2005/03/29

チェルフィッチュ 「ポスト*労苦の終わり」

更新できなかったのは、レスつくのが嬉しくてミクシィにかまけていたからでも、誰かがチェルフィッチュについて書いたのをパクるために様子見してたからでもなく、たんに忙しかったから。ホント忙しい自慢もたいがいにしとけって思うんだけど。

で、チェルフィッチュも書きかけのまま。「ポスト*労苦の終わり」を横浜STスポットで観たのは一週間ほど前。前回「労苦の終わり」の再編集+加筆バージョン。
オリジナルにあった奇妙な浮遊感が失せ、よりドライにより“しつこく”なったぶん、いくらか話が分かりやすくなっていた。選曲も前回のビーチ・ボーイズからソニック・ユース、ラルトラといったUSインディ/ポスト・ロック(ポスト・労苦?)サウンドに変更。ようするにおとぎ話じゃねえんだぜ、と。たしかにとても身につまされる話/身体なわけで。

前回、映画の撮影風景に似てるってこと書いたけど、今回はなんとそのものすばりビデオカメラが導入されてた。舞台中央に三脚でフィックスされ側面の壁を映し続ける。ピントをはずしたまんま当然回しっぱなし。これはいい。舞台の人がビデオカメラを導入するときって、だいたい客席から見えないもの(場所・アングル)を見せるとか、あとせいぜいVJ的な使い方しかないんだけど、そういう可視/不可視のメディアとしてビデオカメラを使うんじゃなく、リニアな時間の象徴的な道具としてビデオカメラを導入してる。このリニアな時間軸は演劇でも映画でも、あるいは小説なんかでも宿命的なもの。ただ、映画はビデオやDVDでなら一時停止できるし、小説は後ろから読んだり、飛ばして読んだりすることも可能だったりする(それでも体験そのものがリニアであるという点は変わりないが)が、演劇に関しては幕が開けてしまえば、あとは幕が下りるまで有無を言わさず時間は進行していく。その中でリニアでない(しかも均質でない)時間が展開していくことの不思議さ、いびつさ。カット編集という工程を経るぶん映画においてはこのことが明確で、例えば保坂和志なんかがその小説論で頻繁に映画の話を持ち出すもよく分かるんだけど、岡田さんの場合はどうなんだろう。案外、映画を撮りたい人だったりするんじゃないだろうか。