2006/05/24

『スティーヴィー』

Stevie

16日(火)、映画『スティーヴィー』、アップリンクの公開最終日にすべり込む。
私生児として生まれ、父親の顔を知らず、母親からは虐待を受けて育ったスティーヴィー。かつてスティーヴィー少年の“ビッグブラザー”(児童虐待や不登校などの「リスク」を負った児童のお兄さん・お姉さん役。そういう制度がある)を務めたことのあるジェイムス監督が10年ぶりに彼と再会する。スティーヴィーは24歳となっていた。会わなかった10年間、彼は施設を転々とし、軽犯罪を繰り返すというかなり荒んだ生活を送っていた。ジェイムスはスティーヴィーの10年間の軌跡をドキュメンタリーとして撮ることを思いつく。が、撮影して間もなく、スティーヴィーにとって、そしてジェイムスにとっても大きな局面が訪れる。スティーヴィーが姪の少女への性的虐待の罪で逮捕されてしまうのだ。
事件を境に、ジェイムスは“ドキュメンタリー監督”である自分とかつてのスティーヴィーの“ビッグブラザー”であった自分とのあいだで葛藤しながら、自ら画面に登場することも辞さず、スティーヴィーの生活に積極的に関与していく道を選択する。そうして、スティーヴィーの人生とこじれにこじれてしまった家族の環にカメラを伴いながらわけ入っていく。

映画を観てるあいだ一時保護所で出会った連中の顔が浮かんでは消えた。とりわけスティーヴィーが冗談を飛ばすシーンだ。じつにゴキゲンで、周囲を和やかにさせるスティーヴィーの笑顔。みなそれがつかの間の安息でしかないことを知っている。でもってやっぱりスティーヴィーはまたポカをやってしまう。まるで平穏が続くことを恐れるかのように。だからスティーヴィーのはにかむような笑顔にふれるとたまらなく切ない気持ちになる。
楽しげに三輪カーを走らせるスティーヴィー、ダチと釣りに出かけて大雨に降られてしまうスティーヴィー。そんなシーンに監督は青春映画風のロックミュージックを流してみせる。そう、ジェイムス監督もたまらない気持ちでいっぱいだったのだろう。

スティーヴィーには帰る「家」がない、いわば"ホーム"レスである。生まれてこのかた父親に会ったことはなく(叔母はそのことで母親を非難する)、母親からは「生まれてくるべきではなかった」というプレッシャーを与え続けられた。無条件に“ホッ”とできる場所、自らの“生"が肯定される場所を持てなかった。それが「つらいこと」だと認識することすらできない幼少期のことである。
その後、スティーヴィーの“生”を丸ごと受け止めてくる大人たちもいた。ある養護施設の園長夫婦。だが園長が牧師になるため施設は閉鎖され、スティーヴィーはまた「家」を失ってしまう。おまけに新たな養護施設では年上の児童たちから性的虐待まで受けてしまう。

怒りと悲しみでパンパンにふくらんだスティーヴィー。たとえば、「スネーク」とあだ名がつくほどのヘビ獲り名人であるスティーヴィーをより深く自然とコンタクトできるようにいざなえるオッサンが、あるいはボン・ジョヴィなどハードロックを愛するスティーヴィーにギターを教えることができるアンチャンがいたらと夢想する。そんなささいなツールでも自分の怒りや悲しみにアクセスすることができるのだと、けっして暴力や犯罪だけじゃないんだと気づかせてやることができる大人がいたら……。
アメリカの児童虐待の背景には貧困層の問題があるという。だがそこには所得だけでははかれない「貧しさ」が横たわっている。ここ日本でも。

ジェイムス監督はスティーヴィーの軌跡を映画にすることについて最後まで悩み続ける。
映画の終わり近く、スティーヴィーの恋人であり知的ハンディキャップのあるトーニャはジェイムスに、「あなたがこの映画をつくったのは良いことだとおもう」と言う。彼女の言葉はジェイムスやスタッフたちに一種の安堵や免罪をもたらしはするが、それでも葛藤や疑念を完全に晴らすことはできないだろう。
スティーヴィーはいま刑務所の中で服役中である。映画パンフレットに掲載されたディスカッションの中でジェイムスはこう言っている。
彼の状況が果たして改善するかどうか、それは私にも分かりません。しかし私は、諦めてはいけないと思うのです。私の考えが素朴すぎるのかもしれませんが、彼のためにそこにいる、見届けるということが大事なんだと思っています。
そうして映画と現実は地続きになっていく。
映画がスティーヴィーの将来にどのような影響を与えるかそれは分からない。でもこれからもあなたのためにここにいる。あなたを見届ける。ジェイムスはどこまでもスティーヴィーの「隣人」であろうとする。

〈野宿者襲撃〉論』のなかで生田武志は、キルケゴールが「瞬間」「現在」と呼ぶものを空間に置きかえることで「隣接性」という概念を導きだす。
「それはイエス自身によって『キリスト教の中心概念として』2000年前にすでに語られていたのではないだろうか」「路上で、半裸で、血を流して倒れている、敵対する共同体人への行動、つまり『善きサマリア人の譬え』で言う『隣人愛』として」と書く。
そして「隣接性」とは従来の共同体に「運命をはらんだ葛藤」をもたらすものであるとも。つまりここで言う「隣人愛」とは従来の共同体とはちがったかたちの「社会」を浮かび上がらせる契機になりうるのではないか、と。
このへんは『野宿者襲撃論』について書くときに改めて言及しようと思うが(なんどもゆってるけどホントに書くんだから!)、ひとまずジェイムスの言葉にふれるとき、思い起こされるのはこんな一節だ――。
ここでは、「隣人」は「私の隣人は誰か」という問いによっては答えられない。むしろ、「私」が「誰がその人の隣人になったか」という問いへの「答え」としてその都度見いだされるのである。
(生田武志 『〈野宿者襲撃〉論』)
難しく考える必要はない。ジェイムスがスティーヴィーに伝えている。
「あなたのためにここにいる」