2004/09/22

牛丼サンバ

数珠繋ぎの仕事にもようやく光明がみえてきて今週末はちょっと休めそう。最近はミスター梅介師匠や日景忠男さん、マキタスポーツさん絡みの仕事など、だんだん自分の方向性が……よくわからんことになってきました。少なくとも吉田豪さん言うところの「『QJ』じゃなくてこっち側」ということだけは間違いないと自負しているのですが……。
今日もGO!ヒロミ44'さんのアルバムを聴いてみたり。これがほとんどSuicide入っててヤバイ!! ウソだと思うなら、ここの2分20秒くらいから始まる「牛丼サンバ」聞いてみろって!

仕事を振ってくださるすべてのみなさんに感謝。

2004/09/16

友川かずき先生

■[動画]友川かずきさんが母校で授業
http://www.akita-abs.co.jp/news/newsbn/2004/040909.htm
ほのぼのやがてジーンときてしまう。小学生を前に「八竜町の少年達」唄ってます。八竜町という名前はなくなってしまうんですね。(公式サイトBBSで知りました)

ライブDVD発売ももうすぐ。ひさしぶりに生でも観たい。

※追記
「生きてるって言ってみろ」のところ、テロップ間違えてるよなあ。

2004/09/14

さかなの新譜ゲット

昨夜、京都より帰りました。落ち着く間もなく仕事が山積(アメリカのエロサイトのせい)、さらに次から次へと仕事の依頼が。嬉しい悲鳴。ここが踏ん張りどころです。それから、ギャラが遅れに遅れてた某編集部からようやく振り込みがあったので、とりあえず引っ越しも近いぞ、と。

さかなの新譜「Locomotion」、京都四条のタワレコで無事購入、帰りの新幹線で聴きこみました。いや、すごい。「さかな」としか呼びようがないオリジナルな音楽。何にも似てないからいい、というんじゃなくて、包み隠さず音楽的変遷を見せてきた末に到達したオリジナリティだというのが感動的。改めて感想を書きたいと思います。

M・ウォード来日もやばい!かいしんのいちげき。ここのスタジオライブ動画みて、早くも気分が盛りあがってきました。

2004/09/10

ハンチング帽

今日から京都に出張なのですが、立つ前までにアップしなければならない案件が片づかず。アメリカのエロサイトみてる場合じゃなかったよ!

おととい新宿タワレコへ。さかなの新譜、発売日のはずだけどまだ並んでなかった。ちょっとだけ延期かな。さかな関係ではよくあることなので気長に待ちましょう。
代わりにCDを何枚か購入。湯川潮音「逆上がりの国」、タラ・ジェーン・オニール「You Sound, Reflect」の新譜二枚と、IDAの再発ライブ盤「ANGEL HALL」、それからHERONの紙ジャケ1stといういつまで待ってもジャニスに入ってこない二枚。どれも文句なしによい。湯川潮音はさらにでっかくなってるし(→キノコを押すと試聴できます)、ここのとこ幽玄すぎてついていけない感もあったタラ姉さんも今回はまろやか風味でナイス。久しぶりにタワレコで新譜買ったら、なんかこう気持ちがいいね。「NO MUSIC NO LIFE」みたいな。とりあえずハンチング帽*かぶっとかなきゃ。(持ってないけど)

*タワレコが想定する“音楽好き”男性はハンチング帽をかぶってるような気がします。

2004/09/07

サイドバーに掲示板を追加

ついにこうさぎ「オサム」が記事を投稿。しかし、どうでもよいクソ真面目なこと(しかも時代遅れな)をダラダラ書いてしまい、早く中和しないと恥ずかしさで顔をあげて歩んでいけませんin the WWWというこのタイミングで、よりによってまさにそこをイジってくるとは。「(こうさぎ)」て! ..でもまあそういう空気の読めなさはオレの愛する一番輝いてたころの長嶋一茂に通ずるものがあるので許す! 投稿内容もどことなく、「ウチのオヤジも野球やってたんですけど」に代表されるあのころの一茂を彷彿とさせるし。というかむしろ一茂発言自体が人工無脳に近い、というのが正解。

サイドバーに掲示板をくっつけました。それにともない前から使ってた掲示板と、それから記事ごとのコメントを止めてみました。ここの記事ごとのコメントって記事別ページにぶら下がってトップページには「誰々on記事のタイトル」という情報が出る形式で、賑わってるサイトにはベターなのかもしれないけど、ウチのように閑古鳥が鳴いてるサイトだと単にコメントが散ってしまうだけ。なのでトップに掲示板を張り、コメントもそこで集約して受けることにしました。もちろんいままでの掲示板どおり記事に関係のない雑談もそこで。つうか集約とか雑談とかなに言っちゃってんの、みたいな。そうですよ書き込みなんてめったにないですよ!完全に自己満足ですよ!おまけに、書き込みないのがすぐ分かるとさみしいから、スクロールしないと記事が見えないようピクセル調節したんだから……。

2004/09/06

『華氏911』(後半)、あるいは方法としてのドキュメンタリー(こうさぎ)

きのうオサムが、華氏とかドーラする?
がきょうオサムがフレンドリーと方々を準備するつもりだった。
だがきょうオサムは何人はWしなかった?
できょうは、パーカーみたいな反則するつもりだった。
でもきょう、認定♪
でもきょうオサムは岩波にお話しなかった?
がフレンドリーで、前売りしたかったみたい。
スムーズ。umeyamaは、
(※以下は前回の書き込みの続きです。
が、うまくつながってないかも……)よって、そんな認定が必要どうかは別として『華氏911』は「ドキュメンタリー」ということができる。
だがそれはあくまでジャンルとしてのドキュメンタリー」というような意味での「ドキュメンタリー」ということだ。
妙な話

といってました。

*このエントリは、こうさぎの「オサム」が書きました。

2004/09/05

マヘル/マキーラ・ドーラ/テニスコーツ/ビル・ウェルズのライブ

取材準備のため満喫で『サラリーマン金太郎』を全巻読破したり、今週も忙しかった。でも火曜日のマヘル/マキーラ・ドーラ/テニスコーツ/ビル・ウェルズのライブ(at渋谷nest)には行くことができた。この日のマヘルは新しい曲でサイケ度高め。つづくマキーラ・ドーラも昨年観たときよりサイケデリック。どんよりどよどよ、いい意味で。テニスコーツはドラマーになんと二階堂和美。夕暮れ時にご飯のニオイが加わるくらいの反則技ですよ。バイバイの前にでんぐり返しするくらい無邪気なサウンドは相変わらず。会場でニュー・アルバムも購入。マヘルやテニスコーツを従えたビル・ウェルズは音楽教室みたい。ウェルズ先生が告げる曲の番号に従ってみんな楽譜を入れ替えするのが楽しかった。

0831maher.jpg
新兵器「バスーン」も高らかに。マヘル・シャラル・ハシュ・バズ

[ブログ風味]
田中角栄のお妾さん自伝
http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20040902/K0001201911029.html
リアル末永美鈴(『サラリーマン金太郎』)じゃん!

イスラエル支援企業リスト
http://palestine-heiwa.org/choice/list.html
元々ウザい会社ばかりだけど、インテル&マイクロソフトそれとネスレは困ったな。(のんきちさんのバカ日記で知りました)

2004/09/02

『華氏911』(後半)、あるいは方法としてのドキュメンタリー

(※以下は前回の書き込みの続きです。よろしかったらそちらを先に)

よって、そんな認定が必要どうかは別として『華氏911』は「ドキュメンタリー」ということができる。だがそれはあくまでジャンルとして、例えば「ツタヤでどの棚に置くか」というような意味での「ドキュメンタリー」である。
何が言いたいかというと、「ジャンルとしてのドキュメンタリー」とドキュメンタリーは別モノ、ということだ。妙な話ではあるが、このことは保坂和志が「一般的に小説と呼ばれるものの外側にある小説がある」というときの「一般的な小説」と「その外側にある小説」にそれぞれ対応させて考えればわかりやすいと思う。というかオレ自身、前から漠然と考えてたとはいえ保坂和志の小説論からのフィードバックでそのような確信を持てるように至ったわけで。例えば保坂和志が小説について述べている以下のような箇所、
「書き出したときの自分と書き終わったときの自分が変わっている、というのが小説なんだと思う。書いている最中の自分というのは、一種まだ自分がよく知らない書き終わったときの自分に向かって、書き終わったその自分が満足できるような小説を書いている。書く前の自分が青写真を描いてその通りにいったから満足という、書く前の自分のために書いているわけではなくて、小説というもの自体が、ただお話を伝えるものではなく、書く人も読む人も一緒になってその世界のその時間の中で考えるためのメディアなんです。」
「作者と読者は小説で何を共有するか」 (『InterCommunication』 No.44)
そうだよなあ、と一読して感じてしまうのだけども、これはやはり通常の小説の書かれ方とは異質なのではないか。オレは小説書きでもないし、そういう友人もいないので直接知ってるわけではないが、やはり小説というのははじめに伝えたいテーマなりプロットなりストーリーの骨格なりがあって、それを文章の技巧や描写で肉づけしていくというプロセスで書かれるもんなんじゃないだろうか。一般には。だけど保坂和志は(それは上の引用以外の小説論も読んだ上での感触だが)、書き進めていくことで作者自身に開けてくるもの、書く作業における作者の思考の跡が書かれた文字の連なりとして現れてくるもの、を掴みとるというプロセスについて語っている。一見同じ小説という体裁をとりながら、ここには大きな違いがある。この違いに関しては最近も仲俣暁生さんが「小説のイメージと小説の感触」という文章で触れていた。そして、ここで重要なのはどちらが真の小説かなどということではなく、仲俣さんも言うように、「少なくとも保坂さんが「小説」と呼ぶものと、彼らの書くものは違う」ということだ。さらに気になるのは保坂和志自身が小説をどのように実践しているかということになる。

ここで強引にドキュメンタリーの話に戻ってくる。ようするに上で引用した文章の小説の部分をそのままドキュメンタリーと置きかえたいと思うのだ。端的に言えば「わかっていることを撮るのではなく、撮ることでわかっていく」、それがドキュメンタリー。保坂和志がいくつかの小説論で語っている方法の水準からすればあまりにも稚拙な物言いだけど、まずはここから始めたい。なぜなら、例外はあるものの、TVドキュメンタリーなどでは結論・プロットありき、それに合わせて画を撮ってくるような方法論があまりにもはびこっているので。確かに予算やスケジュールの都合で仕方ない側面もあるのだが、むしろドキュメンタリーとはそういうものであるとまで言われた日には、あらかじめある結論・プロットを画で説明していくのならそれはドキュメンタリーではなく紙芝居です、とイヤミの一つも言いたくなる。ただそのような番組でもジャンルで言えば「ドキュメンタリー」ということになるのだからややこしい。そこで保坂和志が言うところの小説にあたるもの、それをジャンルとしての「ドキュメンタリー」と区別する意味で、「方法としてのドキュメンタリー」と呼んでみたい。

方法としてのドキュメンタリーと呼んでみることで一つ言えるのは、それがジャンルとしての「ドキュメンタリー」以外にも適用しうるようになるということだ。例えば北野武。撮影現場でぶっつけに近い形でプロットをつくり、またそれを編集の際に相当入れ替え差し替えして作品を組み立てていく要素が大きい北野映画には、ところどころ方法としてのドキュメンタリーの影を見ることができる。もちろん北野映画といえども台本の時点できっちり固められたプロットも少なくないだろう。つまりは一つの映画の中にフィクションの要素と方法としてのドキュメンタリーの要素が共存しうるということになる。もっといえばジャンルとして「ドキュメンタリー」と呼ばれる映画の中にもそういう共存はありうる。

最終的に重要なのは「保坂和志が小説をどのように実践しているか」であるとしたのと同じく、方法としてのドキュメンタリーもそれがどのように実践されているかが問われる。で、このことを考えるのに有効なのもやはり保坂和志の小説論だったりする。きっかけは以前に日記で書いた「ワイズマンと保坂和志」。あれ以来注意しながら読んでいるのだが、例えば仲俣さんも触れていたこの「〈私〉の濃度」。この回など、是枝裕和の映画がその方法論にも関わらず、どうして駄作にしかならないのかを考察するのにかなり有益だと思ったし、逆に例えばこの「第三の領域」という回などは諏訪敦彦(言うまでもなく是枝裕和が最も意識している監督であろう)が『2/デュオ』でいったい何に成功していたのかを鮮やかに浮かび上がらせてくれる。(というかこの回で直接触れられている映画自体『2/デュオ』のことのような気がしてならないのですが。もし知ってる方がいたら教えてください。すごく知りたいです。)

実践については具体的な映画に沿ってもっと検証していきたいところだが、そもそも『華氏911』の話であった。これはやはり結論ありきの紙芝居的な(ただしケレン味たっぷりの)「ドキュメンタリー」であったと思う。ただ一箇所、あれはすごいと思ったのが、9.11テロの瞬間、幼稚園を訪問してたブッシュの映像。テロ攻撃を知らされつつも絵本をめくるしかない米大統領。ムーアは小馬鹿にしたようなナレーションをかぶせるのみだったけど、あの映像が持つ意味を考えることを起点にした一本のドキュメンタリーがあってもいいと思えるほど魅力的な映像だった。
しかし、『華氏911』もといマイケル・ムーアの存在自体が刺激的であることは間違いない。考えるきっかけを与えてくれただけでも。折しも、今月半ばから「ドキュメンタリー・ドリーム・ショー」なるものが開催されるので、フレデリック・ワイズマンの『DV』やマイケル・ムーアの産みの親ともいえるケヴィン・ラファティの『アトミック・カフェ』あたりは是非とも観てみたい。