2005/05/19

『顔の美醜について』 テッド・チャン

anatano

テッド・チャン 『あなたの人生の物語』収録の小説。美醜失認処置、通称“カリー”という手法が実用化した近未来の話。カリーとは、
統覚的失認というよりも、連想的失認と呼ばれるものに近い。つまり、この処置は、個人の視覚に干渉するわけではなく、自分の目で見たものを認識する能力に干渉する。美醜失認処置(カリーアグノシア)を受けた人間は、人びとの顔を完全に認識することができる。とがったあごと後退したあご、まっすぐな鼻と曲がった鼻、なめらかな肌と吹き出物のある肌の差異を見分けることができる。ただ、それらの差異について、なんの審美的反応も経験しないだけである。
――ようするに顔の個体識別はできるけど「ブス」とか「美人」という価値判断はできなくなる手術のようなものが“カリー”。
こいつは深刻な社会問題ともいえるルッキズム、すなわち容貌差別をなくすことができる素晴らしいものだってことで学生たちによる“カリー”導入運動が起こった大学を舞台に、関係者たちへのインタビューという体裁で構成されたこの作品。化粧品会社が倫理団体を装って反対CMを流したり、周りに“カリー“を受けたやつがいたら美人だというふれこみですげえブスを紹介してやるぜなんて暴言を吐くヤジ馬なんかが次々に登場して語る語る。主人公の女の子は思春期の頃から“カリー”をつけて育ってて(そういう実験校に通っていた)、せっかく大学入ったらはずそうと思ってたのに“カリー”推進運動なんて「きいてないよ!」状態。おもいきってはずしてみちゃったり。
結局、学生投票の末、“カリー”導入のための美醜失認議案は却下されるんだけど、実は前日に反対派がおこない議案却下に一役買ったとされるスピーチには、声の抑揚や顔の表情、ボディランゲージなどを魅力的にみせ、視聴者の感情的反応を最大化するためのデジタル処置が施されてたっていうオチ。

形式的に客観レポートを装っているので著者テッド・チャンの考えは読み取りにくいんだけど、巻末の作品覚え書きで書いてる――
なぜ人は、美しいことの重荷という考えに、たとえば、そうだな、富めることの重荷という考えよりも共感を寄せるのだろうか? それは、美しいことがまたしてもその魔法をふるうからである――すなわち、短所を話しているときでも、美しいことは、その美しさをもっている人間に利点をもたらすのである。
はどうなんだろ? だって富めることの重荷にそれほど共感できないのは「裏でなんかやってそう」とか「腹黒そう」ていう偏見があったりするから(むちゃくちゃカッコ悪いけどな)で、それにくらべ美人てのは生まれつき避けられない運命のようなもんだと(一般には)考えられてるからじゃないのか。

関係ないけど「富めること」に対する理不尽なまでの不信感といえば、『孔子の哲学』の中で石川忠司さんが「日本人の美点のひとつ」として挙げていて、その話が興味深かった。
ぼくたちは、たとえどんな合法的手段を行使し、自らの才覚・才能をフル回転させて得た正当きわまる結果にしろ、ひとりの個人が莫大な財産を築くことにかんし、もうどうしようもない不信感、字義どおり「共産主義的」とすら言っていいスジの通った不信感を持っている。ぼくが働いている映画館のバイト仲間のマサキ君は、宇多田ヒカルが子宮を患って手術したと告げる「日刊ゲンダイ」の記事を読んだあと、しみじみとした口調でこう言ったものだ。――「カネ、儲けすぎっスよねえ……」