2004/08/30

『華氏911』(前半)

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地元の映画館のレイトショーで『華氏911』を観た。多少なりともドキュメンタリーに関わる者としてはなんとも微妙な映画であった。その理由はこの映画がブッシュ再選阻止のためのプロパガンダであるとか、客観性・中立性・公平性に欠く、などということとはまったく関係がない。プロパガンダである以上、マイケル・ムーアやこの映画に感応する人たちにとってはドキュメンタリーとしての出来などより次の大統領選の結果こそが最も重要な問題だろうし、また客観性・中立性・公平性なんてのはドキュメンタリーにとってすら足かせでしかない。ドキュメンタリーは報道ではない。むしろ主観的表現こそその旨とするべきものなのだから。

微妙といったのはもっと別の理由。それは『華氏911』現象にドキュメンタリーを巡る二重のねじれの典型を見るからだ。

例えば岡田斗志夫のこのような批判。抜粋ではあるが対談の中で岡田氏は1カメなのにカットバックになるのはおかしい(時間を操作してるか、もしくはそこだけ2カメになっている)、ドキュメンタリーとしてフェアじゃない、という切り口でムーアを批判する。ここでは『ボウリング・フォー・コロンバイン』の一シーンを槍玉にあげているが、編集や撮影における恣意的な操作のことを指してるという意味では『華氏911』にも同じようなシーンはいくつか見受けられた。しかし、である。ムーアの作品に限らず、ドキュメンタリーに対してそのような批判はまったく意味をなさない。岡田氏の1カメ発言の前提には「ドキュメンタリーとは現実をありのままに切り取るものだ」という考えが見受けられるが、それは違う。ドキュメンタリーにおける現実は「再構成された現実」だ。たとえ「ありのままの現実」などというものが撮れたとしてもそれはただのショットの集積=記録にすぎない。それに、そのショットにしたってある恣意的なアングル、サイズのもとで収穫されるわけで、どうしたってそこには撮影者の主観が入り込まざるをえないだろう。またカメラが被写体に与える影響というものも無視できない。カメラの存在はそれだけで十分現実を左右する変数となりうる。「“それ”を撮るのではなく、カメラがあるからこそ“それ”が起こる」という原一男の方法論などはその変数を極大化したものといえる。
オレのなまくらな説明ではまどろっこしく思われるかもしれないが、識者・岡田氏にして1カメのカットバック云々と言わせてしまうほどにこの誤解は根深い。だいたい小川紳介だってフレデリック・ワイズマンだってあの1カメのカットバックをやっている。ガンガンやってる。なにせそれはドキュメンタリーの基本といってもよい編集方法だから。もちろん同録にこだわったり、インサートやカットバックを排除するという手法をとる監督だっているが。いずれにせよドキュメンタリーにおいて重要なのは「ありのままの現実」などという幻想ではなく、作家自身が「どのように現実をみているか」ということを提示すること、そのために「再構成した現実」を提出すること、なのだ。このことについては以前、ワイズマンに関連して書いたとおり。そして、『華氏911』に照らしてみるなら、マイケル・ムーアは、自分が「どのように現実をみているか」ということを見事に提示してみせているといえる。『ボウリング・フォー・コロンバイン』しかり、である。

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