2006/03/01

「フリーターとネオリベ現代生活―われわれの生の無条件の肯定のために」

いまだ2月のしわ寄せに足をとられてる。なんで2月だけ28日までしかないんだろう? 31日まである月を減らせばすむことじゃね?

10日もまえの話だけど、杉田俊介さんと白石嘉治さん(矢部さんは家庭の事情により急遽欠席)のトークセッション@池袋ジュンク堂行ってきた。セッション自体の流れはこんな感じ。はじめに白石さんがバッテン至上主義(両腕で×をつくって「マーケット」)ことネオリベがいかに怖いかって話を延々するんだけど、そのあいだの杉田さんの沈黙が、すごかった。それはもちろん話す順番として黙ってるだけなんだけど、ずっとうつむいてて、もうジュンク堂の中でも杉田さんの周りだけ重力が違うんじゃないかっていう沈みこみよう。動じない身体のみが放つ迫力があった。

上のリンク先にもあるように、セッション後半、杉田さんのリバタニアニズムに対する注意の喚起がちょっとしたひっかかりになった。もちろん重度障害を持った人が尊厳死を表明する際の自己決定の複雑さ・個人の自由意志だけではわりきれない困難さを現場の切実さでもって語る杉田さんだ。そこにはリバタニアンのいう「自由」がノー天気な、そういって悪ければ“空想的な”代物でしかないという認識が譲れないものとしてあるはず。ただ『フリーターにとって「自由」とは何か』の中における他者への厳格な目線に、うっすらとリバタニアン的な「正義」の感覚を感じてしまっていたのも事実。その違和感については本人に直接話したこともあって、そのときの杉田さんの答えはたしか、自らの強烈すぎる自己嫌悪の裏返しでそういった感覚を呼び寄せてしまうというものだったと記憶している。

自己批判からくる研ぎ澄まされたストイシズムは杉田さんの文章における魅力の一つでもあるのだが、ここはやはり分水嶺だと思う。おそらく杉田さんも自覚しているであろうある種のだらしなさやぐだぐだとした感覚、それらを克服すべきものやお上によるレッテル張りとしてだけ捉えてしまってよいのかどうか。

各々の現場に関わってくることだ。とくに労働の現場に。たとえばオイラが数年間ではあるが「障害」者のグループホームで介助していた経験でも、そういったどこかぐだぐだとしたあいまいな感覚抜きにヘルパーを続けていくのは精神的に厳しいように感じられた。逆にいうと「介護保険法」や「障害者自立支援法」などはそういったあいまいな領域を狙いすましたように攻撃してくるわけで。

「難しく書きすぎてフリーターすべてに読みやすい本じゃなかった」杉田さんは言う。それは半分はそうだが半分はちがう。「当事者」としつつ自らの現場に軸足を置ききれてない、あるいはそのための言葉を手にできてなかったんじゃないか。平井玄の『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』こそ、フリーター問題について杉田さんが書くべき本ではなかったか。

もっと言えばトークセッションに集まった人たちもそれぞれの現場があったはずなんだけど、むしろそこだけが棚上げになってるように感じられるのはどうしてなんだろう。それはけして今回だけのことじゃなく、ああいう場はいつもそうだ。でも打ち上げとかになると労働現場での軋轢話なんかがけっこう出てくる。これはもう仕方のないことではあるけれど(じゃ書くなよ)。

あたり前なんだけど、こういうのはぜんぶ自分にもはね返ってくること。それに杉田さんは『フリーターにとって~』を乗り越えるべく次の太刀を振るってる。ブログを見てもあきらかだろう。いいかげん自分もエロ原稿やヤクザ記事をルーティンにこなすことに慣れてる場合じゃないって。自戒をこめて!