2006/05/08

プロレスの向こう側で演劇と出会う

Muscle

連休真っただ中の木曜、後楽園ホールで観戦したマッスルハウス2。文句なく素晴らしかった!

プロレスと演劇の近親性について考える。いうまでもなく、「演じる」という演劇的要素はプロレスの最も重要なエレメントである。それまでどこか「もさったい」レスラーだったアントニオ猪木が当時妻だった女優・倍賞美津子のアドバイスによって目線までコントロールできる超一流レスラーへと脱皮したのはよく知られた話だし、そのアントンとミッコが新宿伊勢丹前でタイガー・ジェット・シンに襲われた事件にたとえば寺山修司の市街劇の影を見ることも可能だ。

ただマッスルにおける演劇的要素はそういう従来のプロレスにおける「演じる」とはあきらかに一線を画す。レスラーの魅せ方、試合の展開だけでなく、興行そのものが「演劇あたま」とでもいうべき発想力で充ち満ちている。いってみれば、壮大なスケールで過剰に「演じ」られるWWEやハッスルが劇団四季なら、マッスルはシベ少やむっちりみえっぱりである。同じ演劇的なプロレスでも両者にはそれぐらいの違いがある。

マッスルの「演劇あたま」の最たるものがスローモーション演出だ。試合がクライマックスに近づくとおもむろに音楽が流れだし、選手の動きがスローモーションになる。たしかにか超一流レスラーのカウント2.9の攻防が、観客の目にはまるでスローモーションのように映ってしまうということはある。でもマッスルでは実際に選手がゆっくりと動く! この方法なら、一流レスラーでもなくても一瞬の間に複雑な攻防や様々な感情を込めることが可能となる。そう、マッスルには「泣いて馬謖を斬る」(趙雲子龍がパートナーの馬謖を刀で斬ると、馬謖が死体となって相手に覆い被さりフォールする)なんていうスローモーション向きの必殺技まである。

本場アメリカでエンターテイメントを学んだ「天才演出家」鶴見亜門(宮本亜門風の出で立ちに鶴見五郎のアフロ。中の人は某有名劇団の役者)の存在も大きい。「演出家」といってもあくまでキャラクター上のことであるが、それにしても「演出家」がレスラーに「台本」を演じさせるという設定をリングに乗っけてしまうのは画期的すぎる。いまとなってはそれを自然に受け入れちゃってる自分たちに対しても感慨深いものがあるわけだが、なによりこの鶴見亜門、たまらなく魅力的な男なのだ。彼が、あるときは新社長・サイモン鶴見として、またあるときは『週刊リング』編集長・ターザン鶴見として繰り出す従来のプロレス団体への本質を突いた批判&斬新な提言の数々は、とにかくシビレる。

曰く、プロレスの興行は長すぎる、ムダが多い。実際にサイモン鶴見は興行のスリム化(1つのリングで4試合同時に行うとか)を徹底することでわずか40分の間に3興行を行うことに成功する。曰く、プロレス雑誌のショボさはなんだと。ピントはずれなレスラーのグラビア、いつまでたっても核心に触れないマンガ。団体側も面白くない試合を面白いと書かせるぐらいならいっそマッチメークもマスコミにやらせればいいじゃないかってことで、ターザン鶴見編集長は校了スケジュールの都合にあわせ、メインイベントを第一試合にもってくることを要求する。その試合中、グレート・サスケが失神してしまうと「表紙は『サスケ死す!』で決まりですよォォ」とひとり炎上。無事サスケが意識を取り戻すと、なんと拳銃でサスケを射殺してしまう。まったくもってメチャクチャ。だけどゲラゲラ笑いながらもうなずいてしまうのである。誰もが思っているプロレスの問題点にクローズアップする、その鮮やかな手つきに。

他にも、マッスルでは、
●試合がしゃべり場。テーマは「プロレスに上下関係は必要なの?」
●敗者が全員死亡。勝敗の書かれた台本がなんとデスノートだった!
●観客の前には控え室があり、試合はモニター中継(途中からあきらかに別人)
●鶴見亜門が画期的なチケット販売システム(マルチ商法)を提唱。その名も「Amonway(アモンウェイ)」
●トーナメント戦の試合を会場ビル全体(ゲーセン、カラオケ、ボーリング場、しゃぶしゃぶ屋)を使って敢行
などといった「演劇あたま」ビンビンの演出が毎回、繰り広げられている。

マッスルの代表であるマッスル坂井は、マッスルの脚本で岸田戯曲賞を獲るのが夢だという。再演性がなく、そのぶん「聖なる一回性」が宿るのがプロレスであるということを考えれば戯曲としての評価は難しいところではあるけれど、「プロレスの脚本で岸田賞を」っていう、そういう意識のあり方に触れるだけでたまらなくワクワクしてくる。

マッスルハウス2について書こうと思ったのに前置きが長くなってしまった。とにかく最高だったマッスル・ハウス2についてはまた明日