をあげる店員がいつのまにか隣りのぼくになっていて、気づいたらもう一回繰り返されて、しかもいつのまにか店長になっている、というようなハイパーな人格処理が行われる。外面的なリアルでは追っつかない、けど確実にそのような複雑な処理をこなしている俳優の「いま/ここ」のカラダがある。そして、たしかにぼくらは日常をそのようなカラダで生きてる実感があったりする。

さらにつけ加えれば、たとえば矢内原美邦が『3年2組』で見せた3倍速演出なんてのも。そこには高速度で展開する外面的リアルに息切らせながら食らいつく俳優たちの「いま/ここ」のカラダがみごとに露呈されたいた。

論考のなかで自身については触れていないが、松井自身の作品も、「静かな演劇」の弱点を見すえた意識のもとでつくられているのはいうまでもない。というわけで、松井が『地下室』でとった手法はとりわけユニークなものだった。――つづく

明日に続きます。そっちが本題です(最近こんなんばっかですみません。これ書きながらメシの種になる原稿も書いてるので。「ヤクザも呪われたマル秘怨霊スポット」て)。