2004/09/02

『華氏911』(後半)、あるいは方法としてのドキュメンタリー

(※以下は前回の書き込みの続きです。よろしかったらそちらを先に)

よって、そんな認定が必要どうかは別として『華氏911』は「ドキュメンタリー」ということができる。だがそれはあくまでジャンルとして、例えば「ツタヤでどの棚に置くか」というような意味での「ドキュメンタリー」である。
何が言いたいかというと、「ジャンルとしてのドキュメンタリー」とドキュメンタリーは別モノ、ということだ。妙な話ではあるが、このことは保坂和志が「一般的に小説と呼ばれるものの外側にある小説がある」というときの「一般的な小説」と「その外側にある小説」にそれぞれ対応させて考えればわかりやすいと思う。というかオレ自身、前から漠然と考えてたとはいえ保坂和志の小説論からのフィードバックでそのような確信を持てるように至ったわけで。例えば保坂和志が小説について述べている以下のような箇所、
「書き出したときの自分と書き終わったときの自分が変わっている、というのが小説なんだと思う。書いている最中の自分というのは、一種まだ自分がよく知らない書き終わったときの自分に向かって、書き終わったその自分が満足できるような小説を書いている。書く前の自分が青写真を描いてその通りにいったから満足という、書く前の自分のために書いているわけではなくて、小説というもの自体が、ただお話を伝えるものではなく、書く人も読む人も一緒になってその世界のその時間の中で考えるためのメディアなんです。」
「作者と読者は小説で何を共有するか」 (『InterCommunication』 No.44)
そうだよなあ、と一読して感じてしまうのだけども、これはやはり通常の小説の書かれ方とは異質なのではないか。オレは小説書きでもないし、そういう友人もいないので直接知ってるわけではないが、やはり小説というのははじめに伝えたいテーマなりプロットなりストーリーの骨格なりがあって、それを文章の技巧や描写で肉づけしていくというプロセスで書かれるもんなんじゃないだろうか。一般には。だけど保坂和志は(それは上の引用以外の小説論も読んだ上での感触だが)、書き進めていくことで作者自身に開けてくるもの、書く作業における作者の思考の跡が書かれた文字の連なりとして現れてくるもの、を掴みとるというプロセスについて語っている。一見同じ小説という体裁をとりながら、ここには大きな違いがある。この違いに関しては最近も仲俣暁生さんが「小説のイメージと小説の感触」という文章で触れていた。そして、ここで重要なのはどちらが真の小説かなどということではなく、仲俣さんも言うように、「少なくとも保坂さんが「小説」と呼ぶものと、彼らの書くものは違う」ということだ。さらに気になるのは保坂和志自身が小説をどのように実践しているかということになる。

ここで強引にドキュメンタリーの話に戻ってくる。ようするに上で引用した文章の小説の部分をそのままドキュメンタリーと置きかえたいと思うのだ。端的に言えば「わかっていることを撮るのではなく、撮ることでわかっていく」、それがドキュメンタリー。保坂和志がいくつかの小説論で語っている方法の水準からすればあまりにも稚拙な物言いだけど、まずはここから始めたい。なぜなら、例外はあるものの、TVドキュメンタリーなどでは結論・プロットありき、それに合わせて画を撮ってくるような方法論があまりにもはびこっているので。確かに予算やスケジュールの都合で仕方ない側面もあるのだが、むしろドキュメンタリーとはそういうものであるとまで言われた日には、あらかじめある結論・プロットを画で説明していくのならそれはドキュメンタリーではなく紙芝居です、とイヤミの一つも言いたくなる。ただそのような番組でもジャンルで言えば「ドキュメンタリー」ということになるのだからややこしい。そこで保坂和志が言うところの小説にあたるもの、それをジャンルとしての「ドキュメンタリー」と区別する意味で、「方法としてのドキュメンタリー」と呼んでみたい。

方法としてのドキュメンタリーと呼んでみることで一つ言えるのは、それがジャンルとしての「ドキュメンタリー」以外にも適用しうるようになるということだ。例えば北野武。撮影現場でぶっつけに近い形でプロットをつくり、またそれを編集の際に相当入れ替え差し替えして作品を組み立てていく要素が大きい北野映画には、ところどころ方法としてのドキュメンタリーの影を見ることができる。もちろん北野映画といえども台本の時点できっちり固められたプロットも少なくないだろう。つまりは一つの映画の中にフィクションの要素と方法としてのドキュメンタリーの要素が共存しうるということになる。もっといえばジャンルとして「ドキュメンタリー」と呼ばれる映画の中にもそういう共存はありうる。

最終的に重要なのは「保坂和志が小説をどのように実践しているか」であるとしたのと同じく、方法としてのドキュメンタリーもそれがどのように実践されているかが問われる。で、このことを考えるのに有効なのもやはり保坂和志の小説論だったりする。きっかけは以前に日記で書いた「ワイズマンと保坂和志」。あれ以来注意しながら読んでいるのだが、例えば仲俣さんも触れていたこの「〈私〉の濃度」。この回など、是枝裕和の映画がその方法論にも関わらず、どうして駄作にしかならないのかを考察するのにかなり有益だと思ったし、逆に例えばこの「第三の領域」という回などは諏訪敦彦(言うまでもなく是枝裕和が最も意識している監督であろう)が『2/デュオ』でいったい何に成功していたのかを鮮やかに浮かび上がらせてくれる。(というかこの回で直接触れられている映画自体『2/デュオ』のことのような気がしてならないのですが。もし知ってる方がいたら教えてください。すごく知りたいです。)

実践については具体的な映画に沿ってもっと検証していきたいところだが、そもそも『華氏911』の話であった。これはやはり結論ありきの紙芝居的な(ただしケレン味たっぷりの)「ドキュメンタリー」であったと思う。ただ一箇所、あれはすごいと思ったのが、9.11テロの瞬間、幼稚園を訪問してたブッシュの映像。テロ攻撃を知らされつつも絵本をめくるしかない米大統領。ムーアは小馬鹿にしたようなナレーションをかぶせるのみだったけど、あの映像が持つ意味を考えることを起点にした一本のドキュメンタリーがあってもいいと思えるほど魅力的な映像だった。
しかし、『華氏911』もといマイケル・ムーアの存在自体が刺激的であることは間違いない。考えるきっかけを与えてくれただけでも。折しも、今月半ばから「ドキュメンタリー・ドリーム・ショー」なるものが開催されるので、フレデリック・ワイズマンの『DV』やマイケル・ムーアの産みの親ともいえるケヴィン・ラファティの『アトミック・カフェ』あたりは是非とも観てみたい。