2004/11/10

チェルフィッチュ 「労苦の終わり」

木曜日、初チェルフィッチュ。間に合ったという感じ?(いまだ「新しがり」への強迫観念はあるわけです) でも、そういうトンガリとはもっとも遠いところにある真摯さだろう、これは。映画におけるリアルについて考えすぎるあまり、時間が飛躍するカットのつなぎにわざわざ「黒み」を入れてしまう諏訪敦彦のような。そして、奇しくも「労苦の終わり」の主題はその映画『2/デュオ』と同じく、「結婚」なのであった。

いくつかのシーンが多角的に、また役者を替えて何度か繰り返される。ときには「~というシーンをこれからやります」、「~とそのときは考えていたんですけど」といった状況を説明する語りが普通のセリフの中に侵入してくる。なにかに似ていると思えば、それは映画の撮影風景で、たしかに「結婚」というものがもたらす可能性やしんどさを演劇というリニアな時間の中に詰め込むという演劇的実験がそんなふうに見えるのは、けして不思議なことではないと思った。
周知のように、多くの箇所は何通りか撮影される。たとえばひとつの叫び声はさまざまなヴァージョンで収録され、編集者がそのうち一つを選ぶ。いわばそのうちでどれが最高記録かを確定するのである。したがって映画スタジオで演じられる出来事と、それに対応する現実の出来事との相違は、競技会の際に運動場で円盤投げをするのと、同じ円盤を同じ場所で同じ距離だけ、ただし人を殺すために投げるのこととの相違と同じである。第一のものはテストの成果であり、第二のものはそうではない。
(中略)
映画は、成果の展示可能性そのものをひとつのテストと化することで、テスト成果を展示可能にする。
(ヴァルター・ベンヤミン 『複製技術時代の芸術作品』)
セリフは言い淀みや矛盾を含みつつシームレスにだらだら続いていく感じが「超リアル現代口語」なんて言われたりもしてるようだけど、そんなやつは実際にはいないという意味でもっとヘン。身体の方は話すときの癖や仕草(手をやたらブラブラさせたりとか)をデフォルメ。でもニブロールみたいに神経質な感じではない。BGMでほのかにビーチボーイズが流れてて、これまたヘンでグッド。

岡田さんはその演劇論で「なによりも俳優はイメージを強く持たなければいけない」「常に俳優の身体の中には、イメージ、仕草、言葉、の順で表れるのでなければならない」と書いている。仕草、言葉の源泉としてのイメージ。もちろん感情もイメージに付随するものとしてしか存在しない。これは保坂和志がその小説において「<私>の濃度」をあくまで私が感受する世界に限定するやり方に通ずる、というか岡田さんの演劇論自体、保坂和志の小説論の影響を多大に受けているのは間違いない。(もちろん序文にある「すぐに手放すように」という一文はその言葉の意味とは裏腹に、重い。)
あと意外にもかわなかのぶひろの『私小説』にも近い感触あり。

五反田団に続き、また一つ次が楽しみな劇団がふえました。