2006/12/29

reprise

私は、もう一度戻ることを思った。拳銃を発見した時の状態に、私と拳銃がある意味で、よくわからないが、対等だった状態に、戻ることを思った。
しかし、やはり難しかった。
拳銃はもう私の一部であり、大袈裟に言えば、私の理性の中に入り込んでいた。拳銃というものが持っている性質、撃つという性質は、常に私をそういう方向へ動かしたがった。
(中村文則 『銃』)

2006/11/01

さようなら僕の小さな…

ここでのブログ更新は終わりにしようと思います。
これまでどうもありがとうございました。

それにしても今夜みた
五反田団『さようなら僕の小さな名声』
素晴らしい、あまりにも素晴らしい作品でした。

ではまたどこかで。

2006/10/26

亡霊生産装置

『亡霊生産装置 ghost production device』
(2003年/51min)

YouTubeページ [Tags: ドキュメンタリー、フリーター、青森、弘前]

亡霊生産装置 (1 of 8)


亡霊生産装置 (2 of 8)


亡霊生産装置 (3 of 8)


亡霊生産装置 (4 of 8)


亡霊生産装置 (5 of 8)


亡霊生産装置 (6 of 8)


亡霊生産装置 (7 of 8)


亡霊生産装置 (8 of 8)

2006/10/11

居残り談志

仕事を早めに切りあげ、立川談志「家元の独断場・特別編『一期一会』」へ。内容はよくわかってなかったのだが、行ってみれば独演会形式で二席。『やかん』と『居残り佐平次』。

ひとり会でいつも配られる家元からのメッセージが書かれたパンフが今回も配られたので、客席でさっと目を通す。

「我立川流は『伝統を現代に』語る弟子も居るし、『伝統芸』もキチンとしている。ナニ、別にどうということでもなくなってきた。/いい落語家が出りゃあいいのだ。/とりあえず家元も今年一杯か…。」

今年一杯か、みたいな自虐ネタはいつものことではあるけれど、お弟子さんのくだりがちょっと気になった。最近出た談笑師匠の『超落語!』に寄せた前書きでも、俺にはよくわからんが、こういう落語へのアプローチもありなんじゃないか、みたいなことを書いていたから。

腹のうちはどうあれ、基本的に、「弟子もよくなってきたが、まだまだ俺のほうが上」とか、「あいつらとは見えてるものが違う」というスタンスの人だった。
それがここにきて(志の輔・志らく・談春の三人会や志の輔との二人会あたりから?)、弟子を認めるというか、立川流に関してはとりあえず、それぞれの料簡で立つ落語家が揃ったと。それに関しては自分にはもういいも悪いもない。あとはお客なり時代なりが判断すればよい。みたいな発言が目立つようになってきた。

一席目の「やかん」をサゲたあと、高座に残ったまま、次は「『へっつい』演ろうと思ってたンだけど、『居残り』演ろうか。いいかな?」と客席に尋ねる談志師匠。おそらく完全にその場の思いつき。
でも思うところがあったのかもしれない。

「はじめて聴く方は、どうぞ昔の談志はもっと上手かったんだろうなと思いながら聴いてください――」
まくらも短く、チェルフィッチュ化もなしの『居残り佐平次』。
本人も納得の内容だった3年前の平塚での『居残り』をなんとか再現するべく、
丁寧に丁寧に演じられる『居残り佐平次』。

そして再現とはいかなかったが、終わってみれば「なんとか身体が30分もった。まあそこそこのものにはなったんじゃないでしょうか」との弁。
いつもほど愚痴もなく、その顔も心なしか清々しい。

そのまま高座に「居残り」続けたところでサプライズが!
なんと舞台上に立川流の真打ちが勢揃い。
しかも談志師匠に花束贈呈ときた。
立川談志、70歳、古希のお祝いとのこと。
最後は立川流の今後の発展を願い、里う馬師匠の音頭による三本締めでお開き。

なんというか談志師匠、ようやくケリがついたのかな。

これからの立川談志はどこへ向かうのか、それも楽しみだけど、
とにかくこの一年、すごいものを見せてもらって、本当に、ありがとうございました。

2006/10/10

愛染恭子ショー作家

最近はあまり出歩かず、読書。

三連休は中村文則『遮光』、本谷有希子『生きてるだけで、愛』、森見登美彦『太陽の塔』、田中和生『あの戦場を越えて』など。

デビュー作『銃』のモチーフをさらに深化させた『遮光』。やっぱりこの人すごく好き。茫洋とした無意識力。
逆に『生きてるだけで、愛』は自意識過剰小説なんだけど、これはこれでおもしろく、一気読み。すごいキレ。
太陽の塔』は本谷有希子的物語を男の側から。うう、切ない。
あの戦場を越えて』は中原昌也と松尾スズキの作品分析から始まる現代文学論。固有名詞の扱いや文章意識(「私」の濃度みたいなもの?)について。
以下の箇所はまんまここで書いたような「静かな演劇リアリズム」の可能性と限界としても読める。
たとえば村上龍、村上春樹、高橋源一郎といった1980年代以降の日本文学を牽引していく作家たちは、いずれも1980年前後に「風景」や「内面」を描く「近代文学」に対する切断の身振りを見せることで登場してきた。そしてそのような書き方が一般化すれば、それ自体が「近代文学」的なものになっていくのは当然である。そうした意味で、おそらく「私」の範型をかたちづくるという点で影響が大きかったのは村上春樹であるが、文体としてもっとも影響力があったのは村上龍である。なぜなら村上龍は、その文体を個人の体臭を感じさせない映像的リアリズムとして、一つの文章意識を生み出すほどにまで鍛え上げていったからである。
(中略)
そこに投影される「内面」というある種の自意識を内包する「風景」描写的なリアリズムでは、「俺達はコインロッカーズだ」というせりふは滑稽に響かざるをえないだろうが、それを切り落とした映像的リアリズムでは映画の決めぜりふのように聞こえてくる。ここで達成されているのは「風景」の代わりに「見られる世界」を描く言葉であり、映像でそうするように現実を記録する言葉である。そのような言葉で書かなければならなかったのは、おそらく作者が映画のような映像表現を近代文学的なものとして受け取っているせいであるが、以後村上龍の文体は映像を記録するカメラの位置や場面の切り取り方が変わっても変わらずに緊張度の高い物語を可能にする強力な文章意識として存在しはじめる。
(田中和夫 『あの戦場を越えて』)

雑誌もいろいろ。『エンタクシー』、『新潮45』、『小説トリッパー』、『kamipro』、あとバサラブックスでゲットした初期『カジノ・フォーリー』(すけべえ特集!とか)などなど。

『エンタクシー』があいかわらず最高。表紙に前田司郎、立川談春、TAJIRIって並ぶ雑誌なんてほかにないよ!
『新潮45』は板東眞砂子「『子猫殺しバッシング』の渦中で考えたこと」を。
森達也『いのちの食べかた』や鳥山敏子なんかに通ずる内容。やはり日経の連載は通しで読むないとだめらしい。
最近、私は、自分の手で殺せる範囲の獣の肉を食べる、という食事の指針を作った。そう決めないと、生きていくために他の生き物を殺して食べるという行為に対して、自分で納得できないからだ。
他の獣を殺して喰らうこと。これが、人が生き物として生きるということの実態だ。必然性からくる「殺し」は、生の中に含まれている。
(板東眞砂子 「『子猫殺しバッシング』の渦中で考えたこと」)

『kamipro』は谷川さんとバカ社長のインタビューを興味深く。
サダハルンバ谷川said,
「亀田論はねえ……あんまり儲かってないだろうなって」

2006/10/09

この夏イチのビッグウェイブ

この一ヶ月でとくに心を震わされたもの
マッスル「マッスル11」追加公演
むっちりみえっぱり「表へどうぞ」

2006/09/07

「ゴドー」が来てしまった男

◆「マガジン・ワンダーランド」というメルマガに書いた超歌劇団「ドガガガーンゴワーシュンボコーンプシューバゴーン」のレビューがここで読めます。ユルいのに熱い!超歌劇団の魅力を伝えようとした結果、かなり浮いてます。が、問題なし!
メルマガの登録(無料)もできるみたいなので、よかったらどうぞ。→

◆あー、あー、て感じで仕事の奔流が。しかも、イチから調べものしなきゃならない原稿が多すぎる。どれも気にはなってた分野なので読書自体は楽しいのだけど。

Juu◆中村文則、03年のデビュー作『』がガツンときた。
主人公のふわふわとした妙な無気力さが、「引きこもり」や「ニート」といった社会動向とまったく結びつけられることなく描かれているのがいい。

「私」が、たまたま拾った銃。そのたしかな質感がもたらす生活の強度。「私」は銃を撃つことができるし、撃たないこともできる。言うまでもなく銃は「自由」であり、「可能性」でもある。

しかし、解説の中島一夫の言葉を借りれば、「『私』は、この銃のもつ『発射=決定』の論理に抵抗できない」。あれほど可能性に満ちていた未来も、結局のところ酷薄な現実の前に屈するしかない。

「ゴドー」が来てしまった男。
たまたま読書会用に『ゴドーを待ちながら』を読んでいたところだったので、そんなことを思ったりした。

2006/08/28

最近のニキータ⑤

仕事柄、フジのPRIDE放送撤退や亀田ジャッジ問題の裏事情について聞かれることがよくあるんですが、週刊誌に書かれている以上のことはほとんど知りません。ただ信頼できる筋の情報によるとこのムックの冒頭の座談会はかなりガチとのことなので、気になってる方はチェックしてみるとよいと思います。実際、かなりやばい。かつて某芸能事務所に雪隠詰めにされたことのあるオイラでも、さすがにこんなことよう書かんわと思いました。ブルブル。

というわけでリングに駆けるニキータ。

PRIDE無差別級グランプリ2006 2ndROUND@さいたまスーパーアリーナ 07/01
プロ格ファンが逆境でどんだけ「がんばる」か身をもって知ってるだけに、多少の期待感すらあったんだけど、ほとんど必然性の感じられない前半4試合でショボーン。
フジテレビとの決裂により、煽りVのクオリティもショボショボーン。
ただこれまで(佐藤D演出)があまりにもスペシャルすぎたのと、製作時間の少なさを思うと、今回だけで断罪してしまうのはちょっと可哀想でもあり(こないだの武士道はどうだったんだろう?)。地上派でなくCSの専門チャンネルである以上、切り口がストレートになること自体は悪くないと思うし。

GPの4試合はどのカードも順当ながら、好勝負。
金原が口酸っぱく言ってたミルコのローキックの重さに改めて震撼。
起きあがれない吉田を確認し、サクっと帰った。
PRIDEはPRIDE、それが確認できただけでよかった。

WRESTLE EXPO 2006@東京臨海副都心イベントスペース青海A地区特設 08/20
プロレスが面白いことになっている。
ジャンルとしてのカミングアウトを通過した結果、かえってエンターテイメントとしての底力、間口の広さ、奥深さが光るようになった。一部のメジャー団体を除き。

一番大きいのは「強さ」に対するシビアな目線が減った結果、他エンタメ業界からの参入がしやすくなったこと。かつて、あのビートたけしですら本気の「帰れコール」を浴びせかけられたことがあったけど、そのことを思えば、レイザーラモンHGやインリンがメインイベントで堂々プロレスするなんて隔世の感があるよ。
グラビアアイドルがプロモーション活動の一環としてプロレスに参戦なんてケースも増えている。なかには小中学生女子が中心になって闘う萌え系団体まである。

メジャーとインディーの敷居もずいぶん低くなった(アングルとしていまだ温存されてはいるが)。人気・実力のある選手が出身や所属に縛られることなく他団体のマットにも上がる。学生プロレス出身もいまや恥ずかしいことでない。
ついこないだまで「またぐなよ」なんてやってたのにな……。1ヶ月ぐらい前の『ファイト』で長州と大仁田が対談してたけど、国会議員云々抜きに、レスラーとして大仁田の方が格上っぽく見えてしまった。

そういった風通しのよさが、新鮮なムーブメントを生みやすくしている。
殺害塩化ビニールのバカ社長ことクレイジーSKBと小学生女子が同じリングに立つ666、小劇場界との強いパイプのもと演劇あたまを駆使するマッスル
千葉に本拠地を置くKAIENTAI-DOJOや、静岡プロレス、大阪プロレスのように地方色を打ち出している団体が増えているのも面白い。

それにしても、いまさらながら冬木や杉作さんのヴィジョンは正しかったんだなと。先見の明だよ。ただ、早すぎたんだよなー。

ある者は失踪し、ある者は首を吊り、ある者はガンに倒れ、ある者は半身不随の身体に……。自らも死を考え、湘南の砂浜をさまよい歩いたという杉作さん。
幾多の男達の屍を超え、いま杉作さんが男の墓場プロとして活動する意味について、みな少しは思いを巡らせてみたほうがいい(って誰に言ってるんだろうか)。

まあともかく、そんな現在進行形のプロレスをショウケース的に見ることができたレッスルエキスポ2006
都内では久方ぶりの有刺鉄線電流爆破(試合までの流れも最高!)、モンスターボックス(TBSのアレね)に挑戦したマッスルをはじめ、かなり充実の内容だったんだけど、インパクトという点ではこれに尽きる!
全身に巻いた爆竹を炸裂させながら(写真よりも遙かに迫力あり)、メカマミーに襲いかかるバカ社長!!
まず、知らない方のためにメカマミーとはなにかってとこから説明すべきなんだろうけど、この写真が語る以上にオレごときがなにかを言える自信がないので、やめておきます。

2006/08/24

最近のニキータ④ ウタモノの告知とか、コドモ身体化するあふりらんぽとか

昨日は「ウタモノの夕べ」の告知用フライヤーが完成したというので、受け取りがてらメンバーで新宿飲み。フライヤーばら捲き作戦のほか、鍾乳洞の魅力、メガネ沢さんの改名問題などが話し合われました。
とくに最後のやつが重要。メガネ沢さんの文化系女子力をうまく数字(集客)に結びつけるにあたって「メガネ沢かけ郎」という名前がネックになっている、ということは以前からたびたび指摘されていたからです。

というわけで遠回しに改名を迫るメンバー一同でしたが、彼女は予想以上に「メガネ沢かけ郎」という名に執着があるらしく(元ネタの「クロマティ高校」自体にはたいした思い入れはない模様)、頑として首をふりません。すったもんだの末、最終的な妥協案として落ち着いたのは、その名もずばり「メガネ沢かけ子」というものでした。

そんな彼女も、帰るころには「『かけ子』もなかなか悪くないじゃん」と思えてきたらしく、「ひと手間かけ子」「明日への橋をかけ子」「ストレッチにじゅうぶん時間をかけ子」などいろんなパターンを列挙しながらご満悦でした。我々はとにもかくにも「●●かけ子」「●●●●かけ子」、そういったドリームシャワー的な下ネタだけは絶対に言うまいと細心の注意を払ったのでした。

で、告知です。
Utamono05_19月3日(日)、三軒茶屋マナマナというところで昼から夜(15時~22時)までDJイベントをやりますのでよかったら遊びにきてください。なんつうか、これまでの様子からいって、ふらっと立ち寄って(ひとりでも複数でも)、飲んだり、お茶したり、軽くメシ食ったり(なかなか美味い)、おしゃべりしたり、みたいなイベントだと思います。あれ、音楽は?みたいな感じです。
ああ!でも今回はあのmapの福田さんがゲストでDJをしてくれます! 先輩!!(オラの大学の)
mixiのコミュもあります→

最近の音楽的なニキータも。

さかなライブ@吉祥寺MANDA-LA2 06/12
lete以外で見るさかなは久しぶり。そのleteで録音された大名盤『Sunday Clothes』が発売されてから初めて見るライブでもあった。期待度じゅうぶん。でもって満足度じゅうぶんのライブ。やっぱり。
アルバムが出たばかりだというのに、すでにスタイルが変化していた。『Sunday Clothes』はクラシックギターを多用したアコースティック色の強いアルバムだったけど、この日はポコペンさんがガットギター、西脇さんはエレクトリックギターという編成。各曲ともまたもやアレンジをいじっていて、もうディランかと。
後半、近頃はエゴ・ラッピンのサポートにも入ってる、エマーソン北村(key)と菅沼雄太(dr)のコンビが加わりバンドバージョン。いつもの仲間に個別に声をかけたら、偶然2人ともエゴ・ラッピンじゃん、みたいなことだったらしい。聴いてるそばからもったいなくなるような、贅沢な時間。鳥肌音楽。

豊田道倫/あふりらんぽ NHK-FMライブビート公開録音@NHK渋谷505スタジオ 07/14
豊田さん、ドラムスに久下惠生、キーボードにDr.KyOn。この3人での編成は初めてらしいんだけど、すっごくしっくりザラついてた。胸に迫った。人生のサウンドトラックはこんな音だなー。

あふりらんぽ、久々に見たらかわいいコロボックルみたいになっててビビった。もっと怖えー大人のオンナだと思ってたんだけど。海外回ったりしているうちにあんな風になっちゃったんだろうか。
ダンスでいうとこの「コドモ身体」っていうの? そういう海外(とくにNY)でウケる日本人女性ミュージシャンのタイプってあると思う。古くは少年ナイフ、いまだとパフィみたいな。だから、松田聖子や宇多田ヒカルがいくらやってもダメだったのってよくわかるよ。「大人の」女性として受け入れられるのがいかに難しいか。逆に言うと女性ミュージシャンは「子ども身体」みたいなとこ狙っていくのが、海外でひと山当てる近道か。

風呂ロックFINAL 弁天湯VS遠藤賢司@弁天湯 07/20
ファイナルっていいながらもその後もだらだらと続いてるルーズさがじつにロッキンな風呂ロック。もちろん全面支持であります。
とはいえ、この日のエンケンライブには「これで最期」の気概が溢れていた。熱かった。もとい暑かった。ビールが美味かった。脱衣所にクドカンがちょこんと座ってたので、「『我が輩』、超おもしろかったです!」と念じた。心の中で強く。

寿町フリーコンサート@寿町職安前広場 08/12
3年ぶり。以前のような活気はない。でも、おっちゃん達がゆるやかに楽しめるなら結果オーライ。と言いたいところだが、oiパンクみたいな盛り上がり方をする、ヨソ者感覚のない若者たちが怖かった。マーガレットズロースに「オイ!オイ!オイ!オイ!」はねーだろう。

2006/08/21

最近のニキータ③ チェルフィッチュ化する談志

しばらくネットから遠ざかっていました。
メールとかミクシィの業務連絡とか滞っていてすみません。
そろそろちゃんとします。

ずうっと部屋の片づけをしてました。行き着くところまできてしまった部屋のジャングル化に、生命の危機すら覚えたので。

新しい本棚を運んできた運送屋さんの前でCDラックを倒し2000枚近いCDをぶちまけたり(そうしないと本棚を置くスペースがなかった)、仕事の資料でもらった大量のエロDVDをブックオフに持ちこんだらけっこうな臨時収入になったり、マンガ喫茶で『キン肉マンII世』読んで現実逃避したり、でも逆にマリしゃんがシングルマザーに、という劇画オバQチックな展開にシビアな現実を思いしらされたり(あとキャプ翼で日向君がセリエCにしか入団できなかったりとか)、いろいろありました。いまさらですが亀田戦に関してはグレー判定云々以前に(というか、なんでみんなあんな怒るのかよくわからん)、じつはこんなにも壮絶な戦いが繰り広げられていたという事実に驚きを隠せません。あと七尾旅人さんの日記もよかった。やっぱりこうでなきゃ。

手間と時間をかけただけあって、部屋は見違えるほど片づきました。

そして、もはや「最近」でもなってしまったここ数ヶ月のニキータ。
落語も見ました。

Yumehitoyo「談志・志の輔 夢一夜」@新橋演舞場 05/30
この日の公演をフューチャーした情熱大陸(W杯クロアチア戦の裏で放送)では、「ライバルは過去の自分」みたいに締めてたけど、「いまの」立川談志ほど面白いものはないと思っている自分にとってはややもの足りなかった。

たしかに自分の高座の出来に納得のいかない談志師匠が、楽屋で志の輔師匠の高座(非常にウケている)を聞きながら、「なんなら志の輔に三席やらせばいいじゃねえか」とつぶやく姿は印象的だった。それに志の輔の「徂徠豆腐」が、キャラクター造形・心理描写の細やかさがサゲの美しさ、どれをとってもこれぞ「志の輔落語(古典)」としか呼びようがないほどの素晴らしさだったのも事実。

しかし、である。
談志の高座はさらに衝撃的だったのだ。

この日の談志師匠は完全にチェルフィッチュ化。
まず「子別れ」のあらすじをざっと説明してしまう。「これから『子別れ』という噺をやるんだが、さあどうやろうか」(!)。

噺の中断や脱線なんて余裕しゃくしゃく。平気で時間を巻き戻す。バージョンを替えてやり直す。志ん生っぽいならこう、圓生ならこう。
「あれ、まずいな、フツーの『子別れ』になっちゃてるよ」って!

そして極めつきは談志コール。なんと高座の上から自分で自分を応援!
「ガンバレ、ガンバレ、談志!!」
手拍子で応える客席!!

……すごすぎる。
志の輔の高座はその巧みな一人話芸で、客席を江戸情緒あふれるファンタジー世界に包み込む。名人芸とはそういうものだろう。
けれど談志は、談志の高座は、じつは落語とは着物着た一人の人間が座布団の上で何かワアワア言っているだけ、ということを暴露してしまっている。

談志は、そんな危ういリアリティの水準に立ちながら、人間の業を描きだす。
いや、人間の業に挑もうとするあまり、そのようなきわきわの領域、表現のヘリへと向かってしまう、そのこと自体、表現者の業なのかもしれない。

やっていることはチェルフィッチュやポツドールと変わらない。
そんな身体表現のエッジに、70歳の立川談志がいる。

思えば談志が内容、リズム、メロディを崩してまで、芝浜のおかみさんのセリフを変えたのは、チェルフィッチュよりもはるか以前のこと。
談志の「イリュージョン」は、岡田利規の言う、言葉やしぐさの親たる「イメージ」とゆるやかに響きあっている。

「小沢昭一の吉原へ御案内」@ヤマハホール 07/16
サマーソニックと並ぶ都市型夏フェスでおなじみの大銀座落語祭
六人の会メンバーはもちろんのこと、横山ノックから2年連続の快楽亭ブラックまで、今年も幅広い豪華ラインナップでありました。
そんななかでオイラのチョイスはこれ。
小沢翁の吉原談義を拝聴した上で、扇遊と圓菊の廓噺を堪能するというなかなか乙なプログラム……だったのだけど徹夜仕事の疲れから、客席で船を漕いでしまった。残念&申し訳なし。もしこれが家元の高座だったら、つまみ出されてたかも。

◆快楽亭ブラック毒演会@浅草大勝館 07/29
最近のブラック師匠については、ぜひともブログを読んでほしいんだけど、とりあえず、左膝を悪くし(骨粗鬆症?)、しばらく松葉杖生活だった、と。もちろん正座は無理なので、イスに座って話すというなかなかレアな高座が続いています。
といってもそろそろ次の毒演会(09/09)くらいから正座できるのでは、とのこと。

ネタは、「たがや」(この日は隅田川花火大会だった)、「目黒の秋刀魚」、「人性劇場」、「聖水番屋」。
ここ最近のブラック師匠、左足のハンディにも関わらず、噺のほうはすこぶる絶好調である。唐沢俊一さんに言わせると、「こんなに焼け太りする男もいない」。まさに芸人の鑑。
10/21には「心筋梗塞&大動脈血瑠一周年の会」なんてのも企画してるらしいし(唐沢さんによる講談「快楽亭ブラック倒レルノ記」も!)、他にもいろいろ企んでいるらしい。まだまだ楽しみは続きます。

2006/07/27

最近のニキータ②

野外だけでなく、劇場でみる演劇も見ました。

五反田団 『びんぼう君2006@桜美林大学PRUNUS HALL 06/25
桜美林大学の学生が企画した芸術祭GALA Obirinの招待公演。上演されたのは、五反田団にはめずらしく、何度も再演を重ねているびんぼう君の06年バージョン。
今回は父親役が黒田さん、息子役が中川さん、川森さん役が端田さんという鉄壁の布陣。親子にプラス1人の川森さんが担う社会性といい、ラストの父親のセリフといい、戯曲の巧みさはあいかわらず。畳と梯子だけの簡素な舞台装置も、惚れ惚れするほどに美しい。もはやスタンダードの風格。それこそ「ニセS」のようにいろんな「びんぼう君」を見てみたいとすら思った。

Onna_no_michiポツドール特別企画 女シリーズvol.1 『女のみち@新宿THETER/TOPS 07/06
男性誌のグラビア担当者が最初にやる仕事に写真のレスポンス(写真を修正する機械)指示っていうのがあって、事務所の言う通りにアイドルのシワやシミを消したりするんだけど、AV女優の場合、よくあるのがリストカットの跡とか根性焼きの跡を消してくれっていうせつないレスポンス。
以前、カンパニー松尾のAV作品にこんなシーンがあった。フツーの主婦がAV出て、自宅でセックスして、お金ももらえて、あー楽しいと。でも撮影が終わってカンパニーを駅まで自家用車で送っていくとき、この主婦、ハンドル握ったまま突然ゲロを吐く。バレリーナの足の裏は血マメだらけっていう西洋近代芸術の光と影を持ち出すまでもなく、人間そんなに軽やかになれるものじゃない。カラダは正直だ。
「女のみち」にはそこまで臭くて酷薄な現実は描かれていない。かといって安藤玉恵演じるAV女優がその名を模した立花里子のような痴女神が跋扈するどエロな世界が描かれるわけでもない。
それでも、物珍しいAVの撮影現場を舞台に、「リストカットの跡」や「根性焼きの跡」を適度に散りばめた、たくましい女たちのドタバタ劇として楽しい作品だった。あと、トークショーの準備のためAD役を演じた人が舞台上のゴミを片づけてたんだけど、その様子が、まだ芝居が続いているみたいで面白かった。

シベリア少女鉄道 『残酷な神が支配する』@吉祥寺シアター 07/08
痛快!天才!バカ!!
いやーしかし、あのひとが神だったとは……(たしかにそう呼ばれてはいるけど)。

Sousouliter六本木のam/pmでゲットした、横山三国志ライター。
カード型でかっこいい。
曹操、ちゃんと赤い。
そういやシャアのイメージあるよね。

2006/07/24

最近のニキータ①

で、なんて言ったのマテラッツィ?

世の中の流れからどんどん取り残されていく。
どうにも仕事に乗れない気分なので、ここ一二ヶ月のことなど書いていきます。

まず、野外劇をいくつか見た。

KAKUTA 『ムーンライトコースター@浅草花やしき 06/01
3月のにかさやライブの不満を晴らすべく参戦。さすが演劇あたまの人たち、花やしきという舞台装置を存分に活かしきってた。
予想してたこととはいえ、カタカナで「ハートウォーミング」、みたいなテイストにややとまどう。友人Tさん(コメントにレスしてください!)を誘って正解。ひとりだったらいたたまれなくて帰るとこだったよ。
しっかし、巧い。「不在」や「喪失」を隠しテーマにしながら、最後、誰も乗っていないジェットコースターを走らせるところなどニクいよ。にかさやもぜひ次は桑原さんと、……は余計なお世話か。

POTALIVE 吉祥寺編『斜』 06/16
「散策しながら楽しむライブ」ポタライブ。この日は西荻駅に集合し、吉祥寺方面へしばし散策。
文字どおり杓子定規な都市計画。中央線もナナメにまっすぐに。つうかなんでこんなにナナメってんだ、とか。思惑のズレが生み出しちゃった吹きだまり(三角形)に遊ぶ。
歩きながら、普通に喋ってるつもりが、ふっと虚構に入ったりするダラダラ感がすごい。いやあのダラダラ感はホントすごいと思う。2回言った。

Soyokazeゴキブリコンビナート 『そよ風のささやき』@旧淀橋第3小学校跡地 07/15
ゴキコンの野外劇て! しかも小学校跡地で。開演前、やたら「劇団竹田企画へようこそ」ってアピールしてたけど、なにか大人の事情かしらん。
すり鉢状につくられた装置の底にギュウ詰めの観客。そこに降ってくる役者やら、うどんやら、ヒロインの元恋人(人形)やら。
客を押し分け突っ込んでくる移動式ステージにはねられそうになること多数。泥だらけの役者に衝突し、すっころんだ女子号泣。最高でございました。
エクストリーム「聖者の行進」なストーリーも味わい深かった。観客の疲労のピークを見計らったようにリピートされる輪廻転生芝居(衣装を替えただけの同じ芝居が何度も)も絶妙。くだらなさを突き抜けキャッチーにすら聞こえてくる楽曲群、ケン※ショクヨー、オマンキー・ジェット・シティーをはじめとする役者の本気っぷり、すべてが愛おしかった。

野外劇といえば今週末の超歌劇団@木場公園も楽しみ(ゴキコンのDr.エクアドル&オマンキーも客演!)。まねきねこさん(真の偉人)のレポートを読むだに、期待は高まります。

2006/07/16

磯部涼インタビュー

想像力はベッドルームと路上から」というサイトの方が前回の日記に言及してくれて(引用部がやや恣意的な気はするが)、それを読んだら、以前、磯部涼氏にインタビューしたときもそんな話したなーというのを思い出しました。けっこう関連ある記事だったので再録してみます。
(※というかオレの原稿仕事なんてこうやって自分でサルベージしてかないと歴史から抹消されてしまうのよ!)

『ヒーローはいつだって君をがっかりさせる』
磯部涼インタビュー


Herohai

歴史的水脈や自意識は完全スルー

ヒーローはいつだって君をがっかりさせる』(太田出版)は、ライター・磯部涼が日本のアンダーグラウンドなヒップ・ホップ/ハードコアシーンの現場に飛び込み、8年に渡って様々な雑誌に書き散らかしてきたテキストを編み直したブ厚い本である。磯部にとってキャリアの一里塚となる初の単行本なわけだが、ただひとつ危惧があるという。

「この本はたまたま編集側の要請で日本のアンダーグラウンドについて書いた原稿をまとめたんですけど、じつはわりとメジャーなものも好きなんですよ。実際そういう原稿もたくさん書いてるし。だから、アンダーグラウンド専門とか、身近なことばっか書いてるライターってイメージがついてしまうのはちょっと困る……」

たしかに筆者も磯部に対し、そんなイメージを持ってなかったといったらウソになる。だからといって、面と向かって「がっかりしました?」なんて言われても困惑してしまうわけだが。
とはいえ、あれだけの量のテキストを「アンダーグラウンド」に捧げるには、やっぱりそれなりに思い入れってのもあるんじゃないだろうか。

「自分の思ってるアンダーグラウンド観に的を絞ったというのはありましたね。日本ではアンダーグラウンドっていうとどうしても過去のモノを神格化する傾向があって、(裸の)ラリーズだったら永遠にラリーズのことを書いてる人とかいる。べつにそれがキライってわけじゃないけど、自分はそういうものを切り捨ててしまおうと。かわりに『いま/ここ』にいる人たちを持ち上げてやろうと思ったんです」

そうなのだ。『ヒーローはいつだって君をがっかりさせる』を読んでまず驚くのは、そこに一部のマニア以外は聞いたことのないような固有名詞が遠慮なくバンバン登場することだ。磯部に言わせると、それは「ポップ」だという。フィクションのように読ませることができる、と。

「だいたい『アンダーグラウンド』なんて、最初はギャグのつもりでしたから。たとえばハードコアは昔からシーンが根づいてたけど、ヒップホップに関しては、そんなものはなかった。売れてるもの以外はただマイナーだっただけで、それを無理矢理「アンダーグラウンドだ!」って騒いでた(笑)。でも、そのうちみんな、だんだん成長して……っていうか、じつはみんなけっこうホンモノだったんですね」

ギャグといえばそうかもしれない。磯部のテキストに登場するミュージシャンたち、彼らはミュータントのように、突如、姿をあらわす。ともかく、いきなり、「いま/ここ」にいる。彼らがいったいどんな歴史的水脈をたどって漂着したのか、そのいっさいを磯部は切り捨てる。だから「いま/ここ」にいる彼らは、だれもなんにも「しょってない」。そのかわり、速度と熱量だけはたっぷりとある。
そこではだれもがガシガシ行動している。生活のしんどさはあっても、内省的な苦悩はない。鬱陶しい自意識も完全スルーである。

「だって自分のことなんて書くの恥ずかしいですよ。それに文章で自分を見つめようとするものって多いじゃないですか。だからそうじゃない、もっと表面的なことを書きたいなと思って。政治的っていうか、具体的な『政治』じゃなくて、個人が行動してく上で起きる軋轢っていうか」

サウンド・デモは新しい形のパーティ

そんな磯部たちのガシガシした行動が極点に達したのが「サウンド・デモ」だった。03年、アメリカのイラク派兵に対し巻き起こった反対運動は、ここ日本でも、政治に無関心な層までがデモに駆り立てられてしまうほど大きな社会運動となった。そのうねりの中で、磯部たちは路上にサウンド・システムを持ち込み、街をパーティ空間に変えてしまうという画期的なデモンストレーションを行ったのだ。
機動隊に囲まれながら踊るのは、どんな気分だったのだろう。

「いや、フツーに興奮しますよ。レイヴとかパーティってもともと人目のつかない山奥とか廃屋みたいな面倒なところでやるんだけど、だったら一番メンドくさいところでやってやろうって。それって道路じゃないですか。始めたころなんて機動隊と揉みくちゃになったりしてすごかったですから。もう笑いましたね」

路上パーティのノリで始まったサウンド・デモは規模を拡大しながら、03年10月をピークに、翌04年2月、とりあえずのピリオドを打つ。もともと「そんなにマジメにやってたわけじゃない」磯部にとって、サウンド・デモは「新しい形のパーティ」だったという。

「でもね、最後はけっきょく飽きちゃったんですよ(笑)」

この身もフタもなさ!
しかし、これこそがライター・磯部涼の魅力にほかならない。

「なんにも足をとられたくない。とくに身近なことを書いてるので、同じところにいるとどんどんメンドくさいことになってくんですよね。なんでアイツのことは書くのにオレのことは書かないんだ、みたいな。べつに書かないことに意味なんかなくて、たんにボクの琴線に触れなかっただけで。こないだ渡したアレ、聴いてくれました? とか言われちゃうとたとえ本人はそんなつもりじゃなくても、メンドくさくなっちゃう」

磯部は、だれかになにかを「しょわせない」ように、自分自身もなにも背負おうとしない。若い子に言っておきたいのもただ一つ、「自分の身の周りで遊んでればいいんじゃない」ってこと。
なるほど、がっかりするのはもうたくさんだもんな。
(初出:『ウラBUBKA』05年6月号)

2006/07/15

ミッキーマウスのプロレタリア宣言

◆6月4日(日)「ミッキーマウスのプロレタリア宣言」

大友良英が吉祥寺に立ち上げたスペース、GRID605のオープニング・イベント。
平井玄『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』をめぐる、平井玄+北里義之+大友良英の鼎談。

平井玄の言う「デジタル・フリーター」っていうのはなにもPC画面に向かうような仕事を指すだけじゃなく、たとえば宅急便の人が伝票入力機を携帯したり、キオスクにもPOSが導入されたりていう、すべてのフリーターがデジタルの端末化していくような事態をも言い表している。

もはや我々のカラダと時間は機械よりもフレキシブルに。
そこはJ-WAVEの流れる明るい職場。15分おきにプログラムが替わる。

『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』を一種の音楽批評として受けとめたという北里義之の読み、それから大友良英のミュージシャンとしての直感が鋭かった。
北里さんは『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』に「音響派批判」「声の集団的再編成」の問題を読み込む。
大友さんはサウンド・デモへの違和感を率直に語り、90年代以降急速に発達したPAシステムの問題を指摘する。

テクノ、ハウス、テクノイズ、音響派、どんな呼び方をしてもいいが、認知科学的な大脳聴覚野の変成を語る前に、これらの音響は「街路工場」の環境音楽なのである。デジタル・フリーターたちが労働し、休息し、遊び、食べて酒を飲み、そしてセックスし眠るための音楽。サウンド・デモのブースでプレイする音楽家たちは思いきり乱暴に言ってしまえばそうしたジャンルに属している。ふだんは円山町あたりのクラブの内密な空間や濃厚なフォロワーたちに囲まれて内閉していた彼らの音楽の潜勢力が、街路の空間で全面的に開放されたと言っていいだろう。
つまり、商品の単位としての三分間の曲構成や音楽のリニアーなストーリー性を否定するテクノ・ハウスの系の音響は、IT生産の労働規律と戯れながら、それを促進し、癒し、あるいは逸脱するという揺れるライン上を動いている。それが「IT工場」の生産ラインをコントロールする街頭秩序の限界で、音量規制の見えない有刺鉄線に触れ、公共暴力(機動隊)の檻を揺さぶるデモのウェイヴに煽られて、いつのまにかある種のカウンター労働の環境音楽へと向かうのである。
(平井玄 『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』)

平井玄はサウンドデモを「神的な力」(ベンヤミン)、集団身体といった概念と結びつけることで、街路工場のノルム(行動規範)をかき乱す、もう一つの「踊り狂う工場」=オルタナティヴな生産のあり方を夢想する。
しかしそこには決定的に声や言葉が欠けている、と北里義之は指摘する(ミクシィ日記)。むしろ欠いているからこそ成立する集団性とも。たしかにサウンドデモにおいてその政治的旗幟はある程度あいまいにされる。あいまいにすることで多声的な交響空間が実現されているというわけでもない。
大友良英の実感では90年代以降、あまねくライブハウスやクラブにPAシステムが浸透し、その性能も進化したことで、音楽の現場においてすさまじい重低音(否応なくカラダがふわっと浮いてしまうような)ととてつもない高音域の再生環境が「普通」のことになったという。そのような環境に置かれれば、誰しもカラダが自然と踊りだしてしまう。

奇しくも「CIRCUS」という雑誌の創刊号インタビューでモノホンの賢者・真木蔵人がこんな発言をしている。

真木 だから俺、トランスとかのイベント行かないんだよ。あいつらは、ただオールフリーダムになりたいだけなんだよ。俺はそっちはダメだね。コール・アンド・レスポンスがないと。意外と人間はその2種類に分かれてて、トランスとかやってる人間の方が主流になって日本は動いてるよ。

北里さんは声を欠いたカラダだと、大友さんは声とカラダの間にラウドスピーカーのようなPAが挟まっていると指摘する。二人とも声とカラダを結びつけるものについて繊細に思考する。思考するだけでなく、活動として実践にも移している。

しかしそれでもなお、犬でも社畜でもなくネズミだと。サウンドデモに、集団身体に、狂ったミッキーマウスらのイマジネーションやスピードや行動力に、潜在性の開放を見る平井玄の論は魅力的である。
そこではカラダそのものが声を構成する。

スキル評価の下に誰もが一人一人バラバラにされて飼いならされていた身体が、ダンスという秘匿空間に誘い込まれていく。路上で踊ること、音を出すことは、いつもは抑えつけていた体の局部、その欲望に語りかけることだ。そこをねじり、大きく開き、身をよじらせながら回転させる。この時活性化された神経回路にテクノの粒子化した微細振動が直接作用していく。
(中略)
つまり極端にいえば揺れる音のビートが、人を別のミュータントに進化させていく可能性さえうかがえる。久しぶりにぎこちなく踊りながら、「飼いならされた『自然』を破壊し新しい自然を発明する」ベンヤミンのミッキーマウス論が何度も頭をかすめていた。
(平井玄 『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』)

平井玄の「集団身体」や北里さんの指摘する「声の集団的再編成」の問題は、たとえば生田武志が言う“別の”共同性のあり方とも関わってくる。やはり最首悟が書くように、課題は古くて新しい。声を聴くこと、そして響き合わせること。

自分自身をひっくり返し、低い低い声を絞り出してほしい。そして遠くから響き合う声を探し求めてほしい。おためごかしの歌など聴きたくはない。
自分の声を代理店に売り渡すな、何よりもまず言いたいことはこのことである。そして耳を鍛えよう。この本はラウド・スピーカーというより、小さな聴音装置である。声をストックし、シャッフルして加工し、自分の声を縒り合わせる。この本はそのための装置である。
(平井玄 『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』)

なお、この日初めて聴いた大友良英と宇波拓のライブ・パフォーマンス、どちらもとてもよかった。本当に素晴らしい演奏だった。

2006/07/13

Juana Molina@Morning Becomes Eclectic

Sonjuana

仕事が一段落して、いいかげん日記更新するかーと思ったら、ココログ48時間メンテナンスて……。でもそのおかげか、管理画面のレスポンスはいくらか改善されたような(気がする)。

リハビリ代わりにアルゼンチンの魔法使いJuana Molinaのスタジオライブ動画を紹介させてください。
Juana Molina@Morning Becomes Eclectic
(「Click HERE to Watch Video!」をクリック)

ニューアルバム『Son』もかなりよいです。マジカルです。
来週、来日ライブあります。(エンケン@弁天湯があるので行けず……。)

にしてもMorning Becomes Eclectic、YouTube登場でありがたみが減ったとはいえ、40分のライブ動画(225Kbps)をノンストレスで見せてくれるんだから、やっぱり素晴らしい。

2006/06/29

べつの「ふれる」が生まれる

ここ最近、会うひとごとにその素晴らしさを伝えていた宮沢章夫proposed「何周も自己紹介する」が、やっぱり素晴らしい。
いつかここにも書こうと思ってたのだけど、そうこうしてるうちに宮沢さんの日記(Jun.23)に「『何周も自己紹介をする』を実践し、盛り上がったということをブログに書いている方たちが何人かいるという話」を見つけてしまい、しまった、出遅れた、と。
とはいえ、よいものはよいので、後出しジャンケンのそしりを受けようとも書いておこうと思う次第。

Engekihad「何周も自己紹介する」というのは宮沢さんの『演劇は道具だ』という本に書かれている自己紹介のやり方で、ふつうは1回ですませちゃう自己紹介を、何周もくり返しながら行うというもの。
自己紹介って、だいたい1周目は名前とか職業とか役職とか、ようするに肩書き的な話に終始する(むろん、そのひとの「からだ」から分かることもいろいろある、と宮沢さんは書く)だろうけど、それが2週目になると、趣味とか家族構成とか、もう少し踏み込んで自分のことを話さないと間がもたなくなる。さらに周回を重ね、4周目くらいまでは「言葉として語るにあたいするその人の情報」が語られるけど、「いよいよ5週目になると、どうでもいい話までしなくてはならなくなる」。
周回を重ねれば重ねるほど、話から、具体的なことが消えてゆきます。 (中略) 少しむつかしい言い方をすれば、抽象化するということですが、「抽象化」とはここでは、「なにがなんだか、よくわからなくなってゆく」ということにほかなりません。しかし、言葉でしかコミュニケーションがとれない、現在の人間にとって、たしかに言葉を使っているのですから、わからないはずがない。だけど、わからなくなっている。とするなら、これは先に書いた、「大むかしにあったはずの、人とふれあうこと」にきわめて似てゆくことになります。
(宮沢章夫 『演劇は道具だ』)
すごい。ふだんから「対話よりもおしゃべりを(それもできるだけだらだらしたやつを)」を旨とするオシャベリストの自分としては、もううなずきすぎてヘッドバンギング状態なのです。
ちょっと違うかもしんないけど、テレビ見ながらのどーでもいい話だとか、ドライブしながらのだらだらトークなんかもかなり好き。テレビのせいで親子のふれあいが減った、なんてぜったいウソ!って思うもんね。まあ、たしかに「対話」(1周目の自己紹介)は減ったかもしれんが、そこにはまたべつの「ふれる」があるんじゃねーのって。
なにを話せばいいか、もう、みんなわからなくなってゆく。どうでもいいことを話しだす。そのどうでもよさと、わからなさこそが、またべつの「ふれる」を生みだします。これはぜひ試してください。
(『同上』)

2006/06/27

生田武志さんからのメール

先日アップした日記「野宿者/ネオリベ/フリーター」について、生田武志さんから丁寧なメールを頂きました。
じつは日記をアップしたすぐあとに頂いたのですが、返信をさせていただくのに1週間。さらに許可を頂いておきながら、こうしてアップするまでさらに1週間かかってしまいました。
とはいえ情報戦の様相すら呈してきたブログ時代、こんな風にレスポンスの遅い(それも微妙に)ブログもまた乙ではないかとも思うわけです。
言い訳ですが。

以下、生田さんからのメールです。

◆九龍さんへ
ブログを読みました。
トークセッションで野宿者問題の概況について多くの時間を取ったのはその通りで、あの場で「〈野宿者襲撃〉論」を読んだ人や野宿者問題に詳しい人が大多数だとは思えず、状況説明から始める必要がありました。
これは他の場(教師対象の話とか)でも同様で、「どのように考えるか」「どのように行動するか・教えるか」を語る前に、ほとんど知られていない以上「現状はどうか」を説明するところから始めなければなりません。(詳細なレポートを出したkawakitaさんも「知らないことだらけ」と書いてましたし)。
けれども、ブログを見て、九龍さんの関心のあるところにちゃんと答えられてなかったんだなあと思って、その点を書いてみたいと思いました。

ブログの中で引用された「〈野宿者襲撃〉論」の箇所は、ぼく自身が最も関心を持っていた問題に関わるところです。野宿者を襲撃する若者たち、というより多くの「若者たちが自分の中に大きなイライラをかかえていること、その出し方がわからずイライラしていること、それじたいが社会的な問題である」こと、それが何なのかということをずっと考えてきました。
その「イライラ」は、時として野宿者襲撃として現われてしまいます。しかし、(トークセッションでも言いましたが)それはある時には「志願兵」として戦争につながるかもしれないし、90年のように暴動へと参加するかもしれない。また、95年のように震災へのボランティアへとつながるかもしれない。現実にどこへ向かうかは紙一重だと思います。
ぼく自身は90年暴動を体験しましたが、「あれは何だったのか」ということはずっと気になっていました。ちょうど襲撃についてそうだったように。それを1968年革命以来の二つのホームレスの出会いの「ネガとポジ」として理解することで「〈野宿者襲撃〉論」(の特に後篇)を作り出しました。
「〈野宿者襲撃〉論」ではこの「イライラ」を資本・国家・家族の変容による「ホーム」レスとして理解しようとしています。しかし、実際には1968年以来の「資本・国家・家族の変容」は、社会で生活する全ての人に影響を及ぼしているはずです。それでは、なぜ特に若者たちが襲撃や暴動という形でその問題を集約的に体現してしまうのだろうか。

そこであらためて自分の中で焦点となってきたのは、特に思春期(というより5才と14才の時期)に現われる「瞬間と隣接」という問題でした。生と死のねじれの時間、そして他者との関係。
特に「死」の問題は、ぼくがずっと考えてきたものです。それはパスカルやハイデガーやキルケゴール以上に、岡真史の「ぼくは12歳」、特にその文庫版に収録された高校1年の読者の(岡真史の両親への)手紙を通じてでした。その読者は、12歳の自殺を「生の永遠」として理解しますが、両親はそれを理解できず、「生は確かに汚辱に満ちているが、それを含めて生はなお尊い」という理論で回収しようとします。それに対してその読者はなお強く反論をしますが、それはぼくが知る限り、「生と死」について最も深い洞察に満ちたものでした。「〈野宿者襲撃〉論」での生と死について触れた章(酒鬼薔薇少年やメビウスの環のたとえ)はその延長にあります。
それはぼく自身の14歳ごろからの問題です。5才のエディプス期、そして14才の時期には、人間の条件ともいうべき構造が一時的に破壊され再構成されるように見えます。(フロイトがどこかで思春期にはエディプス期の問題が逆向きに再現される、といったことを書いていますが)。それは人生の中では一瞬ですが、その時期にやってくるものは、通常の社会を構成する枠組みを揺さぶり、組み替える衝撃を持つものでもあると思います。

この隣人愛や「時が満ちる」ものとしての瞬間といったキリスト教の概念については、柄谷行人が言う「世界宗教」に示唆を受けました(本に引用しておくべきでしたが)。つまり、「資本・国家・共同体」を揺さぶるものは過去においては「世界宗教」、特にキリスト教だったという指摘です。世界宗教の核としての「瞬間と隣接」が露わになるとき、「資本・国家・家族」の相互関係が揺さぶられるだろうということです。
「資本・国家・家族の変容」は、社会で生活する全ての人に影響を及ぼしますが、多くの大人にとっては、自分自身が「会社・国家・家族」という旧来の共同体に安住してしまうため、その変容を察知することやその危機を体現することができません。主に思春期の若者の「イライラ」は、この「資本・国家・家族の変容」と「瞬間と隣接」の衝突から生じているのではないかと思いましたこの二つの視点を組み合わせることによって、1968年から1990年、そして現在に至る「二つのホームレス」の幾つかの出会いを描くことができるのではないかと思ったわけです。
それは、日本においては1990年暴動で爆発的な形をとって現われました。しかし、二つのホームレスの出会いを、こうした「暴動」に期待し続けるだけであれば、ただの「一揆主義」になってしまいます。この「瞬間と隣接」の破壊力を消し去らないまま、社会の中に建設的な形でどのように定着させることができるかということが課題だと思っています。

「どのようにしたら若者と野宿者の出会いをもたらす「穴」=「通路」を作り出せるのか」。
ぼく自身にとって「野宿者問題の授業」は、90年暴動の自分なりの継続、つまり歴史の引き受け方の一つです。
授業、そして本としての「〈野宿者襲撃〉論」という形で「瞬間と隣接」の破壊力を社会の中に継続させていくことが、ぼくなりの一つの「解」になっています。
「〈野宿者襲撃〉論」は、ある意味では少年犯罪論ですが、それは凶悪な少年犯罪そのものである「暴動」を経由することによって、「社会変革論」であろうとしました。「襲撃論」は、国家・資本・家族とは別の社会を求める「革命論」(1968年「革命」の意味での)でなければなりません。
その意味で、「〈野宿者襲撃〉論」は、「二つのホームレス」という「資本・国家・家族の変容」の極限形から考えられた社会変革論だったと思います。したがって、それは「極限形」であるために、わかりやすい「特殊解」でしかありません。特殊な例ではなく、「一般解」としての変革論が必要であるはずです。
ぼくは、「〈野宿者襲撃〉論」を書いた後すぐに、次の課題は「二つのホームレス」の間で成り立つ特殊な変革論ではなく、一般的な形での社会革命論だと思いました。しかし、当然「特殊解」よりも「一般解」がはるかに導出困難です。

「〈野宿者襲撃〉論」以降、いろいろと考えていますが、これというプランは出てきません。「〈野宿者襲撃〉論」の中で、「瞬間と隣接」はたぶん最も抽象度が高く(ぼくにとっては最も現実的ですが)、そのため最も普遍性を持ちうる概念なのでしょう。したがって、ここから一般的な変革論を考え出すべきだろうと思うんですが、それをどうやればいいのか、途方にくれています。

一つのアイデアは、生の限界としての「瞬間」と他者との関係としての「隣接」は、「偶然」という概念によって捉えることができるのではないかということです。中島一夫は、「媒介と責任――石原吉郎のコミュニズム」(「新潮」2000年11月号)の中で「加害と被害の流動のなかで」現われる「平等=偶然が支配する『賭け』の世界」について触れ、「加害と被害にたいする根源的な問い」を通して、その「境界が、全く偶然かつ相対的なものにすぎなかった」こと、「いつでも彼らは入れ替わっていたかもしれない」ということ、そこから「負い目」と倫理的な「責任」を導き出されるとしてします(いす取りゲームと同じ原理)。これは、中島一夫によれば「コミュニズムの核心」です。こうした偶然性としてのコミュニズムについて、社会変革の一つのあり方として考えています。
この点については「口実としての「自己責任」論」という文章でかなり考えましたが、この延長で何か出てこないか、今も考えているところです。

また、「瞬間と隣接」は平たく言うと「死と愛」ですが、ワーグナー的な「愛と死」はすでにわれわれには無効だと思います。(でも、「ノルウェイの森」も、読んでないけど「セカ中」もそのノリだったのだろうか)。「〈野宿者襲撃〉論」がある意味で最大の目標としていたのは「ホットロード」でした。あの作品は、「瞬間と隣接」をそれ以上を考えることができないほどに鮮烈かつ豊かに描き出しましたが、その結末は従来の少女マンガのロマンティックラブ・イデオロギー(性と愛と結婚の三位一体)を完成させるものでした。ぼくがその後に夢中になったのは90年代の「ハッピーマニア」でしたが、その主人公(というか安野モヨコ)は「ホットロード」の主人公と実は「タメ」です。しかし、「ハッピーマニア」は「ホットロード」が着地した性と愛と結婚の三位一体の無効を完全に実証してしまっています。では、80年代の「ホットロード」、90年代の「ハッピーマニア」の後に来るべき現在の作品は何なのだろうか。ということもよく考えています。

九龍さんが触れている前田司郎さんの作品も、読んでみようと思います。

★★
蛇足ながら、ぼくが生田さんにお送りした返信も付記しておきます。
挨拶的な文は省いてあります。文法的におかしな言い回し(メールでよくやりがち。恥ずかしい)もちょこっと直させていただきました。

◆生田さま
丁寧なメールありがとうございます。
返事がたいへん遅くなり申し訳ありません。

ブログへのアップもそうなのですが、考えが自分のなかにいったん沈殿したあと、発酵するまで異常に時間がかかるというか、いつもなにか遅れ遅れになってしまいます。
ここ数日、生田さんから頂いたメールの内容はずっと頭の片隅にありました。

頂いたメール、「資本・国家・家族の変容」と「瞬間と隣接」が衝突していること、
まさにそのことについて詳しくお話を伺いたいと思っていましたので(トークセッションに勝手に過剰な期待をしてしまってすみませんでした…)、ありがたかったです。
なかでも「偶然」という概念にハッとしました。
生田さんの言う「偶然」とはまた異なる意味合いかもしれませんが。

ぼくはかつて「青い芝の会」という障害当事者団体で介助の仕事をしていたのですが、そこにIさんという重度の脳性麻痺の男性(歳は30くらいです)がいました。
このIさん、よく一人で介助もなしにフラフラと外出するんです。車イスで。
しかも絶対にエレベーターを使わない。
そのことでしょっちゅうJRの駅員とケンカしてて、地元の駅が使えなくなったり、電車に乗るためにはわざわざ隣りの駅まで行かなくてはならなかったりと、大変でした。

Iさんはエレベーターを使わないので、階段の下で車イスを持ち上げてくれる人を4人つかまえないとホームに行けない。
なので道行く人に「すみません」と声をかけます。
すごく吃音のある声です。

ただ、そうやってIさんが声をかけることで、偶然そこを通りかかった人が介助に巻き込まれていくんです。
というか、そうやって横浜のある駅で「偶然」Iさんの車イスを押したばっかりに、それまで「障害」者と話しすらしたことなかったのに、なぜか介助の仕事まで初めてしまった一人が、ぼくだったりします。

たとえば野宿者支援にしても、理念とか社会意識といったタテマエ(もちろんそういうのも大事ですが)よりも、なにか「偶然」のようなものが、ひょんなパワーを持ってしまう瞬間はないでしょうか。
そしていま、そういう「偶然」性みたいなものが「自己責任」という物言いや管理社会のなかですごく希薄化されているのを感じます。
イレギュラーな「出会い」や「接触」を排除していく社会というか。

IさんもJRの職員が言うのに従って障害者用のエレベーターを使えば社会的にはものすごく効率がいいのでしょうが、もしそうしていたらぼくはIさんと出会わなかったわけですし。
(もちろんバリアフリーによって多くの「障害」者が自由に外出したりできるようになったことはまったく否定しません。素晴らしいことだと思います)

ちょっとまとまりがつかなくなってしまいました。

生田さんが触れてらっしゃる中島一夫氏の評論や岡真史「ぼくは12歳」、ぜひ探して読んでみようと思います。

2006/06/26

『星子が居る』 最首悟

Seikogairu

最首悟『星子が居る』を引っ張りだして読んでいる。
なんでだか思い出せないのだけど、杉田俊介と話していて最首悟の名前が出た。
杉田さんに貸そうと思って書斎のジャングルを分け入り探し出したが、貸せるのは先になりそうだ。

自然人は無際限の自由をもっている。自然人の対極は奴隷人である。しかし、奴隷人の奴隷人たるゆえんは、自分を縛るカセが自然のオキテに等しいとみなすことにあるから、その意味では奴隷人もまた無際限の自由をもつことになる。ガレー船に掲げられていたという自由である。
それにくらべると、社会人は大幅に自由を減じている。社会人は共同した生活を選んだヒトのあり様である。自由が減じた原因は共同にある。共同は規模が大きくなるにつれて、あるいは緊急事態の出現によって、協議・指導・指揮・支配が要請されるようになる。どのように理想的な共同でも、自由は目減りしているのである。
 (中略)
課題は古くて新しいというべきである。ヒトが共同へ向かったときの、その自発意志、すなわち自由をせばめながら責任観念を発生させた内発的義務とは、何なのであるか、わが身に深く錨鉛(いかり)を降ろすこと。私は、自然人ともいうべきわが子の星子という介助者に恵まれて、その作業を進めて行こうと思う。
(『星子が居る』)

立岩真也による最首悟も。

生きがいというものが静かに居すわる不幸ということを軸にしているのではないか、そして、そして静かな不幸と密接不可分な、畏れの気持ちもまた生きがいを構成していているのではないかと考える。そのような軌跡として、この本を読んでもらえたらと願っている。
(『星子が居る』)

2006/06/21

東京デスロック 『3人いる!』

◆午前中、企画書などつくって、昼すぎからジムへ。
マシントレーニング3セットやってプールでスイミング。
ほぼ貸し切り状態ゆえ、勃起の心配もなし。

Komotik_2里の宿で夕食。
泳ぐとどうにもサカナが食いたくなる。
子持ちカレイの煮付け定食。

◆5月29日(月)
東京デスロック 『3人いる!』
@下北沢CAFE PIGA

チェルフィッチュのようなハイパーな人格処理を、ほとんどゲームのように見せる3人芝居。

こんな感じ。
本田という男が部屋にいると、そこへやはり自分が本田だという男が入ってくる。
お互い自分が本物の本田であると主張し、片方を警察につきだそうとしたりするが、話をつきあわせればつきあわせるほど2人とも本田本人に思えてくる。
つまり本田という1人の人物を2人の役者が演じる(正確にいうと3人で本田1人を演じている瞬間もあり)。

2人の本田はどっちが本物かはっきりさせようと友人の家を訪ねるが、この友人も同じ症状(2人に分裂)に陥っている。

おもしろいのは、友人には2人いる本田が1人にしか見えない。2人の本田同士が交わす会話も、本田1人の独り言のように映る。その逆もしかりで、2人に分裂している友人も本田には1人にしか見えていない。
で観客には舞台上に3人の役者が見えている。

だれの主観に依るかによって見える状況が変わる。
たとえば2人に分裂した本田。片方の本田がもう片方の本田を殴る。
本田の主観からすれば、1人の役者がもう1人の役者を殴るという演技になる。
だけど、同じことを友人の主観にたつと、本田が自分で自分を殴っているように見える。
つまり、1人の役者が自分で自分を殴る。「べちっ」

こちらも観ているうちにルールが理解できてくるのだが、主観移動、人格処理が複雑に入り組んで行われるので、ぽかーんと見つめてしまった。いい意味で。
1ドリンク制でアイスコーヒー頼んじゃったのが惜しかった。ビールにしとけばたいそう気持ちよかったろうな。

やはりここで触れたような「静かな演劇リアリズムの向こう側」が意識されてるんだろうけど、それ以前に、これって談志の「主観長屋」じゃないか、なんてことも思った。

「主観長屋」っていうのは、『粗忽長屋』についての談志一流の呼び方。

『粗忽長屋』を知らない人はそんなにいないと思うけど念のため説明すると、浅草の観音様の境内に行き倒れの死体を見つけた八公が「こりゃ長屋の隣りの熊公じゃねぇか」ってンで長屋に戻って、熊公に「熊さん、さっきおめえ死んでたぞ」と報告。最初は不審がってた熊公もだんだん自分が死んだ気になっちゃって、2人で一緒に死体を引き取りにいくっていう非常にバカバカしい噺。
だけどこの2人を「粗忽者」とすることについて、家元・談志は「待った」をかける。人間、いかに主観に縛られていて、またそれを「客観」と信じて生きていることか。
家元はマスコミなどの例をあげ例証し、その上で、『粗忽長屋』は文句なしの名作である、と言い切る。
 で、『粗忽長屋』という題(な)の“主観長屋”であるが、昔から咄家、この主人公二人を“粗忽”と決めており(もっとも聞き手のほうは「粗忽ではないよ」と知っていた客も多くいたろう……)、私が主観長屋という粗忽長屋に変えたのだが、「俺は死んだんだ」と信じた熊さんは己の死骸に向かって泣く。
「泣いてるよ、あの人は。泣いたって仕様がないよ」に、
「死んだ者でなきゃあ、この悲しさは判るもんか」といい、己が死骸を抱いてしばし……。
 で、いう落(さ)げの文句(フレーズ)の物凄さは、
「ウーン……。よく判らなくなったぞォ」
「何が判らねぇんだ」の八公に、
「いえね、抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺は一体誰だろう?」
 文句なしの名作である、と談志(わたし)は信じている。落語こそ、本当の人間の業というか、常識という一般基準をはるかに超えたところで物事を見ている。
(立川談志 『新釈落語咄』)
そういえば、松井周はチェルフィッチュの演劇について、「これはなんだろう? 落語か?」なんてことも書いていた。でもそんな印象論でなく、立川談志が本質的にチェルフィッチュや『3人いる』と繋がってしまうのは、続けてこんなことをさらりと書いてしまうからだ。
 どこか心の底に、所詮人間なんて、何もつながらないところの言動が本当なのではないだろうか。それじゃあ、物事がまとまらないから、とりあえず、関わりのある会話をしているものの、それは、どっかで不自然で、ギクシャクした関係となっているのではなかろうか……。
 ま、いいか。
 『粗忽長屋』を演って、落(さ)げをいう。「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺は誰だろう……」。
 でも、本当のところは、喋っている談志(おれ)は一体何処の誰なんだろう。
(同上)
余談だけど、『3人いる』という芝居、PIGAというシモキタの小さなカフェが使われてて、それがよかった。
BGMに朝日美穂を流したり、下北沢という街への目くばせもじつにナチュラル。
こういうのどんどん増えてくといいな。

2006/06/20

犬猫ジャパン不振

梅雨入りあたりから性欲がおかしい。ものすごく減退。
なにこれ更年期?
一週間くらいオナニーしなくても平気みたいな。
仕事がはかどっちゃうよ。

はかどって、幽霊会員と化していたジムに通う時間なんかもできちゃって、プールで泳いだりしてるんだけど、やっぱり予防しておきたいじゃないですか。いくらおばさん連中ばっかりとはいえ、どんな不測の事態があるかわからないわけで。
木工用ボンド『ミズギズム』(超絶エロ漫画)で思いだし勃起しちゃうとか。

だからこそ転ばぬ先のオナニー。
なんだけど、できないまま家から出られず、ジムのデイタイム(17:30まで)終了って。

オナニー界のファンタジスタとまでいわれたこのオレが。
一週間にシュート1本。
ゆるせ、ジーコ。

2006/06/19

GANG GANG DANCE ライブ

ふー、山を越えました。

サッカー、試合はともかく、松木ングのコメントがむちゃすぎ。
戦前の「日本は3戦全勝・勝ち点9」って予想とか、オーストラリア戦のポイント「サッカーは90分間なにが起こるかわからないから、最後の1分まであきらめない」とか。新聞のラテ欄のほうがもうちょいマシなこと書いてあるよ!
でもああいうコメントを真顔で力強く言い放てるところに松木ングの偉大さがあるのやもしれぬ。AV女優インタビューで最後にかならず「オマ●コの色と形」を聞くことを忘れない中村カタブツ君のような。
なかなかできることじゃないって。

すでに週刊ペースですらなくなってきた当日記ですが、しれっと更新していきます。
まずは、いまさらながらGANG GANG DANCEライブの画像などを。
いかん、一ヶ月ちかく経っちゃってるよ……。

GANG GANG DANCE JAPAN TOUR 2006
@Shibuya O-nest 06.05.22

Rusty Coptic_1
アニコレのマスタリングなんかも手がけてるRUSTY SANTOS(左)と、ニューヨークの爆音トリオCOPTIC LIGHT(右)。どちらもすばらしかったが、とくにCOPTIC LIGHTの神懸かりノイズが! 鼓膜ビリビリビリ。

Gang01 Gang02
ついに見たGANG GANG DANCE! リリース音源からもうかがえる「きっとライブはすごいんだろうな(どんなライブするのか想像もつかない)」という予想をはるかに上回る衝撃。 まさに音の熱帯雨林(知人のミクシィ日記のパクリ)。
このYouTube動画より数倍、激しく、生々しいパフォーマンスなのでした。あとVoのリジーたん、かわいかった!

一生モノのライブがまた一つ増えたな。

※おまけ
Gang03_2GANG GANG DANCEを激写するパンダさん
(from ANIMAL COLLECTIVE)

2006/06/10

「野宿者/ネオリベ/フリーター」

部屋のジャングル化がとまらない。過去最高の密林度。資料(安達哲『サクラの唄』)が出てこなくて2時間くらいムダにしちゃった。しかも出てこねー。その時間で片づけができたと思うと、うー。
とりあえず、カーツ大佐が仕切る「片方くつ下の王国」を探すのだ!

ここの日記も停滞気味。明日、杉田さんが出るトークショーがあるので、とりあえず先月の生田武志×白石嘉治×杉田俊介トークセッション「野宿者/ネオリベ/フリーター」について書きつけておこう。

さて「野宿者/ネオリベ/フリーター」。内容はやはりこの人のまとめが素晴らしすぎる。皮肉でなく、これは一種の才能だと思う。そしてあいかわらずぼくは前回の杉田×白石トークショーと同じく、杉田さんの沈鬱さや、白石さんのお調子者スレスレともいえる軽ろやかさ、生田さんの誠実な語り口(『野宿者の授業』で培われた部分も大きいのかもしれない)などについて考えていたのだった。

トークショーは生田さんの語る野宿者問題の現状報告が中心。生田さんの口から真摯に語られた言葉はとても重く、動揺もさせられたのだけど、トークショーに対して抱いていた自分の中の期待はほとんど満たされずに終わった。

ぼくにとって『<野宿者襲撃>論』が衝撃なのは、たとえば以下のような引用箇所に象徴される情動による。

今、子どもたちに何かがあると思わざるをえなかった。
何よりも彼ら(青木悦の前著に反応してきた大学生たち――生田)は「殺られた側」の野宿生活者の状況に視線を向けるよりも、「殺った側」の少年たちの方に感情的に同調していた。言葉としては少年たちを許せないと言い、野宿生活者の状態を何とかしなければならないのでは、と語った。しかしその言葉はどこかタテマエのように聞こえた。事件の話になるとそろって口が重くなり、自分の学校での生活を語り、自己の悩みを語り、少年たちの暴力を肯定はしないものの、どこかかばっていこうとする姿勢に、私はそう感じたのであった。事件の話を何回くり返しても、問題が社会のことに広がらず、自己の問題としてくすぶりつづける、そういう感じがあった。
彼らは、この問題を客観的に具体化していくには、悩む時間がこれまでの人生の中にあまりにも少なかったように、私には思えた。
事件を、失業の問題、社会的差別の問題としてとらえようとしていた私は、その意味で強い味方にたってくれると思っていた大学生に失望した。同時に、自分の、あまりに皮相的な見方を反省させられた。事件を、いきなり社会問題としてとらえていくことは無理だと思い、そこにいくまでの途中として彼らと話し合っていこうとしたが、そういう考え方じたい、まちがっていたと思った。中学生といい、大学生といい、若者たちが自分の中に大きなイライラをかかえていること、その出し方がわからずイライラしていること、それじたいが社会的な問題であることに気づいたのだった。
(青木悦 『やっと見えてきた子どもたち』)

ここで言われているような若者たちの「イライラ」について、生田さんは考える。
「まったり革命」の限界、「出会い損ね」への出会い損ね、居場所の崩壊と過剰適応のこと……。
スティーヴィー』のところでもちょっと触れたけど、「死=存在とはなにか」という問いが切迫する「ねじれ」の時間、それが「隣接」を通じて別の共同性のあり方へと拓けていくくだりは震えて読んだ。抽象的なところなどいっさいなかった。それはぼくの臓腑に直撃した。落とせば痛みを感じる重量をもって。

隣接性―別の共同性のあり方、そんなものがありうるのだろうか。終章で生田さんは90年、西成暴動での体験について触れる。その文章の一部はここで読める(ここで知りました)。暴動のただなかにどこからともなく現れた少年・少女たち。

日雇労働者・野宿者をめぐる釜ヶ崎の現状が突然シンクロして、日本全国から若者たちを引き寄せる。若者たちは日雇い労働者や野宿者の状況についてはほぼ何も知らなかったし、また日雇い労働者・野宿者も若者たちのいる状況についてはほぼ何も知らなかった。しかし、このお互いの理解せず、理解されない関係が、そこではめったにありえない「共闘」となっていた。
この共闘関係は4~5日で消滅し、若者たちは寄せ場から消えていった。彼ら彼女らにとって、あの暴動はいまどういう形で残っているのだろうか。そして、釜ヶ崎にいるわれわれにとって、あの予期しない突然の共闘関係は何だったのだろうか。多分、「これは自分の問題だと思った」と若者に言われたとき、われわれは寄せ場・野宿者の運動の今までとはちがう可能性を与えられていた。それに気づかなければ、社会運動としては多分終わっているような何かの可能性に。
(生田武志 『<野宿者襲撃>論』)

若者と野宿者との間に起こる襲撃は、1968年革命以来の普遍的問題を凝縮する「最悪の出会い」だった。それは、別の「出会い」へ転換されなければならない。そして、われわれは若者と野宿者の出会いをもたらす「穴」=「通路」を作り出そうとしてきた。もちろん、こうした出会いはそれだけでは「二つのホームレス問題」を解決することはできない。しかし、この「二つのホームレス」の出会いは、従来の「資本・国家・家族」の原理を更新する「連帯と共闘」「別のルール」を予告する。
(同上)

今回のイベントタイトル――「野宿者/ネオリベ/フリーター」。ちょっとどうかと思うほど安易なのだが、もしそのような並記になんらかの可能性をつかもうとするのであれば、それは上記のような箇所においてだろう。「その先」についての考える契機になるかもとジュンク堂までのこのこ出かけたわけだが、残念ながらトークショーでそれは果たされなかった。生田さんはフリーター問題との連続性に可能性を示唆しながらも、基本的に野宿者の概況を説明するにとどまった。あえて自分の役割として「状況」を確実に届けることにこだわったのかもしれない。

だとしたら重要になってくるのは白石さんだったりするのだが、この人が話すと杉田さんの沈鬱さや、生田さんの実直さがことごとく政治的ジャーゴンに回収されてしまう。肝心なところで大事なものがスルスルと指の間を抜けていく。その軽やかな手つきはトークショーの余興として80点ぐらいはやれるものだったけど、そこにあるすれ違いに誰も違和感を覚えてなさそうなのが不気味だった(たとえば杉田さんのかなりぼそぼそとしたわかりづらい吃音のあとに白石さんが何かを話すと、「ホッとされる」みたいな)。
「野宿者/ネオリベ/フリーター」、けっこうじゃない。それに白石さんの言ってることもたいへん意味があるんだとは思う。だけどまず他人の声にはちゃんと耳を澄ましたほうがいい。それから自分の声についても。ぼくたちはあまりに「声」を売り渡しすぎる。

あまりにいたたまれなくなって、打ち上げの席で生田さんに、「<襲撃>する側の話がほとんど出ませんでした。でも今回のトークショーに来ているような連中、というか僕なんですけど、『<野宿者襲撃>論』で描かれた若者の側にもすごく感じるものがあったんですが……」とおもいきって言ってみた。
「共感するものがあったんですか?」「いや共感というか、あの『生きづらさ』や『イライラ』が自分たちにも通じるような…」「何年生まれですか?」「1976年です」「そうですか。ぼくはあの若者たちにはまったく共感できません」「あ、いや、そういう……」

恥ずかしかった。ぼくの言い方がすごく悪かったのもあるんだけど、生田さんがいま渦中にいる現場へのイマジネーションをすっとばして、突然「<襲撃>する側」のことを持ち出したりした自分に。屹然と「共感できない」って言われて、それは僕の言い方が悪かったのもあるんだけど、青木悦が書いてる「問題が社会のことに広がらず、自己の問題としてくすぶりつづける」若者、それがオレ、ダメだーみたいな。言い訳がましく、自分も学生時代に寿町で野宿者支援に関わっていた話をしたりしたけど、生田さんの現場のリアリティに気圧されてあわあわしてしまった。

打ち上げ後、生田さんたちは池袋で野宿者支援に関わってる人たちの案内で、池袋の夜回りに随行するというので、恥ずかしさを抱えたままついていく。

「池袋の野宿者は段ボールを敷かないんですか」
生田さんが支援者の方に聞いていたのが印象的だった。言われてみればたしかに何も敷かず、ホームの床に直接寝ている方が多い。そんな状態で何日も寝ればきっと腰を悪くするだろう。背中に堅くて冷たい床が触れる感覚。心因的な「障害」を抱えていると思われる若い野宿者もいた。

夜回りのあと、始発待ちのファミレスで生田さんを囲み、朝まで話した。自分が『<野宿者襲撃>論』に衝撃を受けた点をうまく伝えられなかった想いがどうしてもあって、児童相談所でのことも交えながら、本当に聞きたかったことについて、聞いた。どのようにしたら若者と野宿者の出会いをもたらす「穴」=「通路」を作り出せるのか。もちろんそんなの人に聞くような、「答え」が出るような質問じゃない。でも聞かずにいられなかった。
生田さんは、トークショーのときと変わらぬ真摯さで受け止めてくれた。やっぱりすぐに答えが出るような質問じゃない。

もしかしたら芸術が。それはとても自信がなくて言い出せなかったんだけど、僕はやっぱり五反田団のことなんかを考えていた。

生田さんといろいろ話す。公的就労、ベーシックインカムの問題はやはり重要だと思い知らされた。なぜ行政は公的就労に踏み切れないのか。

いまいるフリーター層が高齢化すれば、その一部が、たとえばちょっとしたケガや病気で転がり落ちるように(参照:「カフカの階段」のたとえ)野宿者となる可能性は高い。
おおざっぱな計算だけど、現在のフリーター数を内閣府の調査にあった約400万人として、そのうちたった3%が野宿者となるだけで12万人。たとえばその12万人のなかに自身を含む自分に近しい人が入ること、そんな想像はけして非現実的なものではないだろう。

現在の日雇労働者の野宿者問題はリハーサルであり、いずれ本番をフリーターがやる可能性がある。
(同上)

重い。あまりにも重い……。
いま考えとかないと、絶対、あとで、大変なことになる。

2006/06/06

文学座+青年団自主企画交流シリーズ第一弾 『地下室』

4日の日記(←未読の方は先にさらっと覗いてもらえたら)に続き、文学座+青年団自主企画交流シリーズ第一弾の『地下室』のこと。
店長とその息子たちと店員たちが働く小さな自然食品の店。外に出ることを怖がり地下室にこもっている息子には体内の毒素を排出するという「水」を作る力があった。彼らはその「水」をもとに商品を作り出していたのだが、ある日「働きたい」と店に現れた女の子と出会ったことで、息子は「力」を失い「水」は枯れてしまう。排出することができなくなり体内で濃度の高まった毒素は思わぬところで吐き出されることになる。
ここのvol.255より)
怪しい宗教がかった自然食品店が舞台。いちおうアンチ資本主義的な理念のもと運営されてるみたいなんだけど、あきらかに歪んだ正論、みたいな。登場する人物がどいつもこいつもみなちょっとずつ狂ってて、総括とかはじめちゃうという連赤チックな展開。

集団心理がおかしな方へむかっちゃうのもあるんだけど、それ以上に、ひとりひとりの狂い方が怖いというかまぬけというか。卑小さとか狡猾さとか妄想とかそういう説明つく狂い方じゃなくて、人物設計の段階からパースが歪んじゃってるような狂い方。
店長の息子っていうのがまるっきり無気力な廃人で、だけど性欲が溜まるもんだから「お母さん」と呼ばれる店員が手コキで抜いてあげるのね。劇中では手コキっていわないで「おしぼり」っていうんだけど。それで「おしぼり」の頻度について「お母さん」と男性店員が話あったりするんだけど、この二人がじつは元・夫婦だったりする。まあ、ありていにいうとこの団体、フリーセックスなんですわ。

そんなふうにパースの狂った世界を「静かな演劇リアリズム」で演じてるもんだから、これがもうおかしくって。一種コメディーのような趣もあり。ここで松井周がやってるのは、もう明らかだと思うけど、目のつりあがったニセ人間の目をさらにガンガンつりあげちゃうようなこと。潜在的怪獣パワーの極大化。それによって「静かな演劇」では文学性(奥行きや謎)によってぼかされてしまいがちな「性」の問題についても接近戦が可能になっている。

Chikaアフタートークの松井の言葉を借りれば、そこにあるのは「ゾンビ」みたいなカラダ。ニセ人間なんて言葉は甘っちょろい。まがまがしい呪いによって操られた死体たちが蠢く、地下室の白昼夢。
舞台中央に据えられた煙突みたいなカタチした水質濾過(息子のウンコをつかう)装置は、地上から地下室までを突き抜けて、ぼくたちのカラダにつきささるのだった。

2006/06/05

目のはしっこがつりあがってる

ウルトラマンでなにが怖かったって怪獣が人間に化けてるときだ。パッと見、人間なんだけど、よーく見れば目のはしっこがつりあがってる。人間もどき。怪獣オリジナルの姿よりはるかに恐ろしかった。あとニセウルトラマンとか。ブックオフで「いらっしゃいませー」と声を張りあげている人たちにも同じような怖さを感じる。肩が触れあうほどの距離にいるのにあきらかにぼくに向けてではなく、誰に向けてでもなく、「いらっしゃいませー」ってあいつら。
唐突だが舞台上で自然に話すということはどういうことだろう。多分「静かな演劇」と呼ばれるものの大半は、俳優が舞台上でのんきに日常会話を交わしている様子からそのように呼ばれるのだろう。しかし、「ナチュラルで等身大の演技」と評されるそのスタイルは果たしてその通りなのだろうか? 舞台上に上がって照明を浴びたなら、せめて姿勢を正して前を向き、滑舌よく詩の一つでも朗読するのが普通ではないだろうか? あるいは鍛えられた身体で超絶的なダンスを踊るのが舞台に上げられた者の特権であり、観客に対しての礼儀ではないだろうか?
では、何故彼らは舞台上でだらしない身体を曝し、ぼそぼそと取るに足らない会話を交わすのだろうか。(中略)彼らは何かを「する」ことよりも「されること」を望む。そして、いっそのこと舞台上においてその風景に溶け込みたい。机や椅子や動物や植物や石やその他のセットと同列で並んでいたい。紛れ込んだまましばらくそっとして欲しい。観客にはそんな姿をただ見つめて欲しい。いや見ないふりをして欲しい。このようなマゾヒスト的な欲望に支えられて「静かな演劇」は成立しているのだ。
(松井周 「ポスト『静かな演劇』の可能性」)
雑誌『ユリイカ』の小劇場特集に収められたこの論考で、松井周は「静かな演劇」の功績と限界について考察する。「静かな演劇」の核心とは「人間が『主体』でありつつ、『主体』でないことの二重性を捉えた」こと、功績は「俳優を『主体』の座から引きずり降ろ」し「日常をベース」とすることで、「『本当らしさ』と共に『文学性』を獲得」したこと。
つまり人間の心理や感情を拠り所とした「内面」を重視する「新劇的リアリズム」が、「外面」重視の「静かな演劇的リアリズム」に更新されたことで、初めて近代劇は完成したのである。
(「同上」)
松井の師(あくまで係累として)にあたる平田オリザがアフォーダンス研究者と共同で進めてるプロジェクトなんて、この究極のものといってもよいだろう。だけど、「静かな演劇的リアリズム」は、そのリアリズムゆえ、再現するのが難しいような、あるいは人前で演じるのが憚られるようなトピックを舞台に乗っけるのが苦手だ。殺人とかセックスとか。それらを「静かな演劇的リアリズム」でもって演じようとすると、とたんにウソくさくなってしまう。なので直接的な描写は回避され、隠蔽され、そのことは結果として作品に奥行きや謎を与えることとなる。観客の想像力を刺激するから。「文学性」か「文学趣味」かという問題はここでは問わない。ともかく「観客の想像力を働かせやすくすることこそ演劇である」と。「しかし……」と松井周は続ける。
しかし、本当はその舞台空間は実はどこにもつながっていない。暗い四角い空間の中で俳優たちはじたばたしてるに過ぎない。
(「同上」)
ありゃりゃ。どんなに「リアル」な外面を獲得しても、怪獣のような過剰な演技を封印しても、それはやはり「リアルっぽさ」でしかないと松井は指摘する。けっきょくのとこ、俳優たちは貧しいカラダ曝しながら、暗い四角い空間をじたばたしているにすぎないって。たしかにLOHASでナチュラルな演技もよーく目を凝らしてみたら、ああ、目のはしっこがつりあがってる!

いやだけど演劇ってそういうものなんだとは思う。むかしはみんなお面(これがまた、たいてい目がつりあがってんだ)かぶってたりしてたわけだし。でもって昔の俳優はみんな怪獣みたいで、だから観客も「かっけー!」とか「すてき!」とか「こえー」とか「うえ~ん(泣)」とかわかりやすかった。でも「静かな演劇」はというと、もはや本物の人間にようにうまく化けた(でも目のはしっこがつりあがっている)怪獣たちが、地味な、でも衝撃的なだったりする芝居を演じ、観客の意識の飛躍をいざなう。なるほど文学性。

「静かな演劇」のナチュラルな演技――冒頭の松井の言葉を借りれば「いっそのこと舞台上においてその風景に溶け込みたい」というような役者の演技は、「いま/ここ」にあるカラダをできるだけ溶解させるような志向性をもつ。たとえば怪獣なら隠しようもない「いま/ここ」にあるカラダとの乖離が、外面的なリアリズムを獲得したニセ人間においてはうまく隠蔽されている。「演じる」ことが本質的に恥ずかしいのはこの乖離があるからなのだけど、「静かな演劇」においては、演じる方も、見る方も、端的に言って、恥ずかしく、ない。けど、同時に、それゆえに、文学的な「静かな演劇」は、「いま/ここ」で起きていること(役者が四角い舞台でただじたばたしてる)、「いま/ここ」にあるカラダへの意識をそらしてしまうという弱点をもつ。

この弱点に自覚的で、でもいまさら恥ずかしいのもちょっと……、という先に可能性を切り開いている劇団がたとえばポツドールであり、チェルフィッチュだったりする、というのが松井の論旨。

たとえばポツドールは、観客に「いま/ここ」にあるカラダをひたすら見つめること、耳をすますことをなかば強引に要求する。動物化した人間たち。そこでは会話すらたんなるノイズとして扱われることもしばし。

チェルフィッチュでは俳優が「これから~という作品を演じます」とハナからぶっちゃける。たとえばブックオフで「いらっしゃいませー」と声をあげる店員がいつのまにか隣りのぼくになっていて、気づいたらもう一回繰り返されて、しかもいつのまにか店長になっている、というようなハイパーな人格処理が行われる。外面的なリアルでは追っつかない、けど確実にそのような複雑な処理をこなしている俳優の「いま/ここ」のカラダがある。そして、たしかにぼくらは日常をそのようなカラダで生きてる実感があったりする。

さらにつけ加えれば、たとえば矢内原美邦が『3年2組』で見せた3倍速演出なんてのも。そこには高速度で展開する外面的リアルに息切らせながら食らいつく俳優たちの「いま/ここ」のカラダがみごとに露呈されたいた。

論考のなかで自身については触れていないが、松井自身の作品も、「静かな演劇」の弱点を見すえた意識のもとでつくられているのはいうまでもない。というわけで、松井が『地下室』でとった手法はとりわけユニークなものだった。――つづく

明日に続きます。そっちが本題です(最近こんなんばっかですみません。これ書きながらメシの種になる原稿も書いてるので。「ヤクザも呪われたマル秘怨霊スポット」て)。

2006/06/04

五反田団のカラダ

Binbo21

五反田団『びんぼう君2006』の公演告知サイトに載っている写真(宣伝用の写真だと思うので勝手に転載してます)がいい。
2004年の工場見学会での『びんぼう君 21世紀版』のやつかな。たまらないものがあるよ。
ぜひリンク先にとんで、より大きいサイズでも見てみてください。

ぼくが聞き手をつとめた前田司郎さんのインタビューを杉田俊介さんが紹介してくれて、そこのコメント欄に書かせてもらったのがたとえばこんなカラダだ。
ぐったりとした重心の低さの奥底に、かすかに蠢いてるものらがある。

こんなカラダから出発しながら、延々「性」や「死」や「私」のことを考えている男がいる。
そう思うだけでとりあえず、さびしくはならないですむ。

公演案内に添えられた前田さんのコメントを読んで、やっぱりあいつら部屋をゴロゴロする神様なんじゃないかって思った。ぜんぜんエラくないけどな(まあ、むかしの神話にでてくる神様もけっこうだらしないやつ多いし)。

2006/06/02

『セキ☆ララ』公開に向けて

Sekilala

明日、6月3日(土)より公開される映画『セキ☆ララ』について。

もともと『アイデンティティ』というAV作品だったこの『セキ☆ララ』。『アイデンティティ』からとくに過激なエロシーンをカットした劇場公開用バージョンが『セキ☆ララ』、という認識でまず間違ってないと思う。実際、ぼくは両方を、『アイデンティティ』はDVDで、『セキ☆ララ』は劇場試写で観たけど、内容的にはほとんど同じものとして受け取った。

ただ、ミソは「劇場公開用」というところで、自宅でひとりでAVとして『アイデンティティ』を観るのと、劇場で知り合いでもない他人と一緒に映画『セキ☆ララ』を観るというのは、まったく異なる体験である。どんな映画だってDVD版が販売されていればそういったことは起きうるのだけど、でもこの『アイデンティティ』≠『セキ☆ララ』に関しては、それはとくに大きな意味を持つ。

「“等身大”在日ドキュメント」と謳うだけあり、お堅い啓蒙映画ではない。ポップで爽やかな青春映画の趣さえ、ある。でも、この映画が「AV」と「ドキュメンタリー」のあいだで行っている駆け引きはとっても政治的なものだ。また映画はアイデンティティが「日本人」と「韓国人」の間で揺らがされてしまう状況についても政治的な視座を外していない。『セキ☆ララ』を『セキ☆ララ』として“等身大”で受け止めようとするとき、観客のなかで知らず知らずいろんな「政治」が渦巻いてしまう。そんなAV。そんな青春映画。まったくすげーな。

余計なこととは思いつつ、ひとつだけ残念なのは、この映画、男と女の「政治」だけがちょと弱い。AVモデルとAV監督という垂直的な関係性だからというわけではなく、男と女である以上、そこにはなんらかの駆け引き(それはとても政治的なことだ)があるはずで、そこはもう少しみたかったかも。でもまあ、男と女の「政治」について、松江監督には『カレーライスの女たち』という素晴らしい映画があるので、不満はそちらで晴らすとしよう。

Identity『アイデンティティ』(≠『セキ☆ララ』)について以前、雑誌で松江哲明監督にインタビューしたことがあるので松江さんの承諾をもらった上、再録しておきます(雑誌のほうはすでに廃刊……)。05年の6月頃の記事です。インタビューの際、松江さんにも伝えたんだけど、以前から『アイデンティティ』についてインタビューがやりたくてでもどの雑誌でもなかなか企画が通らなくて、HMJMのリリース凍結にかこつけてなんとか実現できたという、ちょっとうれしいようなかなしいような複雑な原稿仕事だったと記憶している。そもそもHMJMってなに? という方は、先に下のほうにある「HMJM(ハマジム)について」という記事に目を通してみてください。

なお一ヶ所だけちょっとわかりにくいとこ(けどクリティカルな問題)があるので解説しておきます。インタビューの最後のほうの松江さんの「いまのAVは実用性を重視するあまり、作品のバランスが崩れてしまっている」ってとこ。そのあとに「バクシーシ山下さんとかはもっと雑でいいかげんだった(それが最高だった)」みたいにゆってるので、「バランスが崩れる」というのと「雑でいいかげん」っていうのはどう違うの?って疑問を持つ方がいるといけないので。

いまのAVのバランスが崩れてるっていうのは、誤解を恐れずにいうと、もうセックスシーンが「男と女のセックス」じゃなくなってるってこと。男のズリネタとしての機能性を追求していくと、どうしてもワンカットの時間や主観ショットの使い方、体位なんかがすごく恣意的な、オナニー本位の、「男と女のセックス」としてはいびつなカット編集になってしまう。しかも編集・構成の様式がすごく洗練されてきてて、あらかじめきまったコンテに女優(そのへんのアイドルよりかわいいんだぜ!)を画としてはめ込んでいくような方法でAVができあがってしまう。ラグジュアリーに、システマティックに。でもセックス描写のバランスとして崩れまくってるのはいうまでもない。

いっぽうでバクシーシ山下が雑だった、という話は、セックスはセックスなんだけど、たんに「編集が雑」っていう。ブチブチと適当につないでいる感じ。でもその雑な感じが、バクシーシがその著書で「セックス障害者」と呼んだような彼のAVに登場する男たちの貧しいセックス観や妄想のたぐいを見事、過不足なく活写していた。だから「あのいいかげんさがまた魅力だった」ということになる。

なお松江さん本人の編集について、ぼくはインタビューのなかで「セックスのダイジェストに見えてしまう」なんて失礼なことを言ってしまってて、これはホントに浅はかな発言だったと後悔している。「ドキュメンタリーは嘘をつく」で思い知らされたんだけど、松江さんの同ポジを多用した短いテンポのつなぎは、もう独特というか、これについてはもう少しゆっくり考えてみたいんだけど、とにかくかつてのバクシーシ山下の「雑さ」がそうであったように、松江さんのあのテンポもなんらかのぼくたちの潜在的な感性を反映しているように思えてならない。おそらくこちらもそれを説明するための新しい言葉、文体を発明しなければならないような。

「挑発するAVレーベル――HMJM(ハマジム)」
松江哲明&スチャラカ宮下(HMJM広報)インタビュー

文=九龍ジョー

元V&Rの名物広報で、現在はHMJMの広報を務めるスチャラカ宮下氏と、怪作ぞろいのHMJM作品の中でもとりわけユニークな『アイデンティティ』というAVをつくった松江哲明監督をお呼びし、HMJMの過去から現在までを語ってもらった。
 
――松江さんがHMJMに参加された経緯っていうのは?
松江 僕が関わった『ほんとにあった! 呪いのビデオ』(OV)の仕事で、音楽を豊田道倫さんにやってもらったんです。それをたまたま浜田(一喜・HMJM代表)さんが見て、「なんで松江って監督の回は音楽がパラダイス・ガラージ(豊田道倫)で、しかもAVっぽい主観画面なんだ」って気になって、それを(カンパニー)松尾さんに言ったらしいんです。松尾さんとは豊田さんのライブで挨拶ぐらいはしてたから「ああ、あいつか」って覚えてくれてて。それで「単体企画系の女優さんだけど、1本(AVを)撮ってみる気はないか」って声をかけてくれたんですよ。
――それはHMJMがスタートする前?
松江 いや、もうHMJMでした。HMJMの設立から最初のリリースまでの1年間って、そうやって単体系のギャラのいい外注仕事を請けて資金を貯める時期だったんですよ。
宮下 同時並行で、いま出てる7作品のうち『UFO』(監督:堀内ヒロシ)以外の6作品の撮影準備もしてましたけどね。
――ということは、その6作品については最初の時点ですでに青写真があったわけですね。なにか共通の指針のようなものはあったんですか。
松江 松尾さんに言われたのは「とにかく松江が撮りたいものを撮れ」ってことですね。それで僕は「『在日』を撮りたいです」って言って。じつを言うとそのとき僕、ちょっとカン違いしてたんですよ。HMJMで作るっていっても、僕はできたものを、たとえばV&Rとか他のメーカーさんに売るのかなって思ってたんです。
――つまりプロダクション的な作り方をするのではないかと。
松江 そう。でもそう言ったら、松尾さんに「こんな企画、他社に売れるわけがないよ!」って大笑いされて(笑)。「ウチ(HMJM)からオリジナルで出すんだよ」って。そっかぁ、HMJMで出すってことは、松尾さんも他のメーカーでは出せないようなものが作りたいんだなと。それでパッケージも見せてもらったらレコードジャケットの形でむちゃくちゃカッコいいじゃないですか。そこではじめて「なんかヤバイぞ! なんかスゴイことになってんぞ!」って(笑)。
――04年の5月に作品のリリースが始まるわけですが、反響はどうでした。
宮下 とりあえずサンプル盤1000枚を1週間で全部配って、業界関係にはしっかりパブを打ったんですが、反響は……。正直言ってあまりなかったですね。
松江 でも、イベントはすごい集客でしたよ。
宮下 そうそう、アップリンクさんからお話を頂いて上映イベントを打ったんですよ。
松江 あの上映会では『アイデンティティ』がすごい売れたんですよ! 会場でゴールドマン(AV監督)さんが「売れるはずがない」って力説してたんだけど、「売れてるじゃないか!」って(笑)。
――でも、アップリンクに来るお客さんって、基本的にあまりAVを見ない人たちですよね。
松江 そうなんです。だけどHMJMの作品を見て面白がる人っていうのは、やっぱりあのへんなんですよ。一般的なAVのエンドユーザーには『アイデンティティ』を見ても、「女のコがかわいくない」みたいな、よく業界誌に書かれたような判断をされてしまう。
――そういうエンドユーザーにも届けたいとは思ってるんですか。
松江 正直言ってあまり期待してないっていうのはありますね。「見せてもわからないから」じゃなく「たぶん見ようともしないから」って部分で。松尾さんなんかは、まだそこのお客さんに対しての期待というか、もっと偶然的に見せていきたいんだって言ってますけど。
宮下 いや、僕はやっぱり見てほしいと思ってますよ。ただ、見てほしいんですけど、いろんな障壁もあって……。たとえばこのジャケット、形(7インチレコードのジャケットを模している)がネックでDVDショップに置けなかったりするんです。店も置き場に困ってしまうというか。あと、よく言われるんですけど、ジャケットを見ても内容が全然わからない(笑)。
――たしかに、あらかじめ情報が伝わってないと手が出しにくいジャケットではありますね。それと「4830円(税込)」という価格設定も大胆だなって思ったんですが。
宮下 それも理由がありまして、ジャケットをこの形にしたことでものすごくコストがかかってしまったんです。
――ずいぶんジャケットに振り回されてますね(笑)。
宮下 だからリリース凍結にいたった一番の要因は、このジャケットなんです!
――松江さんはどうなんですか、ジャケットについては?
松江 うれしいですよ。けして自分の作品がこのジャケットだからっていうんじゃなくて、松尾さんがこういうカッコいいものを作ろうとしていることがうれしい。だから僕は自分が関わってなかったとしても買ってますよ、絶対。でも、そういう人はけっこういるだろうと思ったら、意外と少なかった……。
――結果として、リリース凍結になってしまったわけですが。
松江 残念だなと思います。なんだかんだ言って『アイデンティティ』なんて他のメーカーさんじゃ、ぜったい撮れないじゃないですか。もし他のメーカーさんが『アイデンティティ2』を撮っていいよって言ったら、僕はすぐにでも企画書を書いて送りますよ。竹島でもどこでも行きますよ!
――たしかに、いま竹島でセックスすればおいしいですもんね(笑)。ってことで、問題作『アイデンティティ』についてもお聞きしたいんですが、「在日」の問題とかぶるように、作品そのもののアイデンティティが「AV」と「ドキュメンタリー」のあいだで揺らいじゃってるのが面白いですね。
松江 だから、AV業界誌に「セックスシーンがなくても成立する」って書かれたときは、冗談じゃないぞって思いましたから。セックスシーンがなかったらこんな作品は撮れないですよ。やっぱりAVの撮影だからこそ何日も一緒に過ごして、セックスまでさらけ出しながら、女優さんの言葉を待てるわけじゃないですか。普通のドキュメンタリーじゃできないですよ。
――ただ他のAVよりもセックスシーンのテンポは早いと感じました。たとえば松尾さんのハメ撮りのカットつなぎだと、自分があたかもセックスしているように感じられるんですが、『アイデンティティ』のカラミシーンはセックスのダイジェストに見えてしまう。
松江 僕はセックスシーンだけ独立して考えられないんです。インタビューあってのセックス、逆にセックスあってのインタビューだから。ダイジェストっていうならインタビューだってそうなんですよ。それは自分の作り方なんです。早送りさせたくないっていうのがあるんです。そこでユーザーよりの編集をしちゃうと、実用性としてはいいのかもしれないけど、作品のバランスが崩れてしまう。
――崩れたほうが面白いんじゃないですか。
松江 イヤです。なんでかっていうと、いまのAVはみんな崩れてますから。『アイデンティティ』が最初の批評を受けたとき、やっぱりこれじゃいけないのかなって思わなくもなかったんですけど、でもなんかね、それってたんにいまのセル(セルAV)の基準なだけじゃないかって。だって昔のAVのカラミなんてもっと雑だったじゃないですか。バクシーシ山下さんとか。あのいいかげんさがまた魅力だったわけで。
――たしかに、かつてのAVにあった「AVでこんなところまで行けるのか!」っていうワクワク感とか熱気を『アイデンティティ』には感じます。それは他のHMJM作品にも言えると思います。
松江 僕はね、ジャンルの縛りが一番ないのがAVだとずっと思ってたんですよ。AVっていうとてつもなくでっかい枠があって、もちろん自分は真ん中だとは思わないです。端っこのほう。その端っこのほうから「認めてくれ」っていうんじゃなくて、「いったいAVってなんなんだ!?」って突きつけるのが僕の役目。でもね、これは松尾さんとも話したんですけど、意外とみんなが考えるAVの枠って小さかったんだねぇって。

HMJM(ハマジム)について
文=九龍ジョー

HMJM(ハマジム)はフリーのAV監督・カンパニー松尾が仲間たちと立ち上げたインディペンデントAVレーベル。設立は03年5月。翌04年5月より作品のリリースを開始した。
松尾たちをHMJM設立に駆りたてたものは、「かつてのV&Rをもう一度つくりたい」という想いだった。かつてのV&R――それは代表の安達かおる(現在もV&R社長)を中心に、松尾やバクシーシ山下、平野勝之らが規格外のキワモノ作品や実験作を次々と発表し、業界最強(最狂)の名をほしいままにしていた時代のV&Rにほかならない。
とはいえ松尾はけしてキワモノ路線がやりたいわけではない。監督それぞれが思い描く作品を、たとえそれがどんなに突拍子のないものでもリリースし世に問うことができる。そういうかつてのV&Rにあった自由闊達な雰囲気のもとで作品製作をしたいということなのだろう。そこにはズリネタとしての機能性が追求されるあまり、内容や製作体制が硬直化してしまったAV業界に対するアンチも、少なからずあったはずである。

ここでちょっと個人的な話をさせてほしい。かねがねAVの撮影現場を見学するたびに思うことがある。たいていどの現場でも、スタッフは女優さんを美しく撮り、カメラの前で最高のパフォーマンスを発揮させることに四苦八苦するわけなんだけど、じつはカメラの回っていない時のほうが女優さんはキュートだったりする。フィール・ライク・ナチュラル。だけどそういう女優さんの素の状態っていうのは、現在の実用性本位のAV界ではズリネタに直結しないノイズとして片づけられてしまいがちだ。なんとももったいない話で。
もちろん好みの問題であることは百も承知。でも、そういう素のおしゃべり(フェイクはナシよ)と、カラミで見せるエロい表情のギャップにグッときて思わずチンポを握ってしまう連中だってけっこういるんじゃないか?
そういう通常のAVではカメラの回らない場面に宿る女優の「リアル」を追求してきた監督こそカンパニー松尾であり、いまのところ他の監督の作品にも見られるHMJMレーベルの特徴でもある。だからHMJM作品はどれもおしゃべり(あと食事!)シーンの時間が長いのだが、コク深さではカラミシーンに負けてない。というかその2つが切り離せない。そこに松尾が考える「男と女のセックス」があるから。
身構える必要はない。なにしろカンパニー松尾のハメ撮りは悪魔的なまでにエロい。ちょっとおセンチな風景ショットを指してドキュメンタリー云々なんて言う向きもあるが、なんだかんだ最後はチンポの抜き差しで理解してしまえ、という男である。だから僕たちは登場する女たちの「リアルな」人生に思いを馳せつつ、そこでヌけばいいだけだ。

HMJMは現在、新作のリリースを凍結している。経営的な問題である。再開のメドは1年後くらいらしいが、それもはっきりしたものではない。本来ならこの原稿もそのこと(経営的な問題)をもっとフィーチャーすべきなのだろうが、あえてその必要はないと考えた。そもそもが個人製作集団である。各監督とも他社からでも作品をリリースしてくだろうし(すでにその方向で動いている)、なにより現在リリース済みの作品7本は、HMJMのサイトにアクセスすれば、いつだって手に入れることができるのだから。

(初出:『ウラBUBKA』2005年6月号)

2006/05/31

WHY? ライブ

なんか日記の意味をなさなくなってきてますが、
18日(木)、WHY?ライブ@渋谷o-west

Why0518

談志師匠ばりの「オマ○コー!」でツカミもばっちりヨニさんでした。楽しかった!
あと「さすがWHY?ともなるとかわいい女のコが多いね!」っていうやなぎくんの声がデカくて恥ずかしかった!(やなぎくんごめん)

この日のライブをYouTubeで発見。すごい時代になったね。
京大西部講堂のも。

2006/05/24

『スティーヴィー』

Stevie

16日(火)、映画『スティーヴィー』、アップリンクの公開最終日にすべり込む。
私生児として生まれ、父親の顔を知らず、母親からは虐待を受けて育ったスティーヴィー。かつてスティーヴィー少年の“ビッグブラザー”(児童虐待や不登校などの「リスク」を負った児童のお兄さん・お姉さん役。そういう制度がある)を務めたことのあるジェイムス監督が10年ぶりに彼と再会する。スティーヴィーは24歳となっていた。会わなかった10年間、彼は施設を転々とし、軽犯罪を繰り返すというかなり荒んだ生活を送っていた。ジェイムスはスティーヴィーの10年間の軌跡をドキュメンタリーとして撮ることを思いつく。が、撮影して間もなく、スティーヴィーにとって、そしてジェイムスにとっても大きな局面が訪れる。スティーヴィーが姪の少女への性的虐待の罪で逮捕されてしまうのだ。
事件を境に、ジェイムスは“ドキュメンタリー監督”である自分とかつてのスティーヴィーの“ビッグブラザー”であった自分とのあいだで葛藤しながら、自ら画面に登場することも辞さず、スティーヴィーの生活に積極的に関与していく道を選択する。そうして、スティーヴィーの人生とこじれにこじれてしまった家族の環にカメラを伴いながらわけ入っていく。

映画を観てるあいだ一時保護所で出会った連中の顔が浮かんでは消えた。とりわけスティーヴィーが冗談を飛ばすシーンだ。じつにゴキゲンで、周囲を和やかにさせるスティーヴィーの笑顔。みなそれがつかの間の安息でしかないことを知っている。でもってやっぱりスティーヴィーはまたポカをやってしまう。まるで平穏が続くことを恐れるかのように。だからスティーヴィーのはにかむような笑顔にふれるとたまらなく切ない気持ちになる。
楽しげに三輪カーを走らせるスティーヴィー、ダチと釣りに出かけて大雨に降られてしまうスティーヴィー。そんなシーンに監督は青春映画風のロックミュージックを流してみせる。そう、ジェイムス監督もたまらない気持ちでいっぱいだったのだろう。

スティーヴィーには帰る「家」がない、いわば"ホーム"レスである。生まれてこのかた父親に会ったことはなく(叔母はそのことで母親を非難する)、母親からは「生まれてくるべきではなかった」というプレッシャーを与え続けられた。無条件に“ホッ”とできる場所、自らの“生"が肯定される場所を持てなかった。それが「つらいこと」だと認識することすらできない幼少期のことである。
その後、スティーヴィーの“生”を丸ごと受け止めてくる大人たちもいた。ある養護施設の園長夫婦。だが園長が牧師になるため施設は閉鎖され、スティーヴィーはまた「家」を失ってしまう。おまけに新たな養護施設では年上の児童たちから性的虐待まで受けてしまう。

怒りと悲しみでパンパンにふくらんだスティーヴィー。たとえば、「スネーク」とあだ名がつくほどのヘビ獲り名人であるスティーヴィーをより深く自然とコンタクトできるようにいざなえるオッサンが、あるいはボン・ジョヴィなどハードロックを愛するスティーヴィーにギターを教えることができるアンチャンがいたらと夢想する。そんなささいなツールでも自分の怒りや悲しみにアクセスすることができるのだと、けっして暴力や犯罪だけじゃないんだと気づかせてやることができる大人がいたら……。
アメリカの児童虐待の背景には貧困層の問題があるという。だがそこには所得だけでははかれない「貧しさ」が横たわっている。ここ日本でも。

ジェイムス監督はスティーヴィーの軌跡を映画にすることについて最後まで悩み続ける。
映画の終わり近く、スティーヴィーの恋人であり知的ハンディキャップのあるトーニャはジェイムスに、「あなたがこの映画をつくったのは良いことだとおもう」と言う。彼女の言葉はジェイムスやスタッフたちに一種の安堵や免罪をもたらしはするが、それでも葛藤や疑念を完全に晴らすことはできないだろう。
スティーヴィーはいま刑務所の中で服役中である。映画パンフレットに掲載されたディスカッションの中でジェイムスはこう言っている。
彼の状況が果たして改善するかどうか、それは私にも分かりません。しかし私は、諦めてはいけないと思うのです。私の考えが素朴すぎるのかもしれませんが、彼のためにそこにいる、見届けるということが大事なんだと思っています。
そうして映画と現実は地続きになっていく。
映画がスティーヴィーの将来にどのような影響を与えるかそれは分からない。でもこれからもあなたのためにここにいる。あなたを見届ける。ジェイムスはどこまでもスティーヴィーの「隣人」であろうとする。

〈野宿者襲撃〉論』のなかで生田武志は、キルケゴールが「瞬間」「現在」と呼ぶものを空間に置きかえることで「隣接性」という概念を導きだす。
「それはイエス自身によって『キリスト教の中心概念として』2000年前にすでに語られていたのではないだろうか」「路上で、半裸で、血を流して倒れている、敵対する共同体人への行動、つまり『善きサマリア人の譬え』で言う『隣人愛』として」と書く。
そして「隣接性」とは従来の共同体に「運命をはらんだ葛藤」をもたらすものであるとも。つまりここで言う「隣人愛」とは従来の共同体とはちがったかたちの「社会」を浮かび上がらせる契機になりうるのではないか、と。
このへんは『野宿者襲撃論』について書くときに改めて言及しようと思うが(なんどもゆってるけどホントに書くんだから!)、ひとまずジェイムスの言葉にふれるとき、思い起こされるのはこんな一節だ――。
ここでは、「隣人」は「私の隣人は誰か」という問いによっては答えられない。むしろ、「私」が「誰がその人の隣人になったか」という問いへの「答え」としてその都度見いだされるのである。
(生田武志 『〈野宿者襲撃〉論』)
難しく考える必要はない。ジェイムスがスティーヴィーに伝えている。
「あなたのためにここにいる」

2006/05/23

CLOSE YOUR EYES

日曜日、FC東京サポーターの人たちがやってるフットサルにまぜてもらう。FC東京には以前「梅山」という名の選手がいたそうで、当然のごとく、ぼくはその梅山選手のあだ名を頂戴したのでした。ウメッティ。マリメッコの相方みたいでかわいいでしょ。

傑作の誉れ高い『マッスル9(←音でます)』のDVD観て、またまた長渕剛「CLOSE YOUR EYES」の素晴らしさを再確認してしまった(去年の暮れはキャバクラで『男たちの大和』モノマネばっかやってたウメッティ)。あーカラオケで深く高らかに唄いあげてえ! というわけで平日デイタイム吉祥寺駅周辺でカラオケ行ける人募集します。この中からやりたい役を選んで明記のうえ、メールください。

『20世紀少年』と『デスノート』が最終回を迎え、ヤンマガで『天然華汁さやか』(ここで第1話が読めます!)が始まった5月の前半くらいに観たのものメモ。

◆5月5日(金) 快楽亭ブラック「5月5日、5席で500円の会」
DVDも書籍も売り上げ好調、昨年からの厄災続きもようやく落ち着きをみせるかと思い始めた矢先、こんどはなんと左脚が疲労骨折(?)だって。まったく神はどこまでこの男に試練を与えれば気が済むのだろうか。しかしさすがというか、イスに座り(正座ができない……)ながらもそんなコンディションをまったく感じさせない大熱演5席。500円ですよ。それが1席目からいきなり芸術祭優秀賞の大ネタ『英國密航』だもん。快楽亭ブラックSAID「こういう時こそ大ネタを演る方のが粋なんですよ」。シビレます!
あと、ここの3月26日の日記がすごい。佐藤真×快楽亭ブラック×森達也という極私的夢のコラボレーションが実現しています! 放送みてたけど気づかなかったなあ。

Yokohamamery◆夜は新宿テアトルで『ヨコハマメリー』。いまはもういないメリーさんの存在を通じてヨコハマ(not横浜)という都市のファンタスマゴリーを浮かびあがらせるドキュメンタリー。あえて個人史に深入りしない(メリーさんにも)という禁欲的な方法論をとっているのはわかるんだけど、やはりどうしてもメリーさんの記憶やノスタルジーの表面をさらうだけになってしまっている感が。でも晩年のメリーさんに寄添ったゲイボーイ・元次郎さんの歌う「マイウェイ」や最後に一瞬“かつてメリーさんだった”女性が映りこむシーンはさすがに強度があった。すごくうまくつくられてる。

上映前には監督と平岡正明のトークショーもあった。たった15分、しかもそのほとんどを平岡正明がしゃべって終わったんだけど、まるまる映画『ヨコハマメリー』1本に匹敵するくらいのスリリングな内容だった。
メリーさん誕生(後にメリーさんと呼ばれる「パンパン」の女性が白塗りを始める)の謎について、平岡はまず1983年に起きた少年たちによる野宿者襲撃殺人事件に震撼する横浜に、白塗りのメリーさんが登場するイメージを提出してみせる。ほどなくしてはじめて平岡が生のメリーさんを目の当たりにしたときの印象は、白塗りのメイクも、腰の曲げ方も、「あえて」実際の年齢よりも20は年老いたようにみせているようだったという。それはおそらく襲撃事件の続く横浜で、女性野宿者として生きるための自己防衛の意味もあったんじゃないだろうか、暗黒舞踏のようなメリーさんの鮮烈なイメージも、社会の影の具象化として偶然あらわれたものというよりは、やはりメリーさん自身が暗黒舞踏からかなり直接的な影響を受けており参照するカタチで身にまとったイメージではなかったか、と推理してみせる。たとえその推測が事実でなかったとしても自分にとってかなり示唆に富む話だった。
さらに平岡はメリーさん米軍スパイ説までぶちあげるんだけど、そっちは正直よくわかりませんでした。なんせたった15分だもので。

Missitsu_1◆8日(月) 劇団、本谷有希子(アウェー)「密室彼女
本谷有希子、初めて観たって友達に言ったら、その人と一緒に観にいった「1989」に出てたじゃん、だって。気づかなかったなあ。そんなんばっかだ。
今回は本谷さんは出てないんだけど、『亀虫』の人が出てた。ミステリー風ウェルメイド芝居。楽しみました。ただ、この感じって……、え、つかこうへい? みたいな(悪い意味じゃなくて)。時間が遡行する密室劇で、記憶喪失とか、意識が干渉しあって「私」が揺らいでしまうとか……。今回はアウェー公演なので、こんどは本公演も観たいな。

◆11日(木) 無機王「僕の腕枕、君の蟹ばさみ。」
アフタートークで話に出たマーク義理人情(役者のひとが今回の芝居に客演してた)という劇団がおもしろそうだった。

2006/05/21

マジカル五反田団

wonderland」という劇評サイトで前田司郎さん(五反田団)のインタビューをやらせてもらいました。ぜひ覗いてやってください。五反田団は5月25日から京都公演(「ふたりいる景色」改訂版)があるみたいなので関西の方はぜひ!

前田さんの話でおもしろかったのは「無意識」とか「おしっこ」とかを手がかりにやっぱり「性」や「死」や「自他」のことなんかを延々考えてるってことで、その先に浮かび上がってくるのは意外にもプリミティヴな「共同性」のようなものの気がする。だからこのひとも書いているように前田さんの書く作品はたしかに一見「セカイ系」的な構造をもってたりするんだけど(ちなみに『群像』の創作合評のなかで小説『恋愛の解体と北区の滅亡』について仲俣暁生さんも「セカイ系」と評していた)、小説ならともかく、五反田団の芝居についてはそれを「セカイ系」という解釈で片づけてしまうことはできないだろう。

いち観客として五反田団の芝居を観ることはかなりマジカルな体験だ。引き出されるイメージのうねりのなかで、自分の無意識のへりに触れるような瞬間がある。プリミティヴな演劇体験。あえて大げさな表現をすれば、フロイト以前の時代に、オイディプス王が持っていたインパクトに近いものがあるのかもしれない。とはいっても登場するのは部屋んなかでゴロゴロする神様とかなんだけど。でもって、やっぱり最終的にそこには思いもよらぬ「共同性」が立ちのぼてくるんじゃないかと思うのだ。

うわっ、けっきょく『<野宿者襲撃>論』についてアップできなかった……。というか、これも、昨日のもぜんぶ『<野宿者襲撃>論』につながっていきます。まだまだ続きます。

2006/05/20

竜のあたまがトカゲに化けるまで~90年代のモニュメント【補足メモ】

数時間後のこのトークショーの前に『<野宿者襲撃>論』について書いておきたいと思ってるのですが、この日記を放置したままなのがずっと気になっているので、ただのメモでしかありませんが、そっちを先に書きつけておきます。ホントいきあたりばったりですみません……。

竜のあたまがトカゲに化けるまで~90年代のモニュメント
【補足メモ】

「怒りや悲しみ」の深さ
●手っ取り早く身近にいるやつへの「怒りと悲しみ」→両親への「怒りと悲しみ」→自分の「生」に対する「怒りと悲しみ」。
●その裏返しとしての「死」。
●舞台中央に設置された井戸、垂直性

「怒りや悲しみ」を表出させるツールを手に入れる、いわば壺のフタを突き刺すストローのような
●芸術、暴力、笑い……。
●ガンダムを乗りこなすこと。エヴァを操縦してみせること。トカゲをつかって蝸牛にアクセスすること。
●ポケモン――当時、一時保護所でもっとも子どもたちをとらえていたツール。中沢新一『ポケットの中の野生』。
●松本人志の笑い、北野武の映画、立川談志のイリュージョン。「死」のニオイ。
●松ちゃんの笑いに救われる人口。ほとんど社会的なカウンセリング効果すら。意識のへりにあるヤバイ感覚。
●酒鬼薔薇聖斗。おばあちゃんの「死」。奇怪なオブジェ。震災。
●寄宿舎のリーダーの名前「ノブオ」から連想される『ドラゴンヘッド』ノブオ。いじめられっ子が産み出す奇怪な宗教。

表出のあとにくる「ま、いっか」の感覚
●「怒りと悲しみ」
●沖縄ブーム

けっきょく逃げるしかない
●トレインスポッティング
●エヴァ
●「人生ってなに?」
●90年代のモニュメント

2006/05/09

マッスルハウス2

Musclehouse02というわけで昨日に続きマッスルハウス2についてなのだけど、とりあえず詳細はスポナビDDT観戦記をぜひ参考に。

マッスルは毎回、2部構成になってて、上のレポにもあるように、この日は前半がマンモス半田のドッキリ、後半が仮装大賞の得点マシンに挑戦といった構成。どちらも仕掛けとしての面白さもさることながら、しっかりプロレスというジャンルの批評になってるのが素晴らしい。批評、なんてゆった瞬間にこぼれ落ちてしまう楽しさを拾い集めながら。

酔っぱらい客を装った仕掛け人・五味のヤジ(「LLPW」コール)に一部の飲み込みの悪い観客が乗ってしまいかけたとき、どこからともなく沸き起こった「カエレ」コール。前半でもっとも背筋がゾクゾクした瞬間だった。あらかじめ観客は、五味が「酔っぱらった客」を演じることを知っている。LLPWコールをすることも。だから観客である我々も「プロレスの観客」を演じなければならないのである。演出家・鶴見亜門から与えられた指示は「西側の客はマンモスを応援、東側の客は仕掛人を応援、南側は空気読んで両方応援」というだけのもの。でもプロレスファンにとって、見当ちがいな行為で試合をぶちこわす輩に対するスマートな対応が「カエレ」コールであることは、TPG(たけしプロレス軍団)のいにしえより論を待たない。それまでもドッキリ仕掛け人として「らしい」声援を送っていた観客1100人だけど、あの「カエレ」コールで完全にノッた。プロレスの勝敗は決まっている。そんなこたァ知っている。でもこのドッキリはガチなのだ。グレーな部分も残しつつ、たぶん、きっと、かぎりなく、ガチなのだ。しかも、そのガチの勝敗が「観客」である我々の手にも一部ゆだねられているというスリリング! こんなに強度のあるプロレス観戦体験、いまどきなかなか味わえるものじゃないだろう。

後半の、意志を持ってしまった仮装大賞得点機との闘いもすごかった。いわば観客満足度システムの可視化。高得点を獲得するためにリング上のレスラー達は敵・味方関係なく話合いながら高度な技の攻防を繰り出し得点機に挑むようになる。もちろんマッスル坂井が得意技・マッスルロックを繰り出すたびに1点づつ減点、みたいな小ネタもしっかり織り交ぜながら。そして、そんなクスグリに笑いつつ再確認させられてしまうのだ。そう、プロレスとは対戦相手同士が協力しあいながら紡ぎあげる「格闘芸術」にほかならないと。だから我々は、パワーボムでウンコを漏らした(コアなプロレスファンなら田●選手のことを想起したかもしれない)メガネがバルコニーからダイブ(もちろんスローモーション&BGMつき)するのを目の当たりにしながら、まさに一つの「格闘芸術作品」完成の瞬間に立ち会い、その「底が丸見えの底なし沼」の途方もなさに惚けた表情で歓喜の声をあげるしかないのだ。なんて気持ちがいいんだろう。

前半と後半のあいだに組まれたアントーニオ本多とディック東郷(フランチェスコ・トーゴー名義)の試合もよかった。感動するあまりその後の段取りを忘れてしまったマッスル坂井に、「たしかお前はいまの試合に感動して、なにか決意するんじゃなかったか?」とフォローする鶴見亜門も含めて最高だった。アントーニオ本多から大スター・東郷さんへの手紙。そこに綴られた、しがない劇団員でしかない自分をプロレスラーだと認めてくれ、いつも稽古をつけてくれる東郷さんへのあふれる想い。それはマッスルのプロレスに対する愛でもある。その愛があるからこそ、たとえば一流レスラーである東郷もサスケもマッスルのリングに上がることに躊躇がない。

マッスル坂井は「人生、どこまでいってもロープに囲まれている」と言う。釈迦の掌で踊る孫悟空のように、どこまでいってもそこはリングだと。だからマッスルについて考えるとき、すでに仏となった偉大な16文の言葉を思い出すのもいいかもしれない。それはこんな言葉だ――「リング上で起こったことは、すべてプロレスである」。

2006/05/08

プロレスの向こう側で演劇と出会う

Muscle

連休真っただ中の木曜、後楽園ホールで観戦したマッスルハウス2。文句なく素晴らしかった!

プロレスと演劇の近親性について考える。いうまでもなく、「演じる」という演劇的要素はプロレスの最も重要なエレメントである。それまでどこか「もさったい」レスラーだったアントニオ猪木が当時妻だった女優・倍賞美津子のアドバイスによって目線までコントロールできる超一流レスラーへと脱皮したのはよく知られた話だし、そのアントンとミッコが新宿伊勢丹前でタイガー・ジェット・シンに襲われた事件にたとえば寺山修司の市街劇の影を見ることも可能だ。

ただマッスルにおける演劇的要素はそういう従来のプロレスにおける「演じる」とはあきらかに一線を画す。レスラーの魅せ方、試合の展開だけでなく、興行そのものが「演劇あたま」とでもいうべき発想力で充ち満ちている。いってみれば、壮大なスケールで過剰に「演じ」られるWWEやハッスルが劇団四季なら、マッスルはシベ少やむっちりみえっぱりである。同じ演劇的なプロレスでも両者にはそれぐらいの違いがある。

マッスルの「演劇あたま」の最たるものがスローモーション演出だ。試合がクライマックスに近づくとおもむろに音楽が流れだし、選手の動きがスローモーションになる。たしかにか超一流レスラーのカウント2.9の攻防が、観客の目にはまるでスローモーションのように映ってしまうということはある。でもマッスルでは実際に選手がゆっくりと動く! この方法なら、一流レスラーでもなくても一瞬の間に複雑な攻防や様々な感情を込めることが可能となる。そう、マッスルには「泣いて馬謖を斬る」(趙雲子龍がパートナーの馬謖を刀で斬ると、馬謖が死体となって相手に覆い被さりフォールする)なんていうスローモーション向きの必殺技まである。

本場アメリカでエンターテイメントを学んだ「天才演出家」鶴見亜門(宮本亜門風の出で立ちに鶴見五郎のアフロ。中の人は某有名劇団の役者)の存在も大きい。「演出家」といってもあくまでキャラクター上のことであるが、それにしても「演出家」がレスラーに「台本」を演じさせるという設定をリングに乗っけてしまうのは画期的すぎる。いまとなってはそれを自然に受け入れちゃってる自分たちに対しても感慨深いものがあるわけだが、なによりこの鶴見亜門、たまらなく魅力的な男なのだ。彼が、あるときは新社長・サイモン鶴見として、またあるときは『週刊リング』編集長・ターザン鶴見として繰り出す従来のプロレス団体への本質を突いた批判&斬新な提言の数々は、とにかくシビレる。

曰く、プロレスの興行は長すぎる、ムダが多い。実際にサイモン鶴見は興行のスリム化(1つのリングで4試合同時に行うとか)を徹底することでわずか40分の間に3興行を行うことに成功する。曰く、プロレス雑誌のショボさはなんだと。ピントはずれなレスラーのグラビア、いつまでたっても核心に触れないマンガ。団体側も面白くない試合を面白いと書かせるぐらいならいっそマッチメークもマスコミにやらせればいいじゃないかってことで、ターザン鶴見編集長は校了スケジュールの都合にあわせ、メインイベントを第一試合にもってくることを要求する。その試合中、グレート・サスケが失神してしまうと「表紙は『サスケ死す!』で決まりですよォォ」とひとり炎上。無事サスケが意識を取り戻すと、なんと拳銃でサスケを射殺してしまう。まったくもってメチャクチャ。だけどゲラゲラ笑いながらもうなずいてしまうのである。誰もが思っているプロレスの問題点にクローズアップする、その鮮やかな手つきに。

他にも、マッスルでは、
●試合がしゃべり場。テーマは「プロレスに上下関係は必要なの?」
●敗者が全員死亡。勝敗の書かれた台本がなんとデスノートだった!
●観客の前には控え室があり、試合はモニター中継(途中からあきらかに別人)
●鶴見亜門が画期的なチケット販売システム(マルチ商法)を提唱。その名も「Amonway(アモンウェイ)」
●トーナメント戦の試合を会場ビル全体(ゲーセン、カラオケ、ボーリング場、しゃぶしゃぶ屋)を使って敢行
などといった「演劇あたま」ビンビンの演出が毎回、繰り広げられている。

マッスルの代表であるマッスル坂井は、マッスルの脚本で岸田戯曲賞を獲るのが夢だという。再演性がなく、そのぶん「聖なる一回性」が宿るのがプロレスであるということを考えれば戯曲としての評価は難しいところではあるけれど、「プロレスの脚本で岸田賞を」っていう、そういう意識のあり方に触れるだけでたまらなくワクワクしてくる。

マッスルハウス2について書こうと思ったのに前置きが長くなってしまった。とにかく最高だったマッスル・ハウス2についてはまた明日

2006/05/04

ノーサンキューノーサンキュー

ブログを読んでくださってる方から「大丈夫ですか」とメールを頂きました。ありがとうございます。思わせぶりな書き込みで更新をストップしてすみません。何年かぶりにひいたカゼで体調くずしたり、鹿殺しという劇団の芝居を観て、速攻、頭の中の消しゴムでなかったことにしたり、GW中、唯一入った仕事がヤンキー娘 vs AV嬢の罵りあい討論会の仕切り・構成だったりとどうにもピリっとしない毎日ではありますが、エニウェイぼくは元気です。P.S.元気です、俊平。まったく人生ってやつは柴門ふみ発弘兼憲史行きの列車のよう。

Nothankyouそんなこんなで2夜連続高円寺で朝まで飲んだくれてしまった。あげく昨日は電車使えばわずか10分の我が家すらたどり着けずマンガ喫茶で爆睡。起きてからは『新宿スワン』、『クロサギ』、『どぶ』、『闇金ウシジマくん』の裏社会マンガコンボに震えあがり、『ノーサンキューノーサンキュー』にしんみりしました。

ああ、GWだというのにそれぐらいしか書くことがない……。ネタに困ったときはとりあえずこれやっとけやとまだ酔いの残る頭脳が命じるので、おすすめYouTube動画を紹介しておきます。

照英SAID「おもいっきり泣きなさい」
リアルタイムで観てて腹よじれるくらい笑った。あとはシュウシュウぐらいトンチの効いたコメントが言えるようになったら完璧なんだけど……。

Gang Gang Dance - Nicoman
ついに来日するGang Gang Danceのライブ動画。カッコええ! 早くナマで体感したい!

2chでゆうところのdodoたんカワユス!
カナダの大学に留学中の中国人ネットアイドルdodolookちゃん(22)。もうどうしていいかわからないくらいキュートです。

2006/04/24

いつか死ぬ いつか絶対死ぬ

◆天気がぐずついたり寒暖の波がせわしかったりで、カラダがだるい。重い。カゼはいやなのでイチゴを買い込む。毎年この時期は安い。そこいくとキウイは季節感ないね。ビタミンCはあるけど。キウイってなんでわざわざ「キウイフルーツ」て言うんだろうトラアニマルみたいなって言ったら、ばか、キウイは鳥の名前だよだって。ドラゴンフルーツみたいなことことらしい。似てるもの+フルーツ。それならわかる。でもグレープフルーツはわからないなあ。グレープも果物でしょ。トラアニマル=カバ、みたいなことでしょう。なんでだ。ちなみにグレープフルーツが酸っぱくて食べられないというお子さまにはちょっぴり重曹をかけてあげるといい。NaHCO3+H → Na+H2O+CO2+Na

◆やっぱりカゼかな。しばらくはゆっくり本でも読みたい。ちょうど仕事も空いてきたし。

◆先週は月曜に野鳩「なんとなくクレアラシル(愛蔵版)」、木曜に新宿末広亭の夜の部へ。

野鳩、バカバカしくていいな。たしかにマンガ的でペラい。天久聖一とか長尾謙一郎テイスト。アンド中学生日記。実際に観るとバカなのに動きは厳密だしセリフも禁欲的だし、やたら効率が悪いことやってる人たち特有のトホホ感がにじみ出てて愛らしかった。軽自動車なのに燃費悪いみたいな。その溢れるムダ力が愛おしい。

◆末広亭は立川藤志楼こと高田文夫先生の10年ぶりの高座が目当て。10日休まず出演してこの日が楽日。小遊三副会長の粋な計らいもあってトリになったんだけど、肉体疲労のピークか、10日乗り切った開放感からか、落語は野ざらしのさわりをやっただけであとはフリートークスタイル。9日目までは毎日ネタ替えてちゃんと演ってたらしいのでちょと残念。でもまた高座姿を見れてよかった。末広亭はお祭り騒ぎでした。

◆「ウタモノの夕べ」来てくれた方ありがとうございました。大学時代の同級生が何年かぶりに会いに来てくれてうれしかった。芝居をやってた女の子で、なんと彼女とは97年、「カラフルメリィ」公演の本多劇場で偶然顔を合わせたのがきっかけで仲良くなったのだった。でやっぱり彼女も再演観ていたりして、ちょっとしみじみトーク。9年もたったのかー、でもたぶん100年後にはみんな死んでるしねー。

◆家に帰ってきたら、実家から電話。母方の祖母が亡くなったという。ウソのようなホントの話。90オーバーで老衰だから大往生でしょう。これから大阪へ行ってきます。

◆あ、ウタモノの前に前田司郎さんが教えてるENBUゼミの卒業公演「ノーバディ」も観に行ったのを忘れてた。出演者20人全員が五反田団ムーブ(床でごろごろ)を連発するすごい芝居。最強の「卒業公演」だと思う。生徒冥利につきるような。そういやこれもみんないつか死ぬって話。あたりまえすぎてつい忘れがちだけど、やっぱいつか死ぬよね。いやホントは忘れてないんだけどさ。

2006/04/20

コミットしたりしなかったりする諸々

Comit◆3年ほど前、つい軽い出来心でつくってしまった映像作品『コミット?』を、出演者でもある映像技術部の松田くんがウェブ上にアップしてくれました。03年の時点ではまだもの珍しかった「萌え」や「メイド喫茶」もいまや日常語だし、作品として世に出せるレベルじゃないのでこっそりとフェードアウトさせたかったんだけど、見直してみたら意外とおもしろいカットが。自分でゆってちゃおしまいだが。けど、コピー機の上で紙のはじっこそろえるところとか、カッターナイフあてるために息を止める瞬間とか、けっこういい。メディアがオタク、オタク言うのもいいかげん食傷気味ではあるけれど、こういうかたちでオタクの「息づかい」まで捉えたものってそんなにないような気がする。ここの「クチコミ200字評!」というコーナーで清水さんが「人生で一度は体験する『学園祭前夜の団結』を思い出させ、特に文科系のヒトはホロリとします」て書いてくれてて、まあかっこよく言うなら『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』のアレなわけで、まだうまく語られてない(けど当人たちはみなビンビンに感じている)オタクの魅力のある側面が詰まっているのはたしかだと思う。作品としての出来はさておき(しつこいか)。

◆今週の日曜(23日)、『ウタモノの夕べ』やります。懲りずにやります。4回目です。オシャレイベントじゃないです。やるたびに人も増えてていい感じなんだけど、そろそろこけそうな予感も……。今回は昼3時から夜の8時、9時ぐらいにかけてだらだらやるので、はじめての方も気軽に立ち寄ってもらえると嬉しいです。場所は三軒茶屋のマナマナというお店です[map]。

◆『快楽亭ブラックの放送禁止落語大全』、ついにAmazonでは品切れ! 現在、ユーズドでは定価2倍の値がついております。すげー。この期に及んでまだ手に入れてないうっかりさんは本屋で見つけて即ゲットすべし。メディアも先週の『週刊新潮』を皮切りに、毎日新聞、『週刊朝日』、『アサヒ芸能』、『プレイボーイ』……と続々掲載予定となっております。この目では確かめてないのですが、なんと読売新聞には先日のロフトプラスワン・イベント(大盛況! ご来場ありがとうございました)のレポートも含めて3度も記事が掲載されたそうです。ナベツネ手打ちだワッショイ!

2006/04/17

NYLON100℃ 「カラフルメリィでオハヨ」

Colorful

00年から02年くらいまでほとんど演劇を観ない時期があって、五反田団に衝撃を受けてまたいろいろと観るようになったのだけど、その空白の前の時期、大人計画とナイロンは自分にとって王様だった。当時は『シアターガイド』片手にミュージカルから文学座までほとんどフィルタリングしないで観まくってたし、お笑いライブなんかもずいぶん観たと思う。あとプロレスとか。それでも自分の知るあらゆるエンターテイメントのなかで大人計画とナイロンは傑出していた。この2つの劇団のチケットを手に入れるために上大岡のチケットぴあに朝8時から並んだ。「高田笑学校」でもそんなことしなかったのに。

なかでも大人計画なら「生きてるし死んでるし」、ナイロンなら「カラフルメリィでオハヨ」は忘れがたい作品。どちらも「生」と「死」のことを扱っていながら、話の大半を埋めつくす「どうでもいいこと」があまりに圧倒的で。そのくだらなさにゲラゲラ笑っているうちにコツンとつきあたるたしかな感触は、『ぼくといっしょ』の「人生って何?」ってセリフに通じるものがあったと思う。

そんな「カラフルメリィでオハヨ」の再演を観にいったのが先週の水曜日。場所は97年版とおなじ本多劇場。幕が開いた瞬間息をのんだ。舞台装置もみのすけの体育座りもあのときのまんまだったから。ストーリーもキャストもほぼ一緒。9年前の自分を追体験しているような気にすらなった。ほんとうに不思議な気分。あのときのトキメキはもう、ない。たぶん予備知識なしにいまこれを観たとしたら、なんのひっかりもなくスルーしてしまうだろう。でも、おもしろかった。犬山犬子がまったくおなじ演技をしてて、やっぱりおもしろかった。最後の曲がやっぱりよかった。「100年後にはみんな死んでる」みたいな曲。音楽使いのセンスがずば抜けていた。あのときのまま。

戯曲を大幅にいじるならともかく、なんでいま「カラフルメリィ」なんだという思いはある。劇場を押さえるタイミングと多忙すぎるケラの執筆時間、その他もろもろ大人の事情という話もある。でも「9年ぶり」という中途半端さや、まんま再演というだらしなさがよかった。こちらもおもわず観ちゃったじゃないかって感じで。なんだよ、懐かしいじゃないかよって。

2006/04/13

この日記の69%はヒロシNaで出来ています

Nip04081 Ecd0408

携帯電話というものを手にして以来、待ち受け画像をヒロシNa以外にしたことのないウメヤマが先週の土曜、ニプリッツとECD+イリシット・ツボイのライブに行ってきました@東高円寺UFO CLUB。

Nip04082ターンテーブルぶん廻したりレコード割りまくるイリシット・ツボイとガチでやりあうECDもカッコよかったけど、やっぱりヒロシNaだわ~。

ヒロシNaのぽこんと出たおなか。あん中にはきっとウッドストックのときのカルロス・サンタナの鼻毛やラスト・ワルツのときのニール・ヤングの口臭に通じるやばいもんがいっぱい詰まってるのだ。Tシャツのいまにも飛び出しそうなピョン吉を見てほしい。これならスライストーンとのユニフォーム交換も余裕しゃくしゃくにちがいないさすがヒロシNa!

キング・オブ・心中

Sintyou_1◆『快楽亭ブラックの放送禁止落語大全』じわじわときてます。先ほど確認したところアマゾンで121位! あまりの過激さに度肝をぬかれたと今週売りの『週刊新潮』も3P大特集で報じております。しつこいようですがマジにいつ●●になってもおかしくないので、気になる方は早めに手に入れておいたほうがよいかと思います。

◆先週の月曜、マンションマンションの「キング・オブ・心中」を観たのだった。いつ以来か思い出せないくらいごぶさたの下北沢OFF・OFFシアター。そしてこんなにスピーディーで、笑えて、あたま空っぽにして楽しめる芝居も久方ぶり。イキウメがあまりにもダメだったので、もう「小劇場」くさい演劇はうけつけないカラダになってしまったのかと思ってたらぜんぜんそんなことなかったよ。面白いものはやっぱり面白いのだった。リリパの客席でゲラゲラ笑いながらちくわを拾ってたあの頃を思い出したり。「痛快!」「観てて疲れない」「あとになにも残らない」結局こういうの好きなんだよなあ。映画でも『ベスト・キッド』とかいまだに最高だもの。

◆『ベスト・キッド』といえば、ミヤギ老人ことノリユキ・パット・モリタ、昨年11月に亡くなっていました。気にはなってなけど、あらためて合掌。ぼくのハイスクール・ララバイを捧げます。迷惑かもしれないけど。もって瞑すべし。

2006/04/12

『快楽亭ブラックの放送禁止落語大全』

続く、としながら放置すみません。ごっつい感じになってしまったのでもう少し整理できたらアップするようにします。けしてオナニーしてるうちにどうでもよくなっちゃったとか、悪食三兄弟を改心させるために悪食の大食いをして腹をこわしたとかそういうことではないので……。伝説のトラッカー・一匹狼の走吉さんSAID「もう誰もせかしはせん… ブログはゆっくり更新してくれ…」

それはそうと!いつのまにかこんなトンデモない本がドロップされております!!

Housoukinshi_1
快楽亭ブラックの放送禁止落語大全
快楽亭ブラック(著)
¥1,785税込/洋泉社

下ネタはもちろんのこと、皇室ネタ、宗教ネタ、すべてノーカット収録。しかも付録CDには「道具屋2006年バージョン」(ファンにはおなじみ「アレ」の最新版が入ったバージョン)も完全収録。はっきりいっていつ●●になってもおかしくない奇跡の一冊です。可及的速やかに手に入れておくことをオススメします!

なお発売を記念して今週の金曜、4月14日に新宿ロフトプラスワンでイベントが開催されます。ブラック師匠の高座のほか秘蔵映像なども公開。そしてゲストになんとあの寒空はだかさんが! タワ~タワ~東京タワーにのぼったわ~。いったいどんなイベントになるのか見当がつかなくもあるんですが、ぜひとも足を運んで頂ければ幸いです!
『快楽亭ブラックの放送禁止落語大全』出版記念
快楽亭ブラック毒演会 ロフトプラスワン寄席
ブラックが待望の新刊『快楽亭ブラックの放送禁止落語大全』(洋泉社)をひっさげプラスワンに登場! テレビ、ラジオはもちろん、寄席さえ出入り禁止になるほどのヤバネタの数々が無法地帯・歌舞伎町の地下で遠慮なく炸裂!

4月14日(金)
18:30開場/19:30開演
1500円(飲食別)
出演:快楽亭ブラックほか
新宿ロフトプラスワン[→地図

2006/03/28

また、家まで歩いてく。

Mataie_2先週の土曜日、青山のスパイラルホールで珍しいキノコ舞踊団「また、家まで歩いてく。」を観てきました。ファニー&クール。これぞ理想のキャットパゥワー。ちょっとせつない西原理恵子フレーバーも効いてました。帰りがてら表参道ヒルズなぞも覗いてまいりましたが、あれ景観と見事にとけあってて安藤忠雄やっぱりすごいのな。

2006/03/26

THE SHAMPOO HAT 「恋の片道切符」

日曜の朝っぱらから談シング5そろい踏み&「ドキュメンタリーは嘘をつく」を続けざまに観て大コーフン。「ドキュメンタリーは嘘をつく」は内容もさることながら松江さんの同ポジでガンガンつないでいく編集がテラかっこよかった。ようするに嘘ついてないわけだもん。

koinokata先週の木曜はスズナリでTHE SHAMPOO HAT「恋の片道切符」。いまやミスター五反田団といっても過言ではない黒田大輔さんの所属劇団ということで前から気になっていたTHE SHAMPOO HAT、今回が初見。ちなみにこないだ片割れが『やりすぎコージー』(森さんの番組といい、テレ東はすごいな)で「真の」かくし芸を披露していた吉本の漫才コンビ・シャンプーハットとまったく無関係なのはいうまでもなし。
「舞台はとあるパチンコ屋の2階の休憩所兼事務所。パチンコ屋店主である在日三世の金子達は、 週末の草野球の試合に備えミーティングに余念がない。隣の部屋からは交通事故で半身不髄になった妹の弾くたどたどしいピアノの音が聞こえて来る。その頃世間では自民党のホームページに小さく書き込まれた北朝鮮からの宣戦布告文で大騒ぎになっていた。ピッチャーの不在に悩むチームだったが、バイトの面接に男が現れ…」(劇団HPより)
なにひとつ答えのない、正解を持ちえない状況の中、男たちが悩み、もがき、はいずり回るごっついドラマだった。ギャグとシリアスのバランスが絶妙。大堀こういちが演じたパチンコ屋店主の飄々としたユーモラスさが、辛酸をなめ尽くした男の凄みを伝えてやまなかった。その日の昼、取材で会った村西とおる監督とちょっとかぶったりも。妄想だけどあのパチンコ屋店主もぜったいにヤクザ嫌いだと思う。そういった類の強さを感じた。お目当ての黒田さんが演じたのは無神経な日本人ジャーナリスト。ホントどうしょうもないやつなんだけど、どっか憎めなかったりするあたり、らしかったなあ。

「これからが大変なんだ」
パチンコ屋店主が青年にかけた言葉が重かった。正解はない。それでも進まなきゃならないのが人生だから。

2006/03/24

Mount Eerie & Nikaido Kazumi Japan Tour

「こわれたケイト・ブッシュ」(勝手に呼んでる)ことニューヨークの変態音楽家集団Gang Gang Danceが5月来日らしい。ミクシィで知る。Animal Collectiveと同じくどんなパフォーマンスをするのか想像しにくい連中だけに楽しみだなー。

祝日の火曜日、渋谷O-nestへ。Mount Eerieと二階堂和美のジャパンツアー。ゲストミュージシャンがスウェーデンのJens Lekmanとイアリ夫人・ジュヌヴィエーヴさん(WOELV名義)。

まず登場のWOELV。沁みるミニマルフォーク。なんだけど曲終わりに片足あげたり、仰向けに倒れてみせたりするさすがのKレコード。ドラムでバックアップするイアリとの息もぴったりだった。

jen0321イェンスはいきなり客席でのクラシックギター弾き語り。ロン・セクスミスなんかにも通じる唄うたいっぷりにメロメロ。途中、MCで「マイコー、マイコー」ていうからてっきりマイケルという人を呼んでるのかと思ったら、出てきたのは通訳の日本人女性(→)。前回のウタモノの夕べに遊びにきてくれたまいこさんですよ。イェンスの来日実現にはまいこさんの尽力があったと聞きます。いいなあ、いちファンとして自分の入れ込んだミュージシャンの来日を実現させてしまうなんて。

久々にソロで観た二階堂和美さんはニューアルバム発売をひかえオール新曲なり。声とギターだけで紡ぎだされる小宇宙。まったくすごいことになってる。

mt0321マウント・イアリは前半弾き語り、後半はモールスを従えバンド編成。サウンドはマイクロフォンズ時代の延長ながら生硬さがとれてより融通無碍に近づいた印象。マイクロフォンからマウントへ、名義はスケールアップしながらも、コアの部分は変わらず(というかむしろ同じ)というのがいい。世界の切片から覗く雄大な広がり、大気、素敵なサムシング。ニカさんと感応しあっているのも納得のイアリ山なのです。

やっぱりライブはいいね、そんなあたり前のことをわざわざ口にしてしまうぐらいいいライブだったな。

2006/03/22

円楽のとなりに

円楽のとなりに座るのも夢じゃないって書いてから一週間もたたぬうちに円楽カミング。しかもこのページのおかげで傾向と対策もばっちりだ。ようするに番組的にこんなキュートな女の子も笑点ファンですよってのをアピールしたいがため、円楽は若い女性のそばに座る傾向がある、と。ただそういう女子の近場をゲットしても、自分の席が円楽席になってしまったらすべてが台無し。軍艦ゲームみたい。

円楽のコメント「明るい職場に冷たい家庭」って、円生が好んで色紙に書いた「今はただ飯食うだけの夫婦なり」って川柳を思い出すね。一門の伝統なのかな。「今はただ小便だけの道具なり」とか。そして円右師(芸協)は前立腺ガンで逝く――。合掌。

前立腺ガンの予防にはオナニーがてきめんなんだ。これホント。

先週のことから。

◆13日(月) チェルフィッチュ「三月の五日間」
ここ最近の作品より、ずっとエディット感覚みたいなものが出てた。だもんでビール飲んでぽーっと酩酊したりはできなかったけど、でもやっぱりおもしろスリる。内と外、こことよそ、めずらしく輪郭のはっきりした話。フレーズをパーツとして扱おうとすればするほど、滲みでてしまう生っぽい部分がぐぐぐっと迫ってくる。トータスのライブで、その肉体感覚に圧倒されてしまうときみたいに。デモのシーンなんてほとんどコントみたいな状況なんだけど、やばいくらいに生々しかった。なんだあれ。あと照明がすばらしすぎる! スペシャな感覚がベタになるラスト、最高。

◆16日(水) イキウメ番外公演「短篇集 Vol.1 図書館的人生」
なんか巧い。ただただ巧い(ものを目指してる)。話運びは凝ってるし、絶妙のタイミングで音楽(FRIDGEとか)がなるし、もうお客さん泣かせるでー、みたいな。ザ・小・劇・場!! 文句のつけようがない。こちらもさすがに分別がつく歳なので、粛々とキャラメルの箱に仕舞うだけのこと。だいたい昔からシアター・サンモール(今回はサンモール・スタジオだけど)で観た芝居はことごとくキャラメル味だったわけで、はじめからそういうモードで楽しめばいいだけの話。

◆17日(金) サンガツ・ライブ
「三月の5日間」がサンガツの「Five Days」だなんて言われるまで気づかなかったよ。でも「Five Days」をはじめて聴いたときのことは覚えている。お茶の水のディスクユニオン。浮かんでくる風景があった。四畳半の部屋から開け放った窓越しに見る町並み、景色。こう書くとナイーブにとられかねないんだけど、実際にはもっとこうスカッとした感じ。サンガツって語感もそう、なんか早起きして部屋の空気を入れ替えるような健全さと新鮮さがあったなあ。

あれから7年近くもたっちゃって……なんか変わったのかな。オレかな、サンガツかな。もう風景は浮かんでこない。かわりに音そのものの手触りがそこにある。そう、サンガツの新曲はかなりよかった。

2006/03/19

Power to the People

やっとこさ一段落ついて部屋の片づけでもしようと思ってたらワンちゃんから電話。メキシコがアメリカに2点以上入れて勝たないとやばいらしい。ウメちゃんひとつ頼むわん。よっしゃまかせたれ! シコシコシコッピュッー。オレのスペルマ、ブラウン管右隅に直撃ホームランや!!(but誤審)

なんかミクシィのWBCコミュが荒れてるって。なにやってんだか。これ見て了見いれかえたほうがいいよ。ラブ&ピース運動。

2006/03/15

ANIMAL COLLECTIVE ライブ

カーニバルまでたどりつけない子どもたち。寄せては引くサイケデリアにのまれジオロジストのヘッドランプだけが頼りだ。どこかでジャン・クリストフの相剋がショートする音を聞いた――。

日曜、アニマル・コレクティヴのライブへ。超が3つつくほど満員のO-WEST、しかも最後尾スタートだったのにあれよあれよという間に2番グリッド確保。まったく割り込みとかしてないのに。それにしてもすごいライブだった。目からうろこ耳からたらこ脱皮して中から三瓶みたいなモチモチした少年が出てくるくらいハッとしてしまった。新鮮さの中にもまた痙攣するニューヨーカーたちの遺伝子も感じたり。あそこらへん切れてるようで切れてない。覚醒と鎮静をくりかえすうちに自分の内なる力をゆり起こされるような高揚感を味わった。オレたちは虎だ! でも内なる力ってライブでベストポジションを確保する能力とかだったらどうしよう。笑点のオープニングで円楽のとなりに座るのも夢じゃないよ。

2006/03/13

説明を越えた状況

改めて書こうなんて思ってるうちにどんどん時間がたってしまう。ザッカンだけでも。

futariiru 月曜、五反田団「ふたりいる景色」。毎度のことながら素晴らしかった。この劇評でも書いたとおり前田司郎もとい五反田団ってずっとひとつの問いの周りをぐるぐる回っていて、その問いがあるときは「おしっこ」だったり、またあるときは「寝させない」だったりっていうギミックの形をとることで観客の劇的想像力をかきたててきたわけなんだけど、前回「キャベツの類」から、その問いから逃れられない前田さん自身の無意識のようなものも劇作に動員されるようになって、とんでもないところに迷い込んでしまってる。前田さんの自問自答に観客がつきあわされているようで形式だけみればかなりいびつだ。しかし、観ていることで立ち上がってくるイメージの求心力はこれまで以上。でもってあとをひく。五反田団はあとから効く。

小説を書いたことの影響もモロに感じた。アフタートークでの前田さんの言を借りれば「窃視症から露出狂へ。もしくはその二つは元来同じものなんじゃないか」。この方向性の先になにが見えてくるのか、楽しみでしょうがない。

yumenosiro 木曜、ポツドール「夢の城」。記録的な豪雨のなか「ANIMAL」を観にいったことを思えばちょっとやそっとじゃ驚きません。というかむしろ、おもしろかった。慣れた? いや違うと思う。「ANIMAL」ではたんなる群れとしてしか描けてなかった(それがねらいかもしれないが)のが、今回はひとりひとりを磁力ある関係性の中で描いていたから。ワイズマンや平田オリザのような精密に組み立てられたリアルの感触。内容のエロキワドさやジャンクさっていうのはどうなんだろう。ひとつの意匠にすぎないってのはそうなんだけど、いかんせん自分の場合、あいかわらず仕事の6割5分ぐらいがセックス&バイオレンスがらみなのでそういうものから比較的距離をとって生活しているひとたちがどんな風にみるのかが想像できなくって。まあそんなにエロくはねーか。

ワイズマンといえば先月号の『文學界』にインタビューが載ってた(インタビュアー・冨田三紀子)。映画についてはだいたい以前ワイズマンについて触れたときにも引用したような内容でそれほど目新しくないのだけど、近年ワイズマンが演劇の演出を手がけてるって話は興味深かった。映画では「さまざまな共同体を巡る複雑な人間関係を描き、権力の構造を浮かび上がらせる」ワイズマンなんだけど、これまでつくった演劇はどれも「一人芝居」か「二人芝居」(二人といっても、ほとんどが片方の独白)だという。昨年演出したのはベケットの「しあわせな日々」。
 ベケットの世界観は、わたしが自分の映画で描こうとしていることと似ていると思います。彼の思想のすべてを理解しているわけではありませんが、彼の世界観とわたしが映画で表現しようとしていることとの間に共通点を感じるのです。

――「福祉」もベケット的でしたね。

 ラストの男性の独白はもちろん、文字通りベケットです。また同時に、人々がおかれている状況もベケット的です。あれは説明を越えた状況ですよね。ベケットに関してわたしが最も尊敬しているのは、説明することに対する「否」の姿勢です。そして、彼が常に説明を排除しているという事実自体が説明を形作っているのです。中でもわたしが最も好きで、最も重要なもののひとつだと思うのは、何事も説明などできないのだ、という考え方です。わたしの知る限り、福祉サービスについて、充分だと太鼓判を押せるようなイデオロギー的説明などもちろんありません。

ポイントは「説明することに対する「否」の姿勢」そのものが「説明を形作っている」ってとこだろう。

ではでは、アニマル・コレクティヴのライブに行くのでまた! 久々に胸が踊ります。

2006/03/05

にかスープ&さやソース@花やしき

◆2月のしわ寄せもようやく落ち着いてきた土曜日。午前中で仕事を片づけ、昼は近所の井の頭公園で知人がやっている太極拳教室を見学(というかほとんど冷やかし。ごめんなさい)。そのまま昼食がてら参加者の方達とマンダラ2横のどいちゃんでだらだらトーク。カンボジア土産の餅みたいなおかし(クセになる味)を食べ遠くアンコールワットの空に思いを馳せくちゃくちゃ。

◆一瞬家に戻って、夜は浅草へ。花やしきで二階堂和美さんとテニスコーツさやさんのユニット・にかスープ&さやソースの『イピヤー』レコ発ライブ。花やしき貸し切りっていうから万有引力の野外劇みたいなものをあそこまで大がかりじゃないにしても想像してたんだけど、ほぼイベントステージを使ったいつも通りのライブでややがっかり。仕掛けとしてはゴンドラでの登場と、花道やダンサー(あまり効果的でなかった)を使ったのと、電飾の演出ぐらいか。曲ごとにアトラクションを移動、みたいなのは技術的に(そもそも契約的に?)難しかったかなあ。ミュージシャンにそこまで求めるのも酷だけど。あれだ、「夜の遊園地をまるごと貸し切って」なんて謳うからいけない。普通に「花やしきのステージで」てゆってくれれば。

◆とはいえ音楽自体は素晴らしかった。にかスープ&さやソースの世界はやはりライブで体験すべきものだと実感。バタバタと衣装替えやサポート男性陣とのやりとりも楽しく、ステージ後方に描かれたチビドラゴンの「FUKU KITARU!」「WELCOME TO FORTUNE!」て吹き出しとあいまってこちらの頬もゆるみがち。もう縁起モノ?みたいな、聴いてるだけで福がきそうな多幸感に溢れていた。

hanayashiki
終演後、ステージ屋上で閉園アナウンスをするにかスープと
「蛍の光」をくちずさむさやソース

◆ライブ後、会場で合流したNさん(サイトもう更新しないの?)、Sくんと渋谷に移動し、二人がDJの練習をするというバーについていく。練習のつもりが途中からフリのお客さんがけっこう入ってきちゃって、ぜんぜん練習じゃなくなってて笑えた。メタルばっか用意してたSくんなんて冷や汗だらだら。なんちゃってDJといえど「常在戦場」の気構えが必要ってことですね。勉強になりました。

2006/03/03

解放治療の夜

昨夜は解放治療の施しを受けに大久保HOT SHOTへ。出演者ラインナップが小林万里子&鷲尾悠持郎、元気いいぞう、坂上弘、チャーリー東京、エーツー、マナティ という超絶的に素晴らしきイベント也。

例のごとく(悲しい……)1時間ほど遅れて到着したらエーツー熱唱中。久しぶりに見たけどスケールアップとか新展開とかとはまったく無縁。あいかわらずアイドルなのに手作り感満載という、チープさと高貴さが同居する最低で最高のエンターテイメント。

つづいて登場の84歳、史上最年長現役ラッパー坂上弘。自らの交通事故体験を歌ったドキュメント・ラップ『交通地獄』が熱い! 追突された瞬間の「バターン、キューン」という描写、閻魔大王まで登場する神秘の臨死体験、手にした保険金をキャバレーにつっこんですっからかんになったというオチに至るまでまったく無駄のないリリックにうなる。ヒップホップというよりは崔健のチャイニーズ・ロックのようなヌケのよいトラックも最高。またラストに歌われた尾崎豊「卒業」のカバーも絶品で、「魂までカバーすればオリジナル」という喜納昌吉の名言を地でいくような熱唱だった。84歳が歌う「卒業」。仕組まれた自由に/誰も気づかずに/あがいた日々も終わる/この支配からの卒業/闘いからの卒業――この説得力たるや!

元気いいぞうさんはもう、いつもどおりの自由すぎるステージ。「まあ、生きていれば良しとする」をフルコーラスで聴けたのが収穫だった。ホントいい曲なんだあ。

kobayashi0302そして今夜のお目当て小林万里子&鷲尾悠持郎! ずーっとファンで、昨年末には飲みの席までご一緒させてもらったのだけど、ナマで観るのは初めて。いやーよかった! 「ミスタードーナツのテーマ」「子宮筋腫のブルース」これぞ言葉の本来の意味においてブルーズ! あたしは透明人間かいって叫びに笙野頼子を思い起こしたり。アンコール「便所のブルース」の大熱狂。おんなは便所/おとこの便所/○子も○子(さる高貴な方たち)もおとこの便所……! これにて解放治療完了!!

いろいろご挨拶して帰りがけ、小林万里子さんの「エンタの神様とか出てはるんですか?」という問いかけにエーツーの二人が全力で否定してて笑った。「お笑いじゃないですッ!アイドルです!」。たしかにステージを降りると二人ともかわいらしい女の子だし、姫子(あの格好のまま自宅と楽屋を往復。リスペクト)とかと一緒にしたらかわいそう。

2006/03/01

「フリーターとネオリベ現代生活―われわれの生の無条件の肯定のために」

いまだ2月のしわ寄せに足をとられてる。なんで2月だけ28日までしかないんだろう? 31日まである月を減らせばすむことじゃね?

10日もまえの話だけど、杉田俊介さんと白石嘉治さん(矢部さんは家庭の事情により急遽欠席)のトークセッション@池袋ジュンク堂行ってきた。セッション自体の流れはこんな感じ。はじめに白石さんがバッテン至上主義(両腕で×をつくって「マーケット」)ことネオリベがいかに怖いかって話を延々するんだけど、そのあいだの杉田さんの沈黙が、すごかった。それはもちろん話す順番として黙ってるだけなんだけど、ずっとうつむいてて、もうジュンク堂の中でも杉田さんの周りだけ重力が違うんじゃないかっていう沈みこみよう。動じない身体のみが放つ迫力があった。

上のリンク先にもあるように、セッション後半、杉田さんのリバタニアニズムに対する注意の喚起がちょっとしたひっかかりになった。もちろん重度障害を持った人が尊厳死を表明する際の自己決定の複雑さ・個人の自由意志だけではわりきれない困難さを現場の切実さでもって語る杉田さんだ。そこにはリバタニアンのいう「自由」がノー天気な、そういって悪ければ“空想的な”代物でしかないという認識が譲れないものとしてあるはず。ただ『フリーターにとって「自由」とは何か』の中における他者への厳格な目線に、うっすらとリバタニアン的な「正義」の感覚を感じてしまっていたのも事実。その違和感については本人に直接話したこともあって、そのときの杉田さんの答えはたしか、自らの強烈すぎる自己嫌悪の裏返しでそういった感覚を呼び寄せてしまうというものだったと記憶している。

自己批判からくる研ぎ澄まされたストイシズムは杉田さんの文章における魅力の一つでもあるのだが、ここはやはり分水嶺だと思う。おそらく杉田さんも自覚しているであろうある種のだらしなさやぐだぐだとした感覚、それらを克服すべきものやお上によるレッテル張りとしてだけ捉えてしまってよいのかどうか。

各々の現場に関わってくることだ。とくに労働の現場に。たとえばオイラが数年間ではあるが「障害」者のグループホームで介助していた経験でも、そういったどこかぐだぐだとしたあいまいな感覚抜きにヘルパーを続けていくのは精神的に厳しいように感じられた。逆にいうと「介護保険法」や「障害者自立支援法」などはそういったあいまいな領域を狙いすましたように攻撃してくるわけで。

「難しく書きすぎてフリーターすべてに読みやすい本じゃなかった」杉田さんは言う。それは半分はそうだが半分はちがう。「当事者」としつつ自らの現場に軸足を置ききれてない、あるいはそのための言葉を手にできてなかったんじゃないか。平井玄の『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』こそ、フリーター問題について杉田さんが書くべき本ではなかったか。

もっと言えばトークセッションに集まった人たちもそれぞれの現場があったはずなんだけど、むしろそこだけが棚上げになってるように感じられるのはどうしてなんだろう。それはけして今回だけのことじゃなく、ああいう場はいつもそうだ。でも打ち上げとかになると労働現場での軋轢話なんかがけっこう出てくる。これはもう仕方のないことではあるけれど(じゃ書くなよ)。

あたり前なんだけど、こういうのはぜんぶ自分にもはね返ってくること。それに杉田さんは『フリーターにとって~』を乗り越えるべく次の太刀を振るってる。ブログを見てもあきらかだろう。いいかげん自分もエロ原稿やヤクザ記事をルーティンにこなすことに慣れてる場合じゃないって。自戒をこめて!

2006/02/23

JOSH MARTINEZ, SLEEP & MAKER JAPAN TOUR

いまさらながら先週の金曜、降り積もる仕事を尻目にJosh Martinezのライブへダイブ@渋谷Lush。対バンの降神のディープな世界にやられる。そのへんのぱっとしない劇団よりよほどシアトリカルなステージはかわらずのまま表現力だけさらに深化。ピュアすぎて鼻白む瞬間もないことはないんだけど、その危ういバランスがまた魅力だったりする。ラスト「帰り道」(←直リン。客の中にmikaihooくん発見!)への流れは震えた。

降神のステージがかなりの満足度だったので、この時点でもう帰ってもいいかなと。もちろんJosh Martinezの『Midriff Music』はかなりゴキゲンな名盤。でもその気軽さゆえ観ないでもいいかあなんて……。

しかし思いとどまってよかった。なによりJoshと、一緒に来日したSLEEP、MCふたりの風貌が素敵すぎた。SLEEPはもう文字どおりナード。背格好がパンチョ伊東で、長袖シャツの上に微妙なサイズのトレーナー、こないだAKB48っていうアイドルユニットのイベント取材に行ったんだけどその会場にいたアイドルオタクたちの群れに紛れてたとしてもいっさい違和感なし! とらのあなの同人コーナーにいても誰も驚かないよ。しかもこのパンチョがまた、高速フロウかますんだ。顔赤くしながら。そりゃ盛りあがるって。そして肝心のJoshの、人生の深刻さとかとはまるで無縁なそのとぼけ顔! もう高田純次かJosh Martinezかってくらいで。英語のわからないオレですらきっとそんなに深いこと言ってないんだろうなとわかる軽やかでちょっと鼻のかかったフロウも絶品。調子づいたパンチョと純次の絶妙なマイクリレーや、お揃いのハッピ着て「Eye Of The Tiger」(ロッキー3のテーマ)熱唱など、ただただ楽しかった。久々に踊りまくったのだった。

2006/02/22

ジャングル、それは内館牧子

◆部屋のジャングル化が止まらない。リモコンが見つからないのはいつものことだが、必要な資料まで出てこないのはまいる。あとレンタルCDの歌詞カードとか。職住をわけたほうがいいよってアドバイスされた。でもそんなん金もないしどうせいってゆーの。

utidate◆でもってジャングルといえば内館牧子だ。ライオンとか肉食とか獰猛さとか混沌とか湿地帯とかその他いろんな含みがあるわけだが、とにかく日本人でここまでジャングルを感じさせてくれるのは牧子をおいてほかない。明日からあだ名はサファリでもいいくらいだ。なんで急にそんなこと言うかというと、さっき吉祥寺ロンロン内の弘栄堂書店をふらついてたら、レジ横の床にベタっと座り込み苺を手づかみで食ってるおんなの人がいたね。赤いタートルネックのセーターにフレアしたジーンズ、30代半ばのビューティフル・ドリーマー。手や口のまわりなんか苺の果汁でべったりで、店員の注意もどこ吹く風。もう涼野杏梨(苺をむしゃむしゃ)か玉井梓(バラの花むしゃむしゃ)かと。おれも内舘牧子ファンのはしくれとして『新潮45』読むふりしながら経過を見守ってたんだけど、最後は警備員のおっさんに連行されてってしまった。おれの脳内に内館ドラマでおなじみのヘンな民族音楽が響いた――。地母神のように牧子が踊っていた。(とくにオチなし)

2006/02/18

「人生って何?」

◆トリノ入りした大物カメラ小僧たちが各局女子アナと激しい攻防を繰り広げ日本選手団以上の戦績をあげているらしい2月もなかば、予想どおり自分のキャパを越えそびえ立つウォール・オブ・ジョブの壮大さにはおののくばかりです。アテネの街を破壊する軍神アレス(超デカい)を前にしてもビビらないクレイトスのような強さがほしい――。

◆というわけで『ゴッド・オブ・ウォー』買っちゃったよ! 米光さんの紹介のせいだ。しかし素晴らしい。ほとんどゲームをしないオレでもわかるストレスレスな操作感と的確な演出術。荘厳な音響がもたらす迫力の臨場感。呪われた人間が神に挑むというベルセルクばりのファイト・オア・デッドな運命と、ジョジョ第2部ばりの頓智のきいたボスキャラの倒し方にアドレナリンもあがりまくり。とにかくやっつけないと仕事にならないので死ぬ気でクリアした……。ラスボスの倒し方がジョセフ・ジョースター的戦法じゃなかったのだけがちょと残念。だってあんなに苦労して手に入れたパンドラの箱の効果がまさか……なあ?

paavoharju_yha◆さいきんのお気に入り音楽、PAAVOHARJU『YHÄ HÄMÄRÄÄ』。北海の絶壁に立ちつくすような一曲目から、裏打ちリズムがアフターマスなラストまで完璧すぎる一枚。憑かれたように聴いてる。ディスコやノイズの彼岸にうすらと響く唄が中近東の歌謡曲のようにエキゾチック。その混淆ぐあいにクスっとくる。Gang Gang Danceの『God's Money』しかり、こういうのが自分のツボだったかといまさら目からうろこぼろぼろ。思えばKate Bushの『Dreaming』好きもこのへんにあったか。

◆ナイロンの「カラフルメリィでオハヨ ~いつもの軽い致命傷の朝~」が再演決定。初演は健康時代の88年だけど、まぎれもなく90年代を代表するグレートワークスの一つだと思う。いま再び見るのはちょっと怖くもあり(それ以前にチケットとれるのか?)。ほんのわずかなホントのことを伝えるための冗談やテレやごまかしの偉大さ。いや逆なのか。そこがわかんなくなっちゃう地点に連れてってくれるカラフルな輝きは古谷実の『僕といっしょ』なんかにも通じるものがあったあの頃。「人生って何?」