2006/03/13

説明を越えた状況

改めて書こうなんて思ってるうちにどんどん時間がたってしまう。ザッカンだけでも。

futariiru 月曜、五反田団「ふたりいる景色」。毎度のことながら素晴らしかった。この劇評でも書いたとおり前田司郎もとい五反田団ってずっとひとつの問いの周りをぐるぐる回っていて、その問いがあるときは「おしっこ」だったり、またあるときは「寝させない」だったりっていうギミックの形をとることで観客の劇的想像力をかきたててきたわけなんだけど、前回「キャベツの類」から、その問いから逃れられない前田さん自身の無意識のようなものも劇作に動員されるようになって、とんでもないところに迷い込んでしまってる。前田さんの自問自答に観客がつきあわされているようで形式だけみればかなりいびつだ。しかし、観ていることで立ち上がってくるイメージの求心力はこれまで以上。でもってあとをひく。五反田団はあとから効く。

小説を書いたことの影響もモロに感じた。アフタートークでの前田さんの言を借りれば「窃視症から露出狂へ。もしくはその二つは元来同じものなんじゃないか」。この方向性の先になにが見えてくるのか、楽しみでしょうがない。

yumenosiro 木曜、ポツドール「夢の城」。記録的な豪雨のなか「ANIMAL」を観にいったことを思えばちょっとやそっとじゃ驚きません。というかむしろ、おもしろかった。慣れた? いや違うと思う。「ANIMAL」ではたんなる群れとしてしか描けてなかった(それがねらいかもしれないが)のが、今回はひとりひとりを磁力ある関係性の中で描いていたから。ワイズマンや平田オリザのような精密に組み立てられたリアルの感触。内容のエロキワドさやジャンクさっていうのはどうなんだろう。ひとつの意匠にすぎないってのはそうなんだけど、いかんせん自分の場合、あいかわらず仕事の6割5分ぐらいがセックス&バイオレンスがらみなのでそういうものから比較的距離をとって生活しているひとたちがどんな風にみるのかが想像できなくって。まあそんなにエロくはねーか。

ワイズマンといえば先月号の『文學界』にインタビューが載ってた(インタビュアー・冨田三紀子)。映画についてはだいたい以前ワイズマンについて触れたときにも引用したような内容でそれほど目新しくないのだけど、近年ワイズマンが演劇の演出を手がけてるって話は興味深かった。映画では「さまざまな共同体を巡る複雑な人間関係を描き、権力の構造を浮かび上がらせる」ワイズマンなんだけど、これまでつくった演劇はどれも「一人芝居」か「二人芝居」(二人といっても、ほとんどが片方の独白)だという。昨年演出したのはベケットの「しあわせな日々」。
 ベケットの世界観は、わたしが自分の映画で描こうとしていることと似ていると思います。彼の思想のすべてを理解しているわけではありませんが、彼の世界観とわたしが映画で表現しようとしていることとの間に共通点を感じるのです。

――「福祉」もベケット的でしたね。

 ラストの男性の独白はもちろん、文字通りベケットです。また同時に、人々がおかれている状況もベケット的です。あれは説明を越えた状況ですよね。ベケットに関してわたしが最も尊敬しているのは、説明することに対する「否」の姿勢です。そして、彼が常に説明を排除しているという事実自体が説明を形作っているのです。中でもわたしが最も好きで、最も重要なもののひとつだと思うのは、何事も説明などできないのだ、という考え方です。わたしの知る限り、福祉サービスについて、充分だと太鼓判を押せるようなイデオロギー的説明などもちろんありません。

ポイントは「説明することに対する「否」の姿勢」そのものが「説明を形作っている」ってとこだろう。

ではでは、アニマル・コレクティヴのライブに行くのでまた! 久々に胸が踊ります。